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私の義兄は、十八の春に、人生の活路をブラジルに求めて、横浜から船で発ったと家内から聞いています。昭和30年代初めの日本は、まだまだ経済的に貧しかった時代でした。誰もが大学に進学できるような80年代とは違っていたわけですから、涙を飲んで諦めて、その踵を返して南米の大地に活路を求めて出かけて行ったことになります。戦争前の多くの青年たちも、狭い日本に住み飽きたと言って、大陸の広大な沃野に、生き場所でしょうか、死に場所を求めて出て行ったと言われます。私の父もまた、多感な青年期の日々を、満州の奉天で過ごしております。満州鉄道に勤務する伯父や、関東軍の将校の親族を頼って、大陸を旅したようです。詳細は定かではありません。父は、その頃のことを何も語らなかったからです。
当時の青年たちは、窮屈さを覚えたのでしょうか、狭い国土を見限ったのでしょうか、大陸の別天地に「王道楽土」を求めて勇躍出ていったのです。実際には、当時の日本の農村は不況下にありましたから、貧窮し疲弊している小作農民や零細農民は食うや食わずでした。また、農家の次男や三男の土地相続のできない青年たちも多くいて、大陸に雄飛し、一旗あげようとしていたのです。時恰も、日本の国は、「五族協和」が叫ばれていました。それは、漢族、満族、朝鮮族、蒙古族、大和民族が一致協力して、平和かつ強大な国を建国しようとしたのです。とくに、満州には内戦の続く疲弊した中華民国からの漢族や、新しい生活環境を求める朝鮮族が移住してきていました。その動きの中で、日本も、〈満蒙開拓移民〉を計画し、凶作の農村からの移住・入植が相次いだのです。そのような満州に憧れた青年たちが、好んで歌った歌がありました。それが、「蒙古放浪の歌(作詩 仲田三孝 /作曲 川上義彦 /時代不詳 )」です。
1 心猛くも鬼神ならず 人と生まれて情はあれど
母を見捨てて波越えて行く 友よ兄等よ何日あわん
2 波の彼方の蒙古の砂漠 男多恨の身の捨て処
胸に秘めたる大願あれど 生きて帰らん望みはもたじ
3 砂丘に出でて砂丘に沈む 月の幾夜が我等が旅路
明日も変われど見ゆるは何処 小を求めん蒙古の砂漠
4 朝日夕日を馬上に受けて 続く砂漠の一筋道を
大和男児の血潮を秘めて 行くや若人血潮の旅路
5 負はすらくだの糧うすけれど 星の示せる向だに行けば
砂の逆巻く嵐も何ぞ やがては越えなん蒙古の砂漠
鉄道や橋を敷設したり、港湾を整備したり、工場を建設したことはよいことでしたが、軍事力を用いて「満州国」を建国し、その実権を日本が握ったことは、過ちだったのです。なぜなら、宗教や教育をも強いたことは、中国のみなさんには赦しがたいことだったのではないでしょうか。ご自分の土地が奪還されたときの喜びの大きさを知るとき、やはり、それは侵犯であったことになるのではないでしょうか。もし、ブラジル移民のような、合法的なかたちでの入植がなされていたのであれば、許されたのですが、そうではなかったことに、国策の過誤を認めるべきだったと思うのです。しかし、今日の東北部(かつて満州と呼ばれていたのです)が、勤勉な土地改良によって、生産力の強い土地作りをし、驚くほどの農業生産を上げておられます。また重化学工業の進展も驚くほどであり、あの時代には信じられないほどの大変化を見せています。一国の活路は、自らの領土内で遂げるべきに違いありません。
私は、中国の北に行きたいと思って、天津で一年を過ごしましたが、何故か南に導かれております。そして多くの友人が、こちらで与えられているのです。しかし、もし許されるなら、父が青年期を送った遼寧省の瀋陽(旧奉天)に行って住みたいと思っていますし、吉林省や黒龍江省にも行ってみたい願いは捨て切れないのです。対日感情は、どうしても良くないのですが、それを覚悟で住んだら、多くの友人たちを得ることができるでしょうか。この私の体の中には、漢族や満族や朝鮮族の血が、脈々と流れているのだと思うのです。なぜなら母国にいると同じような思いで、何一つ抵抗なしで、こちらで生活することができているからであります。これからの中国の変化を、つぶさに見続けたいと願う、日曜日の朝であります。
(地図は、17世紀初頭の中国大陸の様子です)