教育

                                      .

 今は自家用車を持ちませんので、移動するときには、公共バス、タクシー、友人の好意で彼女の車に乗せて頂く、そういった交通手段を使い分けています。もちろん徒歩が多いのですが。それから、もう一つは、マウンテン・バイクがあります。日本に留学している若い友人が置いていってくれたもので、大変便利に使っています。それでも雨や風の強い日には、『車があったらなあ!』と思ってもみますが、『健康第一、安全第一!』でふん切りをつけております。

 さて、こちらの公共バスですが、男性に混じって女性が大きなハンドルを回して運転をしているのです。男勝りだと思いますが、男性の職域だと思っている私たち日本人の考えとは違って、こちらではごく普通なことです。ところで男性のバスの運転手ですが、多くの方の運転が荒いのです。軽自動車に乗っているようなハンドルさばきをしたり、急ハンドル、急停車、割り込みなどは朝飯前なのです。家内などは急発進で、何度も座ってる乗客の膝の上にのってしまうほどです。それに、よく怒鳴っているのです。『運転席の近くにいないで、奥の方へ行け!』と、お客様であることを忘れて乗客の私たちに荒らげた言葉をかけて平然としています。走行のじゃまになる自転車やバッテリー付自転車、歩行者に、車の中でぶつぶつと文句を言っています。天津にいたとき、昼時だったので、その運転手は、彼好みのランチを売っている食堂の前で停車して、飛んでいって買うのです。待っている乗客も、文句ひとつ口に出さないで、黙って待っていました。『これって普通のこと!』と、割りきっているのでしょう。でも一番怖いのは、携帯電話をしながら、乗客を運んでいることです。それで事故を起こさないのですから、運転技術と注意力は抜群です。彼らの待遇が良くないのが、もろもろの根なのかも知れません。そんな状況ですから、〈都バス〉の運転手のような優しい運転をするバスに乗ると、ほっと一息ついてしまうのです。

 さて、私たちには二人の娘がいます。彼女たちを訪ねたときは、彼女たちの運転する車に乗せてもらうのです。その運転ですが、親の自慢のように聞こえますが、運転が、とても上手なのです。もう私を超えているかも知れません(そう自慢してます!)。ところが玉に瑕、運転しながら、二人ともうるさいのです。対向車や前を走っている車や歩行者や自転車に対して、『ああでもない、こうでもない!』と〈いちゃもん(不平や文句のことです)〉をつけています。聞いていて笑ってしまいます。この様子を見聞きしている家内は、『そっくり!』と私の顔を見て笑うのです。二十年も私の運転する車に乗り続けて、その一挙手一投足を見続けててきた彼女たちは、どうも親爺そっくりの運転をし、同じようにブツブツと言うのだということが分かりました。教育とは空恐ろしいことですね。このように、コピーが出来上がっているのですから。

 しかし、私の車の助手席に乗っていた家内は、性格は温順(実は、彼女のお父さんに似て結構激しくて短気を継承しているのです。これも教育・・・)に見えるので、その感化も受けているに違いないのですが。〈三つ子の魂百までも〉、恥じ入るばかりです。

 この春、日本に帰っていましたときに、高知に旅行をしました。飛行場でレンタカーを借りて、目的地まで高知のバイパスを走ったのです。これまで、2006年に国を出てから、車の運転時間を総計しても1時間に満たないほど、運転から遠ざかっておりました。家内に言いますと、きっと反対すると思いましたので、レンタカー予約は内緒にしておいたのです。勇躍、公道に乗り出して、ハンドルさばきの勘を戻しつつあったのですが、進路変更のタイミングがまずかったのでしょうか、大きなクラクションを鳴らされ、怒鳴られてしまいました。すんでのところで事故になったかも知れませんが、この方の運転が上手で難を逃れることができたに違いありません。土佐弁で怒鳴られるとは予想もしていませんでしたので、坂本龍馬や武市半平太を思い出してしまいました。何十年も運転して、文句を言ってきた私への返礼を、土佐の高知で見舞われたことになります。

 わが家庭教育ですが、好い感化もあったのだと思うのですが、どうでしょうか。これって〈遺伝〉ではなく、やはり〈教育〉なのです。私の親の世代は運転することがありませんでしたから、誰に自分が教育を受けたのか皆目見当がつきません。もしかしたら、性格の悪さなのでしょうか。そうだとしたら、反省して直していかなければなりません。そんなことを考えていますと、孫たちのことが心配になってきました。この悪習慣を受け継ぐのかと・・・。しかい嫁や婿の善い影響をうけるかも知れませんし、再教育という手もありますし。自分を責めないことにして、大陸の秋の宵を楽しみにしましょう。今宵は、教え子と彼女の男友達が、故郷から美味しいものをもってやってきて、夕食を作ってくれるそうです。楽しいこともあるので、がっかりしないことにしました。

(写真は、高知市内から室戸岬に行く途中の「大山岬」です)


