揚げ足を取る

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  「揚げ足を取る」を、広辞苑でみますと、『相手が蹴ろうとしてあげた足を取って逆に相手を倒す意から、相手の言いそこないや言葉じりにつけこんでなじったり、皮肉を言ったりする。 』とあります。相撲の技の手の一つですが、豪快な上手投げとか呼び戻しなどに比べると、小技と言えるでしょうか。相撲の勝負にしろ、人間関係にしろ、姑息(こそく)なことだと言えるでしょうか。

 麻生太郎元首相が、国語力の弱さを糾弾されていたことがあります。学習院大学を出て、スタンフォード大学に留学した学歴を持っていても、語彙力が足りなくて、マスコミから何度となく槍玉に上げられていました。非難する新聞記者は、言葉に仕え、言葉で生きている業界人ですから、語彙力が豊富であって当然ですが、それを威の傘に、間違いを糾弾するとは、実に姑息で、卑怯な方便だといえます。かたや首相たる麻生太郎は、国政を預かる身です。漢字を読み違えたり、語り違えても、国事に当たる能力に関係があるのでしょうか。それだったら、国語学者が政治家にならなければなりません。

 NHKのベテランアナウンサーでも、時には間違いをすることもありますし、いわんや新人アナウンサーでしたら、ちょくちょくあるようです。この私も、覚え間違い、書き順間違いの漢字が沢山あります。何時でしたか、「にいがた」という字を間違えて書いていました。『広田さん、にいがたの「かた」の字が違うと思うのですが?』と指摘されたのです。彼女は、私を陥れようとしたのではありません。間違いを訂正してくれたのです。その時から、「新潟」の「潟」の字を正しく書けるようになったのです。小学校の時に、きっと病欠で休んでいて覚えなかったのでしょうか。40を超え、次男が新潟の高校に入学した頃のことだったと思います。彼が新潟に行かなかったら、覚えないまま今日にいたっていたのだろうと思います。語彙力と人格、語彙力と行政能力と、ほんとうに相関関係があるのでしょうか。

 一国のリーダーを揶揄し、侮辱し、すなわち、「揚げ足取り」をしていることは悲しいことではないでしょうか。子どもたちに、『日本の国のリーダーは馬鹿なんだ!』と教えていることになります。そのようなことですから、日本の国を愛し、国を思う思いが、この時代の子どもたちのうちに育たないのではないでしょうか。ある国で、女性が、姦淫の現場で捕まえられました。その罪は「石打ち刑」だったのです。ひと騒動起こったとき、ある人が、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と言いました。すると彼女を取り巻いていた人のうち、年長の者からはじめて、一人一人その現場を去っていくのです。人を糾弾し、避難できる人は、間違いを犯したことのない者だけだというのが、この物語の伝える1つの原則です。だれが麻生元首相を非難できるのでしょうか。できるのは金田一京助か白川静ならできそうですが、お二人とも物故者です。

 先日も、ある閣僚が、〈問題発言〉をしたと言って、マスコミが騒いでいました。この方の友人が東日本大震災の津浪で亡くなったです。その彼を、『逃げなかったバカな奴!』と言った言葉がマナ板の上にのせられたのです。私は、この言葉を聞いたときに、〈反語〉だと思ったのです。『あいつは馬鹿だよ、逃げていれば助かったのに。逃げないで余計なことをしたからだ。惜しい友を失った。残念!』という風に聞こえたのですが。正しいのかどうか分かりませんが、私は善意で聞くことができたのです。閣僚のポストは、そんな一言で失うほど軽いものなのでしょうか。支持しようが支持しまいが、一国の閣僚の任に当たっている方への〈敬意〉が全く感じられないのです。もちろん、私は以前の首相のあり方に賛同できませんで、批判をしましたが。それは、国を憂えたからであります。揚げ足をとったのではないと確信しています。

 〈言葉の暴力〉、この時代のマスコミがしていることではないでしょうか。私たちの国の首相の在位期間が非常に短く、めまぐるしく政権が交代する裏に、マスコミの関与が強力にあるように感じてなりません。どうして、国民の総意として選ばれた人材を育てていこう、支えていこうとしないのでしょうか。私は前の首相は好きではなりませんでしたが、選ばれたからには支えていこうと決心しました。しかし、器ではなかったことは、誰もが認めざるをえない露呈された自明の事実だったからです。

 昔、小兵(こひょう)の鳴門海とか若葉山が、高位の巨漢の横綱や大関の足をとって、勝った相撲がありました。あれは小気味の良い足取りでしたから、賞賛に値しますが、言葉尻を取り上げての姑息な〈揚げ足取り〉は大っきらいです。マスコミの猛省を促す!

