木を植えた男〜4〜

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 1939年まで、森林は被害をこうむらなかったのです。ところが、その年に第二次世界大戦が始まりました。自動車は、当時まだ木炭ガスで走っていたので、木材が大量に必要になってしまいました。そこで、1910年に植えたカシワの木から、伐採の手がつけられたのです。ところが、自動車道から遠くて、会社は採算が合わないとのことで伐採をあきらめてしまいました。

 そんなことは、この老人は何も知りませんでした。そこから30キロも離れたところで、相変わらず、至極平和に仕事を続けていたからです。第一次大戦時と同様、第二次大戦中も、彼は黙々と木を植え続けたのです。「わたし」が、最後にアル・ブフィエ氏に会ったのは、1945年7月ことでした。彼は87才になっていました(注:「わたし」が出会って32年が経過しているのです!)。戦争による破壊の爪痕の残る荒涼とした道を辿っていました。

 その頃、デュランスのた谷間を、長距離バスが走っていたのです。昔歩いて通った場所が、すっかり変わったのは、その橋がスピードを上げて走るせいと思われたのです。道筋を間違えたかと不安に思うほどでした。バスから降りたところは、ヴェルゴンという村でした。1913年当時、この村には11、2軒の家があり、住んでいたのは三人の粗野な人だけでした。彼らがいがみ合いながら暮らしていたのです。未来への夢もなく、気品や美徳を育むような環境でもなく、彼らはただ死を迎えるために生きていたようでした。

 ところが今はすっかり、空気までほこりっぽい風のかわりに、甘い香りのそよ風がまわりを包むように変わっていました。山のほうからは、水のせせらぎの音が聞こえてきたのですが、それは森にある木々のさざめきの声だったわけです。水音も聞こえてきたのですが、それはなみなみと水をたたえる噴水からの音だったのです。さらに驚いたのは、そのそばに一本の菩提樹が植えられていました。葉の茂り具合によると、四年ほど経っていて、「この地の再生の象徴」のようだったのです。

 さらに、ヴェルゴンの村には、「未来への夢」とか「労働への意欲」がみなぎっているではありませんか。新しく五軒の家が建てられていました。村の人口も、28人に増えていたのです。その中には、四組もの若夫婦もいます。しっくいに塗られたばかりの家々は、菜園に囲まれていて、さまざまな草花が植えられていたにです。そこに、「わたし」は住んでみたいと思うほどでした。

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 踊り出したいような弾む足取りで、「わたし」は先へと道を急ぎます。「生命の息吹」は、父位からほとばしりでていたのです。見渡すばかりの山の裾野には、青い穂麦の畑が広がって、こころをなごませていまあう。狭い谷間には、緑の牧草が映えて、見下ろせています。わずか8年ほど経っただけなのに、「生気とやすらぎ」が村々にみちあふれています。幸せとくつろぎを生む、みごとな耕地に変わってしまったのです。

 古くからある源の水が、森がたくみに調節したのでしょう、あめや雪どけの水をほどよく加えて、流れがとうとうと水を押し流しています。それを村人はせきとめて水路をつくり、その新鮮な水を田やハッカ畑に送り込んでいるのです。

 村々が再興していきます。平地に住んでいた人々が、そこに移住してくるほどで、この一帯に、「若さと冒険心をもたらした」ほどです。若い男女の笑い声や喜びの声が上がっています。昔の住人は、いがみ合っていたのに、今やみなさんが生活を楽しんでいるのです。そこには一万人以上の人たちが、その幸せを、エルゼアール・ブフィエ氏に感謝しなければならないはずです。

 たった一人の男が、肉体と精神をぎりぎりに切りつめて、荒れ果てた地を、幸いな地としてよみがえらせたことを思う時、「私」は、やはり人間の素晴らしさ讃えずにはいられないのです。「魂の偉大さのかげにひそむ、不屈の精神」、「心の寛大さのかげにひそむたゆまない熱情」、それらがあって、はじめてすばらしい結果がもたらされるのです。この「神の行いにもひとしい創造」をなしとげた名もない老いた農夫に、「わたし」は、かぎりない敬意を抱かずにいられないのです。

 1947年、エルゼアール・ブフィエ氏は、バノンの養老院において、やすからかにその生涯を閉じました。(おわり)

 ✴︎ 「わたし」の括弧や、丁寧語の表現も、ひらがなを漢字にしてしまったり、訳文を転載する時に、ブログ執筆者の私が勝手に変えています。ぜひ、お読みください。名のない羊飼いの後半生に、挑戦されています。映画化されてもいますので、youtube で鑑賞できます。
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