 『黒船襲来!』のニュースは、徳川250年の統治を揺るがした大事件でした。あの「元寇(げんこう、1274年と1281年の二度)」以来の外国勢力の来襲だったからです。もちろん幕藩体制の中にも、様々な問題や矛盾があったことは事実ですが、その崩壊の引き金になったのが、この一件だったことになります。浦賀には、煙を吐く真っ黒な鋼鉄製のアメリカの軍艦が、大砲を搭載して開国を迫ったのです。時、明治維新の15年前の1853年のことでした。江戸下屋敷に勤務していた土佐藩士・坂本龍馬は、品川沖の警護の任に当たっていたとのことですから、この黒船を目撃していたものと思われます。

 この4隻の軍艦を率い、アメリカ大統領の親書を手にしてやってきたのが、ペリーでした。強硬な態度で要求を突きつけたのです。捕鯨船の寄港の要求は表向きで、東南アジアの植民地化へのの武力による威嚇だったのです。その迫りによって、幕府は、1954年に、約束したとおり再びやって来たペリーとの間で、条約を締結し、国交を開始することになります。すでにイギリスは、清国(現中国)にアヘンの販売をして、莫大な収益を不平等な貿易で得ていましたし、アフリカ大陸の南端ケープタウン、インド洋のセイロン、そして太平洋に出るマラッカ海峡とシンガポールを押さえて、中国への植民地政策のルートを確保していました。このイギリスの次なる標的は、日本だったことになります。それに負けじと、太平洋を横切った別のルートを経て中国に進出していこうとするアメリカは、まず日本をも植民地にしようとしていたことは明白でした。

 海軍の4分の1を投入しての来襲だったのですから、アメリカが、どれだけ力を入れていたかが分かります。武力を持って条約締結を迫ったのには、理由があったのです。本来なら、平和的な手段で、捕鯨のための基地の建設や寄港の許可を求めるべきでしたが、アメリカの捕鯨船が難船して、遭難した船員が日本に救助を求めた際に、日本側に虐待されたのだそうです。『土着民に所持品は没収され、動物を入れる見世物にするような籠(かご)に押し込まれ・・・踏み絵を強制され、従わなければ皆殺しにすると脅された』との話が、アメリカの新聞に掲載されます。このような紳士的でない国との交渉は、武力以外にないとして、ペリーが来襲したわけです。つまり日本は野蛮国だと判断されたわけです。

 ところが、ペリーによる交渉が成立するやいなや、今度は、『実は日本は文明的な国だ!』と言い直したのです。ペリーは軍人でしたが、事前に、日本について相当研究をしていました。その彼に情報を提供していた、アーロン・パーマーは次のような言葉を残しています。『エネルギッシュな民族で、新しいものを同化する能力はアジア的というよりも、むしろヨーロッパ的とも言える。名誉を重んじる騎士道のセンスをもっており、これは他のアジア諸国と全く異なる。アジア諸国に見られる意地汚いへつらいの傾向とは一線を画し、彼らの行動規範は男らしい名誉と信義を基本としている。支那に隷属することもなく、外国に侵略されたり植民地化されたことがない。そして日本は東洋におけるイギリスとなるであろう(「国際派日本人養成講座」の記事から引用) 』といった、高評価を下しているのです。これは、幕末や明治初年に日本を訪れた多くの外人が共通に持っていた理解であります。

 幕末の若い武士層、とくに薩摩・長州・土佐の下級藩士の間に、〈尊皇攘夷〉の思想が芽生え、それが大きなうねりとなっていくのには、ペリーの来航は大きな意味がありました。しかし、徳川十五代の統治そのものが限界点に達しており、来たるべくして来、起こるべくして起きた本来的な原因だといえます。封建制を打ち破って、近代化していく時期が、歴史的に到来していたからであります。〈大政奉還〉がなされ、明治維新政府が誕生するや、諸外国の勢力に伍していくために、日本は、〈富国強兵〉の政策をとっていき、日清戦争、日露戦争に勝利します。さらに、ヨーロッパに起こった第一次世界大戦を契機として、大陸での権益を手中に収め、軍事的に進出をしていき、世界の列強の動きに同調していきました。そして世界有数の軍事大国となった私たちの国は、市場と資源を求めて、アジア全域に軍事的に進出していくことになります。その一つが、禍根を残す〈日中戦争〉の勃発と手痛い敗戦であります。

 『剣を取る者はみな剣で滅びます 』と言われています。これは〈丸腰〉になることの勧めではないと思いますが、自分や自分の家族や友人を守るための剣は許されるに違いありません。ただ人の平安な生活を脅かす剣は、二度と再び、子や孫たちに持たせたくないと思う、平和な時代の只中の平和な家庭で迎えている今宵であります。

(写真は、黒船来航の絵です)

遊び

 