(写真は、江戸期の大相撲の錦絵です)

ジョージ

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 「和製」という言葉があります。goo辞書によりますと、「日本でできたもの。日本製。国産。ex.―プレスリー」とあります。1958年、中学の頃でしょうか、有楽町の駅のそばにあった「日劇」を舞台に、大ブームを起こしたコンサートが開かれていました。若者たちの間で人気があったのが、〈ロカビリー〉という歌です。それは、アメリカの若者の間で爆発的な人気を博した音楽で、ポール・アンカ、ニール・セダカ、コニー・フランシスなどがいました。彼らの歌った歌を、未だに口ずさむことができるのです。と言っても、このブームに、心を大きく揺り動かされわわけではなく、中学ではバスケット・ボール、高校ではハンド・ボールの練習に精出していましたが。日本に上陸したロカビリーは、「日劇ウエスタンカーニバル」として若者の魂をとらえたのです。当時、多くの若者を憧れさせた歌手たちの中には、平尾昌晃(「リトル・ダーリン」が持ち歌、これは日本人の作詞作曲です)、山下敬二郎(ポール・アンカの「ダイアナ」が持ち歌)、ミッキー・カーチスといったロック歌手がいました(兄たちの世代でした)。ウエスタンソングではなく、ロックサウンドでした。アメリカ仕込みの文化が、「和製」となって、受け入れられ、演奏され歌われていたのです。

 いつの時代でも、若者が好むのは、激しさ、速さ、意外さではないでしょうか。あの世代の若者も、はや60~70代になっていますから、今活躍している「SMAP」や「嵐」は、彼らの孫、いや子の世代になるでしょうか。今のグループの人気に比べたら、想像もつかないほど大きかったのではないでしょうか。米の代わりにパン、味噌の代わりにピーナッツバターやいちごジャム、大福の代わりにケーキ、ラムネの代わりのコーラに大きく変化していく時代の到来でしたから、大人たちをやきもきさせていたのです。

 そんな彼らの世代の少し後に、「柳ジョージ」という歌手がいました。先日病に倒れて亡くなられましたが。その彼が歌った「テネシーワルツ」が素晴らしかったのです。それはテレビの「ミュージックフェアー」という番組で、江利チエミとコラボレーションで歌われた歌です。江利チエミが亡くなる数ヶ月前の出演ですから、1981年の暮だったと思います。十代の前半では、このロックに関心をよせはしましたが、その後、ロックの麻薬臭さが気になって好きではなくなったのです。なぜかといいますと、折にふれて父に聞かされていた〈麻薬(当時は覚醒剤を”ヒロポン”と呼んでいました)の怖さ〉を知らされていましたので、自らをそれに遠ざけたかったのです。この彼は麻薬臭くなく、ただ直向(ひたむ)きに、歌を愛して歌う姿に心が揺すぶられたのです。あの地味さがよかった!今でも、中国のサイト〈優酷youku〉で見聞きすることができます。うるささを感じないロックといったらいいでしょうか、『彼のようなロックだったら、聴ける!』と思わされたのです。彼も60歳を超えていたのですね。ご両親が広島の原爆の被爆者だったそうで、そんな関係ででしょうか、私よりも3学年ほど下でしたが、もう召されてしまいました。

 この柳ジョージを、「和製エリック・クラプトン」と呼んだそうです。彼の歌のジャンルのロックは、アメリカのアフリカ系の人たちが歌い始めた歌で、ジャズやワルツやゴスペルと同じ起源なのでしょうか。奴隷として虐げられた者たちが、魂の解放と、虐待された身分からの自由を求めて歌われた、魂からの叫びが、そのメロディーの中にあります。ミーちゃんハーちゃんの好みですが、ルイ・アームストロング(”サッチモ”と呼ばれていましたが)やナット・キングコールのジャズも好きでした。柳ジョージは、土佐藩の城主の山内容堂を題材にして、ロック調で歌っていたりした、破格のロック歌手だったのです。酒飲みで、いつも酔っていた容堂を歌ったことは、禁酒のためには貢献したのではないでしょうか。ちなみに、容堂は46歳で長年の痛飲が原因して死んでいます。

 麻薬にも酒にも縁遠く、仕事や使命をいただいて、今をまだまだ元気で生きることができて、何と感謝なことでははないでしょうか。今日も、マウンテンバイクを転がしながら、秋の風を頬に受けて、近くの〈テスコ〉というスーパーマーケットの3階にある、「飲食コーナ」でアメリカン・コーヒーを飲みなが、作文の添削をしました。スターバックスに行くより近く、さらに安くてすみます。そんな私のところに、送迎バスにゆられて家内がやって来て、何と、エスプレッソを注文していました。一杯8元のちょっとした贅沢でした。今まさに心身ともに心地好い、たけなわの秋十月であります。

 そういえば、私のもう一人の師匠も、ジョージさんでした。

(写真は、「エスプレッソ」のコーヒーです)

貫禄


 『近頃の政治家は貫禄が無い、とよく聞くが、もっともなこと、当たり前のことでは無いか。貫禄のつく経験をまったくしていないからだ。楽だけしてきた政治家に貫禄は無理。無い物ねだりである。』と、私の愛読しているブログにありました。「貫禄」を、goo辞書でみますと、『からだつきや態度などから感じる人間的重みや風格。身に備わった威厳。「―がつく」「―がある」「―十分だ」』とあります。なぜ、最近の政治家は、そうなのかといいますと、この方は、『貫禄がつく経験をしていないからだ!』と結論しています。「塗炭の苦しみ」という言葉があります。これは、「ことわざ図書館」によりますと、『非常に苦しいこと。 大変な困難の中にあること。 塗は泥の意で、炭は火の意。 泥にまみれ火に焼かれるようなひどい苦しみから。 』とあります。あまりにも恵まれすぎて、冷水をくぐるような苦難の体験を通ったことがない、すなわち途端の苦しみをなめたことがないと、人に、「貫禄」が備わらないようです。

