生きる

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 もう6~7年ほど前になるでしょうか、NHKのテレビで、「カウラの大脱走」と言う番組を放映していました。「カウラ」とは、オーストラリヤのシドニーの西にある町で、戦時中に、ドイツとイタリヤと日本の捕虜を収容した収容所があった場所です。そこに日本軍の捕虜が1000人以上収容されていました。ある兵士は、『殺してくれ!』と嘆願しますが、『私たちの国では捕虜になるのは勇気のあることなのだ。最前線に出て戦わなければ捕虜にはならないからです!』と言われて、思いとどまった人もいたのです。

 ところが、ある時、下士官(職業軍人が多かったようです)が多数、カウラに収容されて来ました。彼らは、『戦地では戦友たちが不利に戦って死んでいると言うのに、我々だけが安んじていてはいけない。戦友たちへの攻撃の力を分散させるために騒動を起こして、敵弾で死のう!』と言うことが、票決されるのです。下士官たちが来る前には、捕虜たちは、自作のゲームを楽しんでいたり、ジュネーブ条約と民主主義の雰囲気の中で守られ、人権を認められて、収容所生活を過ごしていたのです。ところが、プロの軍人たちが、ひと泡吹かせようと、「暴動」と「脱走」を企てたわけです。その結果、条約で守られて無事に帰国することの出来た多くの兵士が自決したり、銃殺されたりして亡くなってしまいます。なぜこのようなことが起こったのでしょうか。

 旧日本軍の兵士は生き延びてはいけなかったのでしょうか。そうです、いけなかったのです。旧陸軍省が、昭和16年に、陸軍兵士の心得・道徳訓と言う形で、「戦陣訓」を刊行しました。その「名を惜しむ 」という項目の中に、次のようにありました。

   『・・生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。』

 『捕虜になることは恥だ。故国の家族や家名に泥を塗ることになる。恥をこうむるよりも死ね!』と言う教えが、日本軍兵士の中に叩き込まれていたのです。『日本人であれ!』と言うことが要求されていたのです。『みんなが今戦っている!』と言って「集団」の中で、ただ従う「個人」が求められていたのです。どうも私たち日本人には、「恥の文化」が骨の髄までも染み込んでいるのです。「非国民」と言う呼び方で、自由な意志の主張や選択を拒絶し、区の意思に従ってのみ生きると言おう心が、全国民に求められていた時代でした。

 どうして、生き延びて、故郷に帰り、妻や子のために生きてはいけなかったのでしょうか。カウラから帰国した人たちも、自分が捕虜であった過去と、自分だけが帰国できたことを恥じて、それをひた隠しにして、戦後を生きて来たのだそうです。この「恥」と「集団への帰属」とは、軍人だけではなく、日本人の心の奥底にたたみこまれたものではないかと思われるのです。この「戦陣訓」が誕生した背景がありました。とくに中国大陸の兵士の間では、軍紀が乱れて、残虐や強盗や凌辱(りょうじょく/婦女子への暴行)が日常化していたのです。そこで、やむをえず軍紀を正すために、軍人としてのあるべき姿を提示する必要があったと言われています。この作成のために、文体の責任をもって、陸軍から要請を受けたのが、島崎藤村でした。

 戦後の復興のために、多くの有為な人材が必要でしたが、この「戦陣訓」によって、捕虜として生き延びることを恥とし、不名誉なこととした私たちの父や兄や祖父たちが自決して行ったのは、実に残念なことであります。人の「命」が、それほど、主義主張のために軽く捉えられていたことは、明治以降、戦時中までの日本の教育に大きな欠陥があったことになります。何人(なんぴと)も、たとえ恥をこうむろうと、非国民と呼ばれ、不名誉なことであっても、「生きよ」との内なる声をかき消してはいけません。己の命を大切にすることができずに、他者の命を尊んだり、慮る(おもんばかる)ことはできません。

 命は、自分の意志で得たのではなく、父母を通して付与されたものであるのですから、自分のものにしろ、他人のものにあるにせよ、この命を粗末にしてはならないのです。これこそが、〈人の生きるべき道〉であります。〈◯◯人〉である以前に、私たちは「人」であることを、確りと知らなくてはなりません。そうしたら戦争も争いも起きようはずがないのです。大切なのは、歴史から学んで、二度と同じ過ちを侵さないことに違いありません。戦争で、〈父(てて)なし子〉となった何人もの同級生のお父さんが、捕虜になっていたら、無事に戦地から復員して来られただろうと思ってみたりしております。                     

(写真は、生きる意味を追求した黒澤作品の映画、「生きる」のスチール写真です)

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