 オランダの哲学者で歴史家のヨハン・ホイジンガ(1872年12月7日 ~1945年2月1日)は、1936年に「ホモ・ルーデンス」を著しました。1963年には邦訳も刊行されています。「ホモ・ルーデンス」とは、「遊ぶ人」と訳されるでしょうか。そもそも人間が人間である一つの証詞は、「遊び」にあるというのが、ホイジンガが言おうとしていることなのです。もう少し説明を加えますと、文化的であることと、遊びの要素を持つこととは、とても近い関係があるというのが、彼の主張であります。このホイジンガが哲学者なので、「遊ぶ存在としての人間」と、少々ややっこしい表現をしていますが、それは「労働する存在としての人間」の真反対に人がいることを言いたかったからなのです。簡単に言いますと、きっと『働くだけではなく遊び心を持って生きよ!』といった人生哲学を標榜(ひょうぼう)したのではないでしょうか。

 様々なアルバイトを学生の頃にしました。そのほとんどは肉体労働だったのです。その労働は、結構きつかったのですが、『働くことが苦痛だ!』と思ったことが一度もありませんでした。例えば、芝浦や横浜の埠頭で、『お前、そっちのお前・・・』と、手配師に拾われ雇われて働く〈沖仲仕〉もやりました。体が頑強であるか、よほど食い詰めたかでなければ、耐えられなかったと思います。大変に過酷だったのです。それでも、『嫌だ!』と思ったことはありませんでした。もちろん、当時としては結構日当が高かったのは事実です。そういった人のあまり好まない、3K級の仕事をしたという経験の面白さのほうが大きかったようです。アルバイトは、学費や本代や遊興費のためで、親の負担の軽減のためにも頑張りました。一番の収穫は、お金よりも、〈働く喜び〉だったことを思い出すのです。この経験は、その後、学校を卒業して勤務した職場でも、決して失うことのないものでした。仕事を億劫に感じないですんだのは、良かったと思っています。

 現代の多くの子どもたちは、『遊んでないで勉強しなさい!』、『宿題はすんだの?』、『塾はどうしたの?』と、尻を叩かれて面白くない勉強に駆り立てられています。点数だけが、その子の能力の算定基準になっているからです。先日、3人の小学生が、自殺未遂を起こしてニュースになっておりましたが、ほんとうに嫌な時代ですね。幸い、私の親は、バットやグローブやボールは買ってくれますが、一度も、『勉強しろ!』とは言いませんでした。諦めていたのでしょうか,それとももっと大切な自主性を養おうとしたのかも知れません。しかし、放任ではありませんでしたが。本来、人間が人間らしい所以は、「遊び」にあるのではないでしょうか。どうも人は、大人になると、嬉々として生きていた子ども時代を忘れてしまうのか、あえて忘れようとするのか、子どもらしさをきっぱりと捨てて、〈遊び〉を罪悪視さえしてしまうのではないでしょうか。私は、人の目を気にしない生き方をし、〈遊び〉をしっかりさせていただいたことは感謝なことであります。その〈遊び〉が、次のものを願い求めていく推進力となったのではないかと思うのです。

 最近、プロスポーツが面白くありませんね。観衆を喜ばすプレーが少なくなってきているのと、お金が第一、人気が第二になってしまっているからです。また薬物の力を借りて、腕力や筋力を増強したり、やる気を喚起刺激したりして、記録を伸ばそうとする、競争馬なみの選手が少なくありません。地道に血と汗の結晶のようなプレーを見る機会が少ないのです。そういった面白くないプロの世界を目指すアマチュアの選手たちも、野球を楽しむ、サッカーを喜ぶといった代わりに、契約金や報酬が大きな競技の動機付けになり下がっているのではないでしょうか。プレイを楽しむのではなく、勝つことだけを求めるフアンにも問題がありそうですね。フアンに見せて、大向こうを唸らせる様なプレイがあったら、大相撲のような凋落(ちょうらく)は決してないのではないかと思うのですが。感動したり、奮起させられるスポーツであって欲しいものです。

 ホイジンガは、『立ち返って子共のようになること!』を勧めています。享楽主義は好みませんが、人は、いつも喜び、明朗で、心が解放され、自由を楽しむべきです。人を硬直させ、緊張させ、過度に熱狂させ、疲労困憊(こんぱい)させるようなものは排除されるべきでしょう。心が健康でなければ、人生を健全に過ごすことができませんから、一見して、無駄の様に見える〈遊び〉をもう一度再評価し、正しく位置づけたいものです。父とキャッチボールをしたときの懐かしい思い出は、今もなお私の記憶に鮮明です。

(写真は、子どもの頃に楽しんで乗った「竹馬」です)