 これは、政治家だけに限られたことではありません。人としての重みが欠けているのが、現代人の一つの傾向、特徴なのかも知れません。風貌とか顔つきが、いかつくて怖そうだから貫禄があるのではありません。それは、ただ格好を付けていて、貫禄があるかのように振舞っているだけなのです。生活を通して、これは自然に身につく風格に違いありません。潤沢に物が備えられ、たらふく食べ、高等教育も当然のように受け、衣食住で苦しんだ経験がない人には、やはり貫禄がつかないのかも知れません。

 明治の軍人に乃木希典がいました。この方は、講談や浪曲でも語られるほどに、人間味、人情味のある人だったようです。東屋三楽という浪曲師が、「乃木将軍と太平」という演題の浪花節を語っています。信州の塩尻から出てきた太平(たへい)が、にわか雨の中で、乃木将軍に傘に入れてもらいながら宿に着くのです。このまま別れては申し訳ないと、一緒にお茶を飲もうと誘います。その誘いに応えて二人は、暫くの交わりを太平の投宿先で持ちます。自分の身の上を語る中で、長男は旅順の戦で戦死、次男は武勲を上げて〈金鵄勲章〉を貰って、今は退役し塩尻にいること、三男は近衛兵として「近衛連隊(天皇を警護するへ舞台)」で軍務についており、その三男の招きで上京し、面会に来たと告げます。帰りには、お国自慢の栗羊羹を、奥様にと土産にして手渡すのです。

 この太平は、それとは気づかずに乃木将軍(この時には退役して、学習院の院長をしていたのですが)に、このように軽口を叩くのです。『似てる!』と思いながら、太平には見破れないほど、乃木大将が謙遜な方だったからでしょうか。この前日には、名だたる大将の家を見学するのですが、乃木将軍の住まいに驚いています。あまりにも相応しからぬ、お粗末な〈おんぼろ屋敷〉住まいだったからです。帰国の後に、天皇に報告するための參内(さんだい)の折、他の武勲を上げた大将たちは馬車仕立てでしたが、乃木将軍は、愛馬の背に一人で皇居に参ったのです。『手柄を上げたのは私だけではない!』と言って、命を任せ従軍した軍馬にも功があったとして、『誉れを半分やりたい!』と、愛馬もろともに参内したのです。

 太平と別れて、家に帰った大将は、書生を遣わして自分の家に太平を招きます。あの話し相手が、自分の息子が出陣し戦死したときの将軍、乃木大将だとわかった太平は、彼は恐縮しながら、その家を訪ねるのです。乃木将軍もまた、二人の息子を、その時の戦で失っていたのです。将軍は、時間があれば戦死者の遺族を訪問し、『乃木があなた方の子弟を殺したにほかならず、その罪は割腹してでも謝罪すべきですが、今はまだ死すべき時ではないので、他日、私が一命を国に捧げるときもあるでしょうから、そのとき乃木が謝罪したものと思って下さい。 』と、語ってていたそうです。

 明治期の大人の男子の身長(17歳男子ー明治33年・158cm、平成17年・171cm)に比べても、この乃木将軍は短躯な人だったそうです。目も不自由で、住む家も粗末で、人柄が謙遜でしたが、威厳に満ち、〈貫禄〉の十二分な人だったと語り継がれています。困難や失敗や挫折を厭わずに、命がけで雄々しく生きるならば、二十一世紀の男子でも、この〈貫禄〉を身につけることができるに違いありません。私は、口ひげを三度ほど生やしたことがありましたが、童顔はどんなことをしても駄目でした。それでも、『もう少し〈貫禄〉がついたらいいのだが!』と願う、晴天の秋の午後であります。

(写真は、太平の故郷、信州・塩尻市の「奈良井宿(中山道)」です)

幸福度

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 これまで、「幸福論」を書き著した人がたくさんいるのですが、それは取りも直さず、『人は誰もが幸せになりたい!』ということと、『だれも幸せの境地に達していない!』という結論になるのでしょうか。なんだか蜃気楼のようなもので、近づくほどに遠のいてしまい、煙のようにつかむことのできないものだというのでしょうか。

 南カリフォルニア大学教授のリチャード・イースタンが、『幸せをもたらす要因は、愛する者との質の高い時間、健康、友人、楽観人生観、自制、高い倫理基準を保つことです!』と、報告しています。これは、1975年以降、1500人/1年間の長年にわたる調査結果によるものです。この調査報告を読みますと、6つの条件を満たすことによって、人は幸福になることができそうです。これを要約しますと、〈時と人と自分を大切にすること〉が、幸せになるための要点になるのでしょうか。

 家内のおばあちゃんが、『人生って、「こんにちは!」を言ったら、もうすぐに、「さようなら!」を言わばければならないよ!』と言ったそうです。自分の生きてきた方を振り返って見ても、なんと時間の経つことが速いことでしょうか。立川の超満員の映画館で、大人たちの背中が邪魔でスクリーンが見えなかったときに、『早く大人になりたい!』と本気で思いました。タバコを吸ったりお酒を飲んだりして、早く大人になりたくて、背伸びばかりしていた中学3年くらいで、ほぼ大人並みの身長173センチメーターになりましたから、背格好だけは大人になりつつありましたが、肝(きも)は小さくて幼く、まだまだ未熟な自分を強烈に感じていました。

