十月十一日


 2009年12月に、中国で、「十月围城(shiyueweichang)」という映画が上映されました。この映画は、1905年10月の香港を舞台にしたもので、清朝・北京から送り込まれた500人の暗殺者たちが、東京から帰国する、革命の首謀者である孫文(孫中山)の暗殺を企てます。その謀略を知った、孫文を支持する者たちの手によって、暗殺計画が阻止され、民主革命のための重要な会議に、孫文が出席するといった、実話に基づくものです。孫文の提唱する新しい中国の建国のために、多くの青年たちが感動し、その実現のために多くの犠牲があったこと、その犠牲の上にあの「辛亥革命」が成功したことを私たちに伝えています。ちなみに日本上映の映画題名は、「孫文の義士団」でした。

 昨日は、2011年10月11日、この「辛亥革命」が成功して「百年記念」に当たりました。胡錦濤主席は、辛亥革命を「君主専制制度を終わらせ、民主共和の理念を広めた」と評価しております。1911年10月11日は、武昌(武漢市)において、「中華民国」が誕生した、中国近代化にとっては記念すべき日であります。およそ、この時から50年以前に、日本では「明治維新」が起こり、長い封建制が崩壊し、新日本が誕生しています。この辛亥革命を指導した多くの方々が、青年期に海外に留学して、西欧や日本の近代化の刺激を受け、その結果、この革命が蜂起されたものだと歴史は伝えております。

 当時日本には、2万人もの中国人留学生がいたそうです。その中心人物の孫文は、亡命中に日本にも渡り、多くの日本人の支持者たちを得ています。その中に梅屋壮吉がおります。梅屋は長崎に生まれ、貿易商でしたが、写真を学んで写真館を経営したりしていましたが、後に、香港で貿易商として成功しています。その財力を用いて、革命を計画していた孫文に、多額の経済援助をし、「君は兵を挙げよ、私は財をもって支援す」と盟約を結び、革命に寄与した人物です。香港で、この二人の交流を記念した展覧会が、今月行われています。

 私の義母は、今年100歳になりまして、この「辛亥革命」に成功しした1911年の春に生まれています。このことを思いますと、中華民国の歴史の中を、隣国で誕生し生涯を送ったのですから、中国と日本、私と中国も、さらに近いものを感じてしまったのです。この孫文の記念館が、神戸にあります。孫文を顕彰する日本で唯一のもので、1984年11月に開設されています。この建物は、もともと神戸で活躍していた中国人実業家・呉錦堂の別荘(「松海別荘」)を前身としていて、地元では長らく「舞子の六角堂」として親しまれてきています。孫文が1913年3月14日に、神戸を訪れたときに、神戸の中国人や政・財界有志が開いた歓迎の昼食会の会場 になったときに始まるそうです。その後、神戸華僑総会から寄贈をうけ、改修を行って今日にいたっている、とのことです。


 孫文は、広東省の「客家(kejia)」の出身で、医者をしていた人です。ハワイで学び、アメリカ国籍を持っており、架橋の支持だけではなく、多くの外国人の支持者がいて、今日でも多くの人々から高い評価を受けております。偉大な中国の「国父」であるのですから、当然ではないでしょうか。そのような人物に、少なからず日本人が関与し、この働きに寄与したこともまた、今後の中日友好にとって、意味あることだと信じております。彼は、

 「余の力を中国革命に費やすこと40年余、その目的は大アジア主義に基づく中国の自由と平等と平和を求むるにあった。40年余の革命活動の経験から、余にわかったことは、この革命を成功させるには、何よりもまず民衆を喚起し、また、世界中でわが民族を平等に遇してくれる諸民族と協力し、力を合わせて奮闘せねばならないということである。 そこには単に支配者の交代や権益の確保といったかつてのような功利主義的国内革命ではなく、これまでの支那史観、西洋史観、東洋史観、文明比較論などをもう一度見つめ直し、民衆相互の信頼をもとに西洋の覇道に対するアジアの王道の優越性を強く唱え続けることが肝要である。 しかしながら、なお現在、革命は、未だ成功していない──。わが同志は、余の著した『建国方略』『建国大綱』『三民主義』および第一次全国代表大会宣言によって、引き続き努力し、その目的の貫徹に向け、誠心誠意努めていかねばならない。」

との遺言を残してております。100年、それほど昔のことではないのですね。

(写真は、臨時参議院成立時の集合写真影で孫文〈前列中央〉、下は、「十月囲城」のスチール写真です)

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