家族


 『正し人間関係は、あなたの父親へのイメージの健全さからのみ来ます!』と、私に教えてくださった方がいました。それは次のように言い換えることが出来ます。『自分を生んだ父親との関係の有無や良否によって、私たちの人間関係の健全性が左右され、人間への信頼を決定する!』ということでしょうか。[社会学」という学問の分野がありますが、簡単に言いますと、「人間関係学」と言うのだそうです。これまで沢山の方と出会ってきましたが、それらの方々を二分することができるのではないかと思うのです。もちろんに、人間は様々に個性を持っていますから、どだい二分するなどということは、出来かねることかも知れませんが、あえて二分してみたいのです。1つは、一緒にいて居心地がいい人です。この方がお金を持っているからとか、社会で有名だからというのではありません。肩が凝らないで、忌憚なく何でも話ができ、別かれて後も、清々しさが残る人のことで、『ぜひとも、またお交わりをしたい!』と願ってやまない人であります。

 そういう方が静岡にいて、よく車を飛ばして出かけて行きました。アメリカ人でしたから、腹の底から言葉で話し合うといったことはできませんでしたが、片言で交わりをして、どんなに励まされて家に帰っていったことでしょうか。私より20歳位年上で、同じ月の同じ日の誕生日でした。太平洋戦争の折には、日本軍と戦ったことのある兵士でしたが、『こんなに柔和で謙遜な方に会ったことがない!』と思わせてやまない方でした。今の私の年齢には召されてしまいましたが、今でもときどき、この方を思い出します。

 もう一種類の人は、別れて、また会いたいとは決して思わない人です。毛嫌いしているわけではありませんが、お交わりをしても楽しくないし、何かこの方といるのが無駄なように感じてしまうのです。私は、そんなにはっきり人を分別しているわけではありませんが、二分せざるを得ないとするなら、どうしてもこう言った人を思い出してしますのです。こう言う方は、きっと彼のお父さんと何か問題やしこりを残しながら育ったのではないかと、思ってしまうのですが。これが、意外と当たっているのです。

 現代の家庭は子どもたちが健全に成長して行くには、考えられないほどの問題を抱え込んでいるのではないでしょうか。大人になりきっていないだ男女が恋におちて、家庭を持ちます。生まれてきた子たちを育てきれないのです。そういった方々が、やがて離婚し、家庭が崩壊してしまいます。最近、よくニュースで報じられる肉親や母親の恋人による虐待等が頻発しています。こういった社会現象は、世界中でみられています。多くの家庭が、家庭としての機能を果たしていないのです。父親のいない家庭、父親が父親としての務めを果たしていない家庭が多くあります。父親像のモデルの欠落、父親がいてもモデルにならない父親がおいでです。以前、家庭裁判所に行きましたとき、一人の相談員とお話をする機会がありました。彼は母子家庭に育ったのですが、お母さんがしっかりと自分を育ててくれたのだそうです。『母子家庭で育った子どもたちが、みなだめになってしまうのではないのです。お母さんが、その子どもの親であり続けるなら、子どもは健全に成長できます!』と自分の経験を、そう話してくれました。実に謙遜な方で、人を大事にする方でした。

 ある夏休み、海水浴のために国道を南下して静岡県下に入りました。下り坂でしたので、車はスイスイと走って制限速度をゆうに超えていました。突然、人が旗を振って道路に飛び出して来たのです。初め、『だれだろう?』と思いましたが、真昼間に、大胆に旗を振って国道に出てこれるのは、警察官以外には考えられませんから、もちろん警官でした。4人の子どもたちを乗せた車で、私は速度違反で切符を切られたのです。交通違反をしたお父さんは、もう彼らの理想のモデルのお父さんでは無くなっていました。父親失格でした。ところが、『お父さんは悪くないよね!』と、子どもたちが同情してくれました。警察官の権威でさえ怖がらずに、父親の弁護に回ってくれたのです。あれから25年ほどが経ちますが、今でも、彼らは、『お父さん!』と呼んで尊敬を示していてくれるのです。子どもたちが独立してしまって後、家内と二人で、あの地点を走っていました。その時、あの恥体験を思い出したのです。それを、悟ったのか、家内はニコニコした顔を、私に向けていたのです。

 『本当に良い父親だったのだろうか?』、今でもそんなことを考えています。初めての父親をさせていただいて、失敗は多かったのですが、人を大切にしてきたことだけは、彼らに分かっているのではないかと自負しています。《良い態度で人に接せられる人になること》、これは私が彼らに願ってきたことであります。そんなことを考えていましたら、親爺の顔やそぶりが思い出されてきてしまいました。人として生きることも、「社会学」の基礎も、どうも家族関係にあるに違いありません。それほど、家族は重要な社会関係であります。

(写真は、家族のイラストです)

玉葱とジャガイモ

 

 引越ししたのが、7月の30日ですから、もうほぼ2ヶ月が経過します。大家さんの好意で住み心地が素晴らしい家(前よりちょっと騒々しいのが玉に瑕ですが)で生活することができて、大変感謝しています。つい先日までは、ちょっと動くだけで、玉のような汗がひたたり落ちていたのに、この数日、めっきり涼しくなり、いえちょっと寒い感じもしますが、どうも短い秋の到来のようです。