 『もっと確り勉強しておけばよかった!』と、後になって悔やむような学生時代を過ごしました。中高の恩師の紹介で、社会人になり、一人前の顔をして、あちこちと出張して、本物の大人の社会に突入したのです。そして、ついに一人の「佳人(かじん)」と出会って結婚し、子どもが四人与えられて、二人で夢中で育てました。かつて親にしてもらった様に、自分に養育を委ねられた子どもたちにもしてあげることに責任を感じたのです。下の息子が二十歳になったときに、『親がすべき義務は果たし終えた!』と思ってみました。それでも、大人になっていく四人の相談に乗ったりしていましたから、親子の交わりは、親である私たちにも子どもたちにも必要でしたし、これは子どもたちがいくつになっても変わることにない、〈親子関係〉に双方があるからなのでしょう。

 子育て中ほど、充実していた時代はなかったのではないでしょうか。もちろん仕事をしながら、父親としての責務を遂行していたのですが、夕には疲れて熟睡し、朝には目覚めて新しい日の責任を負いながら、日を重ねていたのです。私は疲れれば、車を走らせて山奥の温泉につかったり、蕎麦やうどんを頬張りに行ったりして、気分転換をはかる機会もありました。ところが家内は、四人分のオシメの洗濯を重ね、三度三度の食事を用意し片付けるという、とてつもない同じような日々を積み重ねて(もちろん四人の子どもたちの成長を実感する喜びはあったのですが)、まあ息をつく暇さえなかった30年だったのです。『申し訳ない!』、『女、いえ母親は強いなあ!』、というのが家内を見ての率直な思いでした。


 そんな家庭でしたが、人の出入りが多かったのです。一時は十人くらいで、一緒に生活をしていたこともありました。『あの人たちは、今、何をしているんだろう?』と、消息のわからない方が何人かいて、少々気がかりです。タバコも酒も飲まず、悪い遊びをしないで過ごした日々は、まあまあ質の高い日々だったでしょうか。友人も、中国にも日本にもアメリカにも、そこそこいますし、健康であったと言えるでしょうか。39才の時に、ドナーとして腎臓の摘出手術をしたり、屋根から落ちて肋骨を折って入院したり、自転車で転倒して腱板断裂で入院したことはありましたが、総じて健康だったと思います。まあ〈短気〉は、どうも治りきらなまま持ち越してきていますから、この「自制」は落第点かも知れません。これだって、『正直だから腹がたつんだ!』と自己弁護の内です。家内に厳しいことを言って気まずい時も、寝て起きると忘れるてしまっているので、楽観主義者(被害を被った家内は気の毒ですが)だと思っています。最後の「高い倫理基準」は、若い日に、師匠と師匠の友人たちから、徹底的に叩き込まれましたから、心の戦場では、金と女と名誉との激烈な戦闘を繰り返しながら今日を迎えていますから、まあまあ及第でしょうか。ただし、これは自分の意志の強さなどではありません。

 そうしますと、イースタン説によって、総合点で合格すれすれ、まあまあ幸福な生き方を、これまでしてくることができ、これからも、幸せを噛みしめることができるのではないか、そう自負しております。こんな自己点検を、今日はしてみました。青い鳥が運んでこなくても、ごく至近、自分の心の内に、幸せって小さくあるのではないでしょうか。

(写真上は、廃駅になった「幸福駅」の表示版、下は、「小さなことを喜ぶ」です)

不肖

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 10月10日は、日本では「体育の日」。生まれ故郷では、「駆けっこ」のことを「跳びっこ」と言った。村の秋の運動会で、就学前の代表に選ばれて部落対抗のリレーに、就学前のランナーとして出場したのである。収穫を終えた村では、祝祭の日でもあるかのような喜びが満ちていた。蓄音機の上の黒く光って回るレコード盤から、『赤いりんごに唇寄せて・・・・』と言う流行歌が流れていた。村で唯一の会社で、軍需産業に従事していたからであろうか、〈親の七光り〉での選出だったのである。ところがスタートの号砲に驚いた私は、漫画の出来事のように、みんなと反対に向かって走ってしまって、一番びりに逆貢献してしまったのだ。俊足だった兄たちは、足のろい私を囲んで、悔しがって頭を小突いたのである。それ以来、部落でも学校でも、私は代表選手になったことがない。

 そんな私を、父は、特愛してくれた。小学校に入学する私のために、日本橋の三越で、帽子から靴まで一切を買い揃えて、山奥の我が家に送らせたのである。なんと靴は、足型をとっての特別注文だった。それで身を飾った私の写真が、残っている。写真屋を呼び寄せてとらせたのである。ところがである、入学間近になって、肺炎を患った私は、町の国立病院に入院してしまい、入学式で父を喜ばすことができなかったのだ。だから写真は、退院して病み上がりの私を写したものである。入院中に退屈した私は、母にはさみを持ってきてくれるように頼んだ。実によく切れるはさみだったので、何でも切りたくなった私は、毛布や布団まで切り刻んでしまったのだ。母は、そんな私を叱らなかった。

