貫禄


 『近頃の政治家は貫禄が無い、とよく聞くが、もっともなこと、当たり前のことでは無いか。貫禄のつく経験をまったくしていないからだ。楽だけしてきた政治家に貫禄は無理。無い物ねだりである。』と、私の愛読しているブログにありました。「貫禄」を、goo辞書でみますと、『からだつきや態度などから感じる人間的重みや風格。身に備わった威厳。「―がつく」「―がある」「―十分だ」』とあります。なぜ、最近の政治家は、そうなのかといいますと、この方は、『貫禄がつく経験をしていないからだ!』と結論しています。「塗炭の苦しみ」という言葉があります。これは、「ことわざ図書館」によりますと、『非常に苦しいこと。 大変な困難の中にあること。 塗は泥の意で、炭は火の意。 泥にまみれ火に焼かれるようなひどい苦しみから。 』とあります。あまりにも恵まれすぎて、冷水をくぐるような苦難の体験を通ったことがない、すなわち途端の苦しみをなめたことがないと、人に、「貫禄」が備わらないようです。

 これは、政治家だけに限られたことではありません。人としての重みが欠けているのが、現代人の一つの傾向、特徴なのかも知れません。風貌とか顔つきが、いかつくて怖そうだから貫禄があるのではありません。それは、ただ格好を付けていて、貫禄があるかのように振舞っているだけなのです。生活を通して、これは自然に身につく風格に違いありません。潤沢に物が備えられ、たらふく食べ、高等教育も当然のように受け、衣食住で苦しんだ経験がない人には、やはり貫禄がつかないのかも知れません。

 明治の軍人に乃木希典がいました。この方は、講談や浪曲でも語られるほどに、人間味、人情味のある人だったようです。東屋三楽という浪曲師が、「乃木将軍と太平」という演題の浪花節を語っています。信州の塩尻から出てきた太平(たへい)が、にわか雨の中で、乃木将軍に傘に入れてもらいながら宿に着くのです。このまま別れては申し訳ないと、一緒にお茶を飲もうと誘います。その誘いに応えて二人は、暫くの交わりを太平の投宿先で持ちます。自分の身の上を語る中で、長男は旅順の戦で戦死、次男は武勲を上げて〈金鵄勲章〉を貰って、今は退役し塩尻にいること、三男は近衛兵として「近衛連隊(天皇を警護するへ舞台)」で軍務についており、その三男の招きで上京し、面会に来たと告げます。帰りには、お国自慢の栗羊羹を、奥様にと土産にして手渡すのです。

 この太平は、それとは気づかずに乃木将軍(この時には退役して、学習院の院長をしていたのですが)に、このように軽口を叩くのです。『似てる!』と思いながら、太平には見破れないほど、乃木大将が謙遜な方だったからでしょうか。この前日には、名だたる大将の家を見学するのですが、乃木将軍の住まいに驚いています。あまりにも相応しからぬ、お粗末な〈おんぼろ屋敷〉住まいだったからです。帰国の後に、天皇に報告するための參内(さんだい)の折、他の武勲を上げた大将たちは馬車仕立てでしたが、乃木将軍は、愛馬の背に一人で皇居に参ったのです。『手柄を上げたのは私だけではない!』と言って、命を任せ従軍した軍馬にも功があったとして、『誉れを半分やりたい!』と、愛馬もろともに参内したのです。

 太平と別れて、家に帰った大将は、書生を遣わして自分の家に太平を招きます。あの話し相手が、自分の息子が出陣し戦死したときの将軍、乃木大将だとわかった太平は、彼は恐縮しながら、その家を訪ねるのです。乃木将軍もまた、二人の息子を、その時の戦で失っていたのです。将軍は、時間があれば戦死者の遺族を訪問し、『乃木があなた方の子弟を殺したにほかならず、その罪は割腹してでも謝罪すべきですが、今はまだ死すべき時ではないので、他日、私が一命を国に捧げるときもあるでしょうから、そのとき乃木が謝罪したものと思って下さい。 』と、語ってていたそうです。

 明治期の大人の男子の身長(17歳男子ー明治33年・158cm、平成17年・171cm)に比べても、この乃木将軍は短躯な人だったそうです。目も不自由で、住む家も粗末で、人柄が謙遜でしたが、威厳に満ち、〈貫禄〉の十二分な人だったと語り継がれています。困難や失敗や挫折を厭わずに、命がけで雄々しく生きるならば、二十一世紀の男子でも、この〈貫禄〉を身につけることができるに違いありません。私は、口ひげを三度ほど生やしたことがありましたが、童顔はどんなことをしても駄目でした。それでも、『もう少し〈貫禄〉がついたらいいのだが!』と願う、晴天の秋の午後であります。

(写真は、太平の故郷、信州・塩尻市の「奈良井宿(中山道)」です)

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