 ところが、「秋が来た!」に、いつも騙されるのです。日本では、9月の声を聞きますと、秋のニオイも音も味もしてきて、すっかり秋そのものになるのですが、ここ中国の華南地方では違うのです。短い秋は、実際は、11月にならないとやってこないのです。秋になったと思うと、もう冬支度になっています。これからの時期は、日中は夏、陽が落ちると長袖を着なければならないような秋、気温の日較差の大きい日が続くのです。この変化にやっと慣れてきたところです。油断して薄着で出かけて、帰りに震えるようにしていたことがこれまでありましたから。

 引越しをする数日前に、買はなればよかったのですが、必要以上の量の玉葱とジャガイモを買い込んでしまいました。その日まで、台所に転がっていたので、急いで袋に入れてダンボールの中に放り込んだのです。ところが、越してきて、荷解きをしている時、真っ先に出さなければいけなかったのが、この玉葱とジャガイモでした。急いで、箱の中に突っ込んでしまったので、探せど出てこなかったのです。この数日の寒さで、昨晩は窓を閉めたのです。今朝、隣室に行ってみると、玉葱の悪くなりかけの臭がしてくるではありませんか。収納の中を探して探しました。なんと「孫へのプレゼント」と書かれた箱の中に、「スペイン産コーヒー豆」と印字された袋に混入しているではありませんか。コーヒーとばかり思っていて、そのままにしていたのですが、さしもの玉葱とジャガイモも2ヶ月もじっとしていられなかったのでしょう、臭って「出して!」と叫んだのです。ちなみに、こちらの玉葱は、「レッドオニオン」なのです。日本では普通の玉ねぎの倍も値がしますが、こちらでは、全く逆で、日本の普通の玉ねぎを見つけるのは大変難しいのです。面白いですね。

 このようにして、無くなっていたのが見つかった記念に、玉葱とじゃがいもで、今晩、男の定番、カレーをこしらえました。結構美味しく食べられそうです。どうも秋の気配がしてきたおかげですね。きっと芽を伸ばして、収納の隙間から出てくるだろうと思って待っていましたが、意外な結末でした。そう云えば、玉葱とかじゃがいもというのは、保存が長く出来る食材なのですね。この間は、頂いた薩摩芋が芽を出して、きれいな緑の葉を付けていたりもしました。自然界の命は、ものすごい生命力ですね。この同じ生命力を、いえその数十倍もの力を私たちはいただいているのですから、生きられる限り、決して諦めてしまわないで、一生懸命に生きていきたいものです。よかった!

泣く父

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 以前、「ビジョンの肖像」という本を読んだことがあります。トミー・バーネットという方が書かれたもので、ロスアンゼルスの下町で、慈善活動をされておいでになり、その奮闘の記録なのです。繁栄の国、アメリカにも、その繁栄から取り残された人々が沢山おられるのです。失業、貧困、心身の損傷などで、社会から取り残された、あらゆるものに恵まれない人々のことです。このような方々のために、ご子息のマシューを支えながら共に働いておられるのです。「人に夢を与えたい!」という意味からでしょうか、その施設を「ドリーム・センター」と呼んでおられます。大きな病院施設を買い取られて、再利用されておられます。彼自身は、アリゾナ州のフェニックスで、主な事業を展開されておられ、親子四代の実業家の家庭の人であります。最近ご子息が、お仕事の責任を受け継がれたようですが。

 アイオワの片田舎で働いていたとき、彼は、父君がお元気の間、毎日曜日の夜になると、必ず電話をかけたのだそうです。その時、彼のお父さんは、悲しい出来事があったときは、一緒に泣いてくれ、嬉しくて仕方はない話をすると、共に喜んでくれたのだそうです。これを読んで、自分が、父親にそれだけの敬意や委ねや感謝をしていなかったことを思い知らされたのです。もちろん父の存命中は、父に相談をしたりしたことは、あまりなかったのを悔やみますが。私が結婚を決意したときに、父は、竹山道雄の書物を買って来て、『雅、これを読め!』と渡してくれました。「ビルマの竪琴」の著作で知られた作者の作品でした。自分から離れていってしまうような恐れを感じたのでしょうか、父は自分のそばに私を引き戻そうとして一計を案じたのだと思います。父の思い通りになりませんでしたが、父のほうが、私に歩み寄ってくれて、同じ人生観、世界観、価値観に立つことが叶えられたのです。