 父には拳骨をされたことがあったが、母に叱られた記憶はまったくない。兄弟姉妹のいなかった母は、後年、『娘がいたら自分の出自を語れたのだけど、男の子たちには語れなかった!』と、回顧録に書いているから、娘が欲しかったのだろう。母は、父に男の子を4人産んだ。父も入れると5人のヤンチャな男の子を、母は育てたことになる。洗濯機も炊飯器も水道もない時代だったのだから、洗濯や食事の用意は大変だったに違いない。愚痴をこぼさなかったし、嫌がることもない。育って行く4人に、いや5人に献身的に仕え続けてくれた。ある時、上の兄に、縄跳びで遊んでいたときに、地面にたたきつけられたことがあった。大声で泣きじゃくって家に飛び込んで行った私を、声を聞きつけて玄関の上がりがまちで待っていた母は、私を両脚の間に入れて、頭を撫でて抱え込んでくれた。その優しさで、痛みがいっぺんに飛んでいってしまったのである。

 溺愛の子、兄たちより父に特愛された子は、我儘で苦労することになった。これがなかなかの強者で、なかなか治らないのである。どんなに苦労したことか、見かねた父が、多摩川の岸に小学校4~5年の私を連れていき、二人のところでお説教をしてくれたのである。その諭しの効果でだろうか、私はすこしずつ変えられていくのである。しかし、愛された子には、特別な恵みがあるのだと思う。愛されて育った者には、心の安定があるのかも知れない。そんな変な確信があって、ここまで生きてこられたのだ。肺炎、落雷、水難、落下、自動車事故、転倒、様々な死の瀬戸際をくぐり抜けても、生きてこれた。『家族で一番早く死ぬのだろうか?』と思っていた私だったが、今日まで生きてくることができた。父は、私たちの結婚式の直後に召されてしまった。ところが、母は94歳で未だに、『元気!』と弟が知らせてくれている。その母に、未だに心配をされている不肖の三男である。昨日、娘から、孫が学校対抗のサッカーの試合で得点したと知らせてきた。いよいよたけなわの秋である。

(イラストは、小学校の運動会の定番「玉入れ競争」です)

生きる

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 もう6~7年ほど前になるでしょうか、NHKのテレビで、「カウラの大脱走」と言う番組を放映していました。「カウラ」とは、オーストラリヤのシドニーの西にある町で、戦時中に、ドイツとイタリヤと日本の捕虜を収容した収容所があった場所です。そこに日本軍の捕虜が1000人以上収容されていました。ある兵士は、『殺してくれ!』と嘆願しますが、『私たちの国では捕虜になるのは勇気のあることなのだ。最前線に出て戦わなければ捕虜にはならないからです!』と言われて、思いとどまった人もいたのです。

 ところが、ある時、下士官(職業軍人が多かったようです)が多数、カウラに収容されて来ました。彼らは、『戦地では戦友たちが不利に戦って死んでいると言うのに、我々だけが安んじていてはいけない。戦友たちへの攻撃の力を分散させるために騒動を起こして、敵弾で死のう!』と言うことが、票決されるのです。下士官たちが来る前には、捕虜たちは、自作のゲームを楽しんでいたり、ジュネーブ条約と民主主義の雰囲気の中で守られ、人権を認められて、収容所生活を過ごしていたのです。ところが、プロの軍人たちが、ひと泡吹かせようと、「暴動」と「脱走」を企てたわけです。その結果、条約で守られて無事に帰国することの出来た多くの兵士が自決したり、銃殺されたりして亡くなってしまいます。なぜこのようなことが起こったのでしょうか。

 旧日本軍の兵士は生き延びてはいけなかったのでしょうか。そうです、いけなかったのです。旧陸軍省が、昭和16年に、陸軍兵士の心得・道徳訓と言う形で、「戦陣訓」を刊行しました。その「名を惜しむ 」という項目の中に、次のようにありました。

   『・・生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。』

 『捕虜になることは恥だ。故国の家族や家名に泥を塗ることになる。恥をこうむるよりも死ね!』と言う教えが、日本軍兵士の中に叩き込まれていたのです。『日本人であれ!』と言うことが要求されていたのです。『みんなが今戦っている!』と言って「集団」の中で、ただ従う「個人」が求められていたのです。どうも私たち日本人には、「恥の文化」が骨の髄までも染み込んでいるのです。「非国民」と言う呼び方で、自由な意志の主張や選択を拒絶し、区の意思に従ってのみ生きると言おう心が、全国民に求められていた時代でした。

 どうして、生き延びて、故郷に帰り、妻や子のために生きてはいけなかったのでしょうか。カウラから帰国した人たちも、自分が捕虜であった過去と、自分だけが帰国できたことを恥じて、それをひた隠しにして、戦後を生きて来たのだそうです。この「恥」と「集団への帰属」とは、軍人だけではなく、日本人の心の奥底にたたみこまれたものではないかと思われるのです。この「戦陣訓」が誕生した背景がありました。とくに中国大陸の兵士の間では、軍紀が乱れて、残虐や強盗や凌辱(りょうじょく/婦女子への暴行)が日常化していたのです。そこで、やむをえず軍紀を正すために、軍人としてのあるべき姿を提示する必要があったと言われています。この作成のために、文体の責任をもって、陸軍から要請を受けたのが、島崎藤村でした。

 戦後の復興のために、多くの有為な人材が必要でしたが、この「戦陣訓」によって、捕虜として生き延びることを恥とし、不名誉なこととした私たちの父や兄や祖父たちが自決して行ったのは、実に残念なことであります。人の「命」が、それほど、主義主張のために軽く捉えられていたことは、明治以降、戦時中までの日本の教育に大きな欠陥があったことになります。何人(なんぴと)も、たとえ恥をこうむろうと、非国民と呼ばれ、不名誉なことであっても、「生きよ」との内なる声をかき消してはいけません。己の命を大切にすることができずに、他者の命を尊んだり、慮る(おもんばかる)ことはできません。