 このトミー・バーネットが5才の時のことです。彼の誇りのお父さんがオフイスから泣きながら帰って来たのだそうです。その父をお母さんが慰めていました。それを見ていた彼は、父を泣かせるようなことをした大人たちを懲らしめようとして、お父さんのオフイスに飛んで行こうとしたのです。ずいぶんと激しい気性を持った5才の坊やではないでしょうか。ところが、お父さんは、彼の手を、しっかりとつかんで引き止めて、オフイスに行かせなかったのです。そんな子供時代の出来事が記してありました。そのような豊かで優しい感情の持ち主だったからでしょうか、大人になっても、その心を忘れなかったのです。『だれも届こうとしない人たち、ギャングや売春婦や体や心の不自由な人に、愛や親切を伝え、希望に溢れ、夢を見て生きていただきたい!』と言うのが、彼の人生哲学なのであります。

 どんなに強く見える父親にも、弱さがあるのを、子は、やがて知るのです。『世界で一番強くて、賢くて立派なんだ!』と、幼子は父親像をふくらませるのですが、やがて〈普通の父親〉に直面してしまうのです。そう、父子関係が別のステージに移っていくわけです。私は、父の涙を目撃したことがあります。『父は父なるがゆえに父として遇する』という言葉を学んでから、もう一度、やり直せたら、父に何でも話そうと思いました。そうしたら、親爺は一緒に泣きも喜びもしてくれるのだろうと思ったのです。そして親不孝の私を、きっと赦してくれるのだろうと思ったのです。でも、やり直しがきかないまま、結婚式を上げた翌月に、父は不帰の人となってしまったのです。

 でも、不思議に、「父には再会できるのだ!」という思いがあるのです。不思議な感覚です。父の腰から出て、父の年齢をはるかに超えて生きている私ですが、私よりも若い父に会えるという期待感が、心のなかに広がっているのです。一緒に泣き、共に喜んでくれる父に、孝行息子でいたかったのです。温泉にも、柳川を食べにも、万里の長城にも一緒に行ってみたかったのです。でも、更に素晴らしいい都で、きっと再会できると思うのです。これって妄想でしょうか。
 
 こんなことを書いていたら、お父さんとの確執で苦しんだ友のことを思い出してしまいました。憎んでいながらも、お父さんに会うと、お小遣いを渡していた彼も、心の中では、切々と父を追慕し求めていたのでしょうか。「エデンの東」のギャルのようです。友のお父さんも、すでに召されていますが。うーん、人生は短いですし、思ったようには展開しませんね。やり直しが効かないことが、人生の凄さ、現実なのでしょうか。また、「エデンの東」を観てみたいものです。

(写真は、アリゾナの州都「フェニックス」です)

無事を!

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今日のトップニュースは、15号台風の影響で、名古屋周辺に洪水の危険があって、百万人規模の避難勧告が出されたとのこと、被災地のみなさんにお見舞いを申し上げます。1959年に、「伊勢湾台風」が名古屋近辺を襲って、大きな被害を出したことを思い出しました。その時、窓という窓に、板を打ちつけて、父と一緒に、暴風雨に備えをしたのを覚えています。日本は、台風の通り道で、夏から秋にかけて毎年、何度かその猛威に襲われております。

私が生まれ、また天職をえて赴任し、仕事と子育てに30年を費やした中部山岳地方の町は、自然の要塞とでも言うのでしょうか、山々が防護壁のようにして、台風の被害を最小限度に抑えこんでしまうのです。私たちが住んでいた年月の間、ひどい被害に見舞われたことはありませんでした。昔は、河川が氾濫して大きな被害を出したようですが、治水工事の万全が施されて、その後は大雨による洪水の被害を回避することができたようです。

その街の山向うの街で、娘夫婦が3年ほど英語教師として働いていました。ある時彼女から連絡をもらったのです。『江戸時代から続いている農村歌舞伎の公演が、近くの大鹿村であるので、観に来ない?』との誘いでした。それまで、とんと歌舞伎など観たことがなかったので、軽い気持ちで、『そうか、じゃあ行くね!』と返事をして、高速から山道に下りて、車で駆けつけたのです。

ちょうど台風が来ていた時だったと思います。江戸時代は、贅沢だとされたのでしょうか、ご禁制だったのを、秘密裏に続けてきた伝統ある歌舞伎だったのです。何一つ娯楽もない山深い村で、春と秋に催されるそれは、村人の心の拠り所であったのでしょう。だからこそ、禁令を破って脈々と受け継がれて今日に至ったのでしょうか。この近辺は、祭りや演劇や人形芝居が盛んで、古きよき日本の文化の源流を残していると言えるでしょうか。

私たちが観た演目は、「菅原伝授手習鑑 寺子屋の段 」でした。初めての観劇に、ほんとうに感激した私は、〈おひねり〉を作って、舞台目がけて投げる観客に混じってやってみました。遠すぎて舞台まで届かなくて、誰かの頭にぶつかったのではないでしょうか。そういった昔ながらの演者と観客との心の交流物を介した感謝の気持ちが、何ともいえなく身近に感じていました。

演目は、涙を誘ってやまない悲しい物語でしたが、武人の生き方の一つとして、〈忠君の志〉の厳しさを知らされました。こう言った物語が、日本人の心を育んできたのでしょうか。士農工商の低い身分で、年貢米の供出に追われ、労役にかりだされるような生活の中で、山深い寒村の民も、武人の生き方を学んできていることを理解したのです。江戸末期に日本を訪れた欧米人が、日本人は身分の低い人たちでさえ、〈徳〉を備えていることにひどく驚きを示したのだそうです。村歌舞伎などが文化や伝統としての役割を果たしただけではなく、日本人の心を養い育ててきたことになります。


今夏、この農村歌舞伎が取り上げられて、映画化されたそうです。「大鹿村騒動記」という映画で、今もなお上映されているそうです。ぜひ観たいものです。この映画の主人公を演じた原田芳雄は、初上映の三日後に、惜しまれつつ亡くなっています。彼は私の好きな俳優でした。石原裕次郎や高倉健や加山雄三といった人気スターの陰にいましたが、演技は抜群で、大向こうを唸らせる様な、独特の雰囲気を持った名優でした。上の兄と同学年ですから、もう一人の〈兄貴〉だったのです。

とくに中国のみなさんにとっては、彼は忘れられない映画の脇役を演じています。中国語のタイトルで「追捕(日本のタイトルは『君よ憤怒の河を渉れ』)」という映画でした。中国では1981年に上映されています。『杜丘冬人って知ってますか?』と聞かれて、『えっつ?」と思わず言ってしまいました。高倉健が演じた、映画の主人公の名だったのです。改革開放政策で、日本の映画の輸入が許されて、中国中の若者に大センセーーションを巻き起こします。歩き方まで真似され、原田芳雄の演じた矢村警部の着ていたトレンチコートが大流行したそうです。50代~60代の中国人には、忘れられない映画なのです。

この原田芳雄の最後の出演の映画も、台風の最中に起こった物語なのだそうです。私たちの住んでいます街も台風に脅かされますが、ここも意外と自然要塞に守られて直接被害が少ないようです。台風の当り年でしょうか、自然災害が日本を席巻(せっけん)しているように見えますが、同胞の無事を心からお祈りいたしております。

(写真上は、映画「大鹿村騒動記」の一場面、下は、明石岳を望む大鹿村の風景です)

 

豊かさ

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 番町、麹町、田園調布といえば、東京の高級住宅地です。いわゆるお屋敷町で、そうそうたる方々の住宅地のようです。アメリカには、〈ビバリー・ヒルズ〉という街が、ロスアンゼルス近郊にありますが、ここも世界的に有名な高級住宅地です。その名にちなんで、〈〇〇リーヒルズ〉とあだ名される街が、日本にはあります。

 先日、引っ越してきた地域を知ろうと思いまして、自転車でキョロキョロしながら散策に出ました。5年ほど前になりますが、この街に来ましてから間もなく、川沿いにある公園を案内していただきました。まだ、ほとんど整備されていなかったのですが、今は見違えるほどに綺麗になって、経済力の豊かさを象徴するような街並みが出来ていました。その案内していただいた時に、この町の歴史が石版に記されて、延々と川沿いの石壁に掲げられてありました。裁判所もでき、高層住宅群が道路際に林立しているのです。そこから自転車で5分ほどのところに、私たちは引っ越しをしたのです。近代都市に変貌した地域の道路沿いを走っていたとき、鬱蒼とした林の中に、いわゆる麹町や田園調布の界隈にみられうような二階建ての高級住宅群が広がっていました。塀に囲まれて警備が厳重になされている地域ですから、中に這入ってみることはかなわず、通りからフェンス越しに眺めてきました。『どんな階層の人が住んでいるんだろう?』と思いましたが、私には関係の無いことのようです。

 日本の豊かさに大いに刺激され、中国の「改革開放政策」を推し進めた鄧小平氏が、こんなことを言っておられました。『先に豊になれるものから豊かになれ・・・落伍したものを助けよ!』とです。これは〈先富論〉と言われ、まさに、今の中国をみますと、彼の提言通りに変化したことになります。街中を公共バスに乗ったり、自転車で疾走していて眼に入るのは、ベンツ、BMW、アウディなどのヨーロッパ車に混じって、トヨタのセルシオです。引越し先に駐停車されている車を見ましても、三菱やスズキや日産などの日本車が実に多くなってきているのです。以前は高級車感覚の黒塗りが日本でも多かったのですが、今の中国も黒塗りの車が疾走しております。何よりも、この5年の間に、道路は車で溢れてラッシュは、東京なみではないでしょうか。おかげで、公共バスが遅れてしまうのが大きな問題になっているのです。「教師の日」にも、食事に招待されて、繁華街に参りましたが、1時間も前に家を出てバスを乗り継いだのですが、約束の時間に20分も遅れてしまったのです。時間厳守をモットーとする私としては、まず珍しい遅刻になってしまったのです。不断車を運転することがありませんので、道路事情を把握していなかったのです。ただただ平謝りをしてしまいました。