 命は、自分の意志で得たのではなく、父母を通して付与されたものであるのですから、自分のものにしろ、他人のものにあるにせよ、この命を粗末にしてはならないのです。これこそが、〈人の生きるべき道〉であります。〈◯◯人〉である以前に、私たちは「人」であることを、確りと知らなくてはなりません。そうしたら戦争も争いも起きようはずがないのです。大切なのは、歴史から学んで、二度と同じ過ちを侵さないことに違いありません。戦争で、〈父(てて)なし子〉となった何人もの同級生のお父さんが、捕虜になっていたら、無事に戦地から復員して来られただろうと思ってみたりしております。                     

(写真は、生きる意味を追求した黒澤作品の映画、「生きる」のスチール写真です)

十月十一日


 2009年12月に、中国で、「十月围城(shiyueweichang)」という映画が上映されました。この映画は、1905年10月の香港を舞台にしたもので、清朝・北京から送り込まれた500人の暗殺者たちが、東京から帰国する、革命の首謀者である孫文(孫中山)の暗殺を企てます。その謀略を知った、孫文を支持する者たちの手によって、暗殺計画が阻止され、民主革命のための重要な会議に、孫文が出席するといった、実話に基づくものです。孫文の提唱する新しい中国の建国のために、多くの青年たちが感動し、その実現のために多くの犠牲があったこと、その犠牲の上にあの「辛亥革命」が成功したことを私たちに伝えています。ちなみに日本上映の映画題名は、「孫文の義士団」でした。

 昨日は、2011年10月11日、この「辛亥革命」が成功して「百年記念」に当たりました。胡錦濤主席は、辛亥革命を「君主専制制度を終わらせ、民主共和の理念を広めた」と評価しております。1911年10月11日は、武昌(武漢市)において、「中華民国」が誕生した、中国近代化にとっては記念すべき日であります。およそ、この時から50年以前に、日本では「明治維新」が起こり、長い封建制が崩壊し、新日本が誕生しています。この辛亥革命を指導した多くの方々が、青年期に海外に留学して、西欧や日本の近代化の刺激を受け、その結果、この革命が蜂起されたものだと歴史は伝えております。

 当時日本には、2万人もの中国人留学生がいたそうです。その中心人物の孫文は、亡命中に日本にも渡り、多くの日本人の支持者たちを得ています。その中に梅屋壮吉がおります。梅屋は長崎に生まれ、貿易商でしたが、写真を学んで写真館を経営したりしていましたが、後に、香港で貿易商として成功しています。その財力を用いて、革命を計画していた孫文に、多額の経済援助をし、「君は兵を挙げよ、私は財をもって支援す」と盟約を結び、革命に寄与した人物です。香港で、この二人の交流を記念した展覧会が、今月行われています。

 私の義母は、今年100歳になりまして、この「辛亥革命」に成功しした1911年の春に生まれています。このことを思いますと、中華民国の歴史の中を、隣国で誕生し生涯を送ったのですから、中国と日本、私と中国も、さらに近いものを感じてしまったのです。この孫文の記念館が、神戸にあります。孫文を顕彰する日本で唯一のもので、1984年11月に開設されています。この建物は、もともと神戸で活躍していた中国人実業家・呉錦堂の別荘(「松海別荘」)を前身としていて、地元では長らく「舞子の六角堂」として親しまれてきています。孫文が1913年3月14日に、神戸を訪れたときに、神戸の中国人や政・財界有志が開いた歓迎の昼食会の会場 になったときに始まるそうです。その後、神戸華僑総会から寄贈をうけ、改修を行って今日にいたっている、とのことです。


 孫文は、広東省の「客家(kejia)」の出身で、医者をしていた人です。ハワイで学び、アメリカ国籍を持っており、架橋の支持だけではなく、多くの外国人の支持者がいて、今日でも多くの人々から高い評価を受けております。偉大な中国の「国父」であるのですから、当然ではないでしょうか。そのような人物に、少なからず日本人が関与し、この働きに寄与したこともまた、今後の中日友好にとって、意味あることだと信じております。彼は、

 「余の力を中国革命に費やすこと40年余、その目的は大アジア主義に基づく中国の自由と平等と平和を求むるにあった。40年余の革命活動の経験から、余にわかったことは、この革命を成功させるには、何よりもまず民衆を喚起し、また、世界中でわが民族を平等に遇してくれる諸民族と協力し、力を合わせて奮闘せねばならないということである。 そこには単に支配者の交代や権益の確保といったかつてのような功利主義的国内革命ではなく、これまでの支那史観、西洋史観、東洋史観、文明比較論などをもう一度見つめ直し、民衆相互の信頼をもとに西洋の覇道に対するアジアの王道の優越性を強く唱え続けることが肝要である。 しかしながら、なお現在、革命は、未だ成功していない──。わが同志は、余の著した『建国方略』『建国大綱』『三民主義』および第一次全国代表大会宣言によって、引き続き努力し、その目的の貫徹に向け、誠心誠意努めていかねばならない。」

との遺言を残してております。100年、それほど昔のことではないのですね。

(写真は、臨時参議院成立時の集合写真影で孫文〈前列中央〉、下は、「十月囲城」のスチール写真です)