 そんなことで、時々、『車がほしい!』と思ってしまうのです。日本では、何十年も車なしの生活など考えられなかったからですが、買い物に出たときに、自転車に買い物袋を下げて走るのは、ちょっと大変なときがあって、つい弱音を吐いてしまうのです。時々車に乗せてもらうのですが、その便利さに、『免許証をとろうかな!』との思いが湧き上がってまいります。『いやー、ここでは運転はしないほうがいいですよ!』と相談しましたら、7年も中国生活をされておられる知人から、そう言われましたから、諦めてはいるのですが、それでも雨の日は・・・。

 まあ自転車は、まわりの相手に注意しながら走るなら、まあまあ安全だと思います。また運動不足の解消のためにもいいなと思っております。先日は、勤め先まで実験的に自転車で行ってみました。夏場は大汗をかいて授業をしたくないので、涼しくなったら自転車通勤をしようと決心していますので、その下見でした。川巾の広い箇所を通るのですが、橋詰には、自動車とは別に、螺旋式の自転車専用の道路を利用して、交差する道路に入るのですが、意外と厳しい物がありました。ここだろうと思っていましたら、学校の北門に出たので、キャンパス内を入って西門から出て、同じ道を帰ってきました。喉元過ぎればで、7年前に自転車で転倒して右腕の肩の腱板を切断する大怪我をして、ひと月も入院し、半年もリハビリをしたのに、もう今では颯爽と風を切っています。呼吸が荒くなることがありますが、これが新陳代謝にはいいので、今は、自転車乗りが、私の健康管理法になっております。

 煉瓦の壁で囲まれた古い今までの赤レンガの住宅地が撤去されて、大きな商業施設や高層住宅に、中国中の街が変貌しています。路地裏が網の目のように入り組んだ中国らしさは、今では不便なのかも知れませんが、古いものが消えて行くのは、日本でも韓国でも、私の住んでいる街でも同じです。十年ほど前に、四川省に行きましたときに案内してくださった方が、『古い伝統的なものが消えていくのは至極残念です!』と嘆いていたのを思い出します。日本も同じですね、東京オリンピック以降、古いものが消え始めていきました。経済が豊かになるのに比例して、街が変わって、温かさをなくしていくのは世の常なのでしょうか。豊かさの代償と言えるでしょうか、ホンコンやシンガポールのような街並みになってしまっているのを、外国人としてちょっと寂しい思いをしている、まだまだ日中は暑い華南の街であります。

(写真は、中国の発展の象徴的な街、「深圳(Shen zhen)」です)

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 きっと、日本の今頃は、蝉の鳴き声も聞こえなくなって、もう秋めいてきているのではないでしょうか。先日、「十五夜」が終わりましたから、日中は暑い日があっても、そろそろ虫の音だって聞こえてくるかも知れませんね。海の向こうから、『素晴らしい季節がまたやってきた!』と、喜ぶ声が聞こえてきそうです。もちろん、暑かった夏だって、やってくる寒い冬だって、それぞれに素晴らしいのですが、秋がことのほかに素晴らしいのは、景色の中に見る色彩が、真っ青な抜けるような空と透徹した空気の中で、際立ってくるからではないでしょうか。

 中部山岳の山奥に生まれて、父に伴って上京し、再び古里に戻ってきて、四人の子育てをしました。美味しい葡萄や桃やリンゴの獲れる里から高原を車で走って、さらに山深い林道を抜けたことが、秋にはよくありました。細くて険しい道でしたが、その秋の景観は息を呑むほどに素晴らしかったのです。晩秋になりますと、紅葉が渓谷いっぱいにあふれて、渓流にまで押し寄せていました。そんな山里に、鄙びた温泉があって、落ち葉を肩に受けながらの露天風呂は、秋色の贅沢三昧だったのを思い出してしまいました。無料の温泉だって、ちょっとぬるくて文句が言いたいほどでしたが、楽しむことも出来ました。「長生きしてくれたら親父を連れてきたかったのに」、などと思ったりしていました。 

 秋がよければ、新緑の春だって負けてはいません。『緑という色は、こんなにも多彩なのか!』と思うことしきりなのです。山道を抜けて見下ろす麓の景色は、桃の花が、まるでピンクの絨毯のように張り広げられて、満開でした。農家の方が育て上げた木が、造物者と農夫に、『ありがとう!』とでも言っているように咲き誇って、感謝しているようでした。目を見上げますと、四方の山々も、季節ごとに、その様相はちがいますが、それぞれに、何かメッセージが聞こえてきそうに感じられます。私の生まれ故郷は、何年も前に訪ねたモンタナにだって、ハワイにだって負けないほどだと、心から実感しています。

 先日の「十五夜」ですが、こちらでは「中秋節」で、月餅を食べて家族で祝う祝祭日でした。知人が、この日の宴に招いてくださって、街中のレストランに参