タイ


 7月の終わりに引越しして来まして、2ヶ月が経ちました。新開発地域ですので、将来性を見越してでしょうか、今は2つの大型スーパーマーケットが出店しています。1つは「乐购Legou(日本語ですと〈楽購〉、英語名はTesco)」。もう1つは、「大润发Darunfa〈日本語で大潤発〉)」で、ここは天津に住んでいた時、学校の帰りによく買い物をした店のチェーン店ですので、家内はとても懐かしく買い物ができるようです。 アパートの前のバス通りに、早くやってくるスーパーの送迎バスで、どちらかに買い物に行っております。さらに来年の春節の開業に間に合うように、「万达广场wandagunagchang(万達広場)」が建設中です。複合の大商業施設で、住んでいますアパート群の大通りを挟んだ向こう側に位置しているのです。もともと、中国のみなさんは、小型商店がうなぎの寝床のように出店している「菜市場」で買い物をしてきたようですが、昔の日本のように、小売りの商店や菜市場は斜陽傾向にあるようです。

 先日、「国慶節」の休みに、家内と一緒に「テスコ」に買い物に行って、会員カードを申し込みました。その時、家内は、「国慶節・大売出し」でくじ引きをしました。そうしましたら、何と「50元」の〈買い物カード〉を当ててしまったのです!係の方に大喜びされ、記念写真は撮られるやら、拍手されるやで、大騒ぎされていました。上機嫌になった家内は、足しげく、食料の買出し、テスコに出かけております。

 お陰さまで、こんばんは、タイ変に美味しい晩御飯を食べました。術後のしばらくの間、家内が日本に留まっておりましたので、男やもめの私は、自分で買い物をして、料理をするという生活を余儀なくされていましました。毎食、どうも作り過ぎの食べ過ぎで、少々太ってしまったようです。最後の方は、二食にしたのですが。でも家内が戻ってからは、食べる量をセーブするようになりましたので、もとに戻りつつあるようです。今宵は、おめでタイわけではなかったのですが、日本では高級魚である「鯛」が特売品だったとかで、一匹買ってきてくれました。生簀(いけす)の中に泳いでいる、タイそう生きのいいのを、自分で選んで、手つきの笊(ざる)で取り出したようです。大騒ぎでそうしていたら、買い物客や店員さんの注目を浴びてしまったようです。タイしたもんです。タイ変驚いたのは、一匹の値段が、9元7毛だったのです。日本円に換算すると、何と120円弱です。さんま一匹の値段(日本での)で、鯛を一匹食べられましたから、今宵の夕飯は、誰の誕生日でも記念日でもなかったのですが、めでタイ気持ちで頂くことができました。

 炭火や電気グリルがあればいいのですが、トースターの中で焼いて調理いたしました。このように、三度三度、確り食べておりますので、ご心配しないでください。食後に、バス通りの露天の果物屋さんに行って、柚子(日本では長崎のザボンのことです)と葡萄を買ってきました。果物も食べています。食べるもの、着るもの、住む家、そして仕事、使命、しっかりとこなしております。ご休心のほど。となりの公園広場では、大きな音量の音楽が流れ、ご婦人たちが踊っておいでです。平和な華南の夕べであります。

サラダ

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 陽台(テラス)のペットボトルの底を切った器の中で、ベビーリーフが芽を出して、今朝の食卓のサラダの中に加えられていました。花屋さんで買った鉢植えの残った土の中に、長女にもらった種を家内が植え、それが初秋の日を受けて成長したのです。数本ですから、おいしさを感じるほど歯ごたえのある量ではないのですが、自家栽培の青野菜を生で食することができるのは、何ともいえない感慨です。

 日本にいます時、空き地を借りて家庭菜園をしたことがありました。トマト、茄子、もろこし、キャベツ、落花生、西瓜、インゲンなどを育てて食べた、あの自家栽培の安心の味が忘れられません。私の師匠が、ジャガイモを50坪ほどの畑に植えたことがありました。収穫期に帰国できなかった彼らに代わって、私と子どもたちで、その収穫をしたことがありました。あんなに嬉々として土を掘り起こして、そのジャガイモを手にして、声を上げて喜んでいた息子や娘の姿が思い出されて仕方がありません。師匠家族がなかなか帰ってきませんでしたので、ほとんど食べてしまったのは本当に申し訳なかったと、今でも詫びたい気持ちがしています。もちろんその時はお詫びをしましたが。師匠は、もう亡くなってしまいましたから、改めてお詫びのしようがないのが、少々責められます。

 家内は、プランターを手に入れて、青紫蘇、パセリ、茗荷などを植える計画を、今立てているようです。秋から冬にかけて植えられるものがあったら、すぐにでも始めるのではないでしょうか。鉢植えなどの花卉市場が、この街の中にありますので、行きたがっております。日本ですと、スーパーや農協には、季節季節の種や苗が置かれてありますが、こちらではどうなのでしょうか。田舎に行けば違うのですが、畑の一郭に「家庭菜園」と看板の出ている、2-3坪の区画地域を見かけたことがないのですが、探せば有るのでしょうか。まあ、それができなくても、我が家には、北と南の2箇所、陽台がありますので、場所の確保は問題がありません。土と種さえあれば、日当たりがいいですから、十分に生育するのではないでしょうか。

 子育てが終わって、仕事も退職して、新生活をこちら始めて、この夏から日当たりの良い家に住ませていただいていますので、恵まれた環境を十二分に活用すべきなのでしょう。遠くにいて、孫の世話ができませんので、家内は、そんな計画を想い巡らせているところです。近々、日本語を教え始めるかも知れません。その準備もしているようです。若い知人が、私たちのアパートの近くに、貸し店舗を借りて、「語学教室」を、この秋口から初めて準備中です。その教室の前の看板に、〈日語班〉と書き込まれています。また、幼児英語を長くし開講した経験が家内にはありますので、その担当も頼まれているようです。少し、これから忙しくなるでしょうか。生徒募集中です。その教室を多目的な区間として活用したいと、老板(laobanボス)が願っています。覚えてくださいますように!

(写真は、我が家のではありませんが、プランターの中で育つ「ベビーリーフ)です)

活路

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 私の義兄は、十八の春に、人生の活路をブラジルに求めて、横浜から船で発ったと家内から聞いています。昭和30年代初めの日本は、まだまだ経済的に貧しかった時代でした。誰もが大学に進学できるような80年代とは違っていたわけですから、涙を飲んで諦めて、その踵を返して南米の大地に活路を求めて出かけて行ったことになります。戦争前の多くの青年たちも、狭い日本に住み飽きたと言って、大陸の広大な沃野に、生き場所でしょうか、死に場所を求めて出て行ったと言われます。私の父もまた、多感な青年期の日々を、満州の奉天で過ごしております。満州鉄道に勤務する伯父や、関東軍の将校の親族を頼って、大陸を旅したようです。詳細は定かではありません。父は、その頃のことを何も語らなかったからです。

 当時の青年たちは、窮屈さを覚えたのでしょうか、狭い国土を見限ったのでしょうか、大陸の別天地に「王道楽土」を求めて勇躍出ていったのです。実際には、当時の日本の農村は不況下にありましたから、貧窮し疲弊している小作農民や零細農民は食うや食わずでした。また、農家の次男や三男の土地相続のできない青年たちも多くいて、大陸に雄飛し、一旗あげようとしていたのです。時恰も、日本の国は、「五族協和」が叫ばれていました。それは、漢族、満族、朝鮮族、蒙古族、大和民族が一致協力して、平和かつ強大な国を建国しようとしたのです。とくに、満州には内戦の続く疲弊した中華民国からの漢族や、新しい生活環境を求める朝鮮族が移住してきていました。その動きの中で、日本も、〈満蒙開拓移民〉を計画し、凶作の農村からの移住・入植が相次いだのです。そのような満州に憧れた青年たちが、好んで歌った歌がありました。それが、「蒙古放浪の歌(作詩 仲田三孝 /作曲 川上義彦 /時代不詳 )」です。

       1 心猛くも鬼神ならず  人と生まれて情はあれど
         母を見捨てて波越えて行く  友よ兄等よ何日あわん
       2 波の彼方の蒙古の砂漠  男多恨の身の捨て処
         胸に秘めたる大願あれど  生きて帰らん望みはもたじ
       3 砂丘に出でて砂丘に沈む  月の幾夜が我等が旅路
         明日も変われど見ゆるは何処  小を求めん蒙古の砂漠
       4 朝日夕日を馬上に受けて  続く砂漠の一筋道を
         大和男児の血潮を秘めて  行くや若人血潮の旅路
       5 負はすらくだの糧うすけれど  星の示せる向だに行けば
         砂の逆巻く嵐も何ぞ  やがては越えなん蒙古の砂漠

 鉄道や橋を敷設したり、港湾を整備したり、工場を建設したことはよいことでしたが、軍事力を用いて「満州国」を建国し、その実権を日本が握ったことは、過ちだったのです。なぜなら、宗教や教育をも強いたことは、中国のみなさんには赦しがたいことだったのではないでしょうか。ご自分の土地が奪還されたときの喜びの大きさを知るとき、やはり、それは侵犯であったことになるのではないでしょうか。もし、ブラジル移民のような、合法的なかたちでの入植がなされていたのであれば、許されたのですが、そうではなかったことに、国策の過誤を認めるべきだったと思うのです。しかし、今日の東北部(かつて満州と呼ばれていたのです)が、勤勉な土地改良によって、生産力の強い土地作りをし、驚くほどの農業生産を上げておられます。また重化学工業の進展も驚くほどであり、あの時代には信じられないほどの大変化を見せています。一国の活路は、自らの領土内で遂げるべきに違いありません。

 私は、中国の北に行きたいと思って、天津で一年を過ごしましたが、何故か南に導かれております。そして多くの友人が、こちらで与えられているのです。しかし、もし許されるなら、父が青年期を送った遼寧省の瀋陽(旧奉天)に行って住みたいと思っていますし、吉林省や黒龍江省にも行ってみたい願いは捨て切れないのです。対日感情は、どうしても良くないのですが、それを覚悟で住んだら、多くの友人たちを得ることができるでしょうか。この私の体の中には、漢族や満族や朝鮮族の血が、脈々と流れているのだと思うのです。なぜなら母国にいると同じような思いで、何一つ抵抗なしで、こちらで生活することができているからであります。これからの中国の変化を、つぶさに見続けたいと願う、日曜日の朝であります。

(地図は、17世紀初頭の中国大陸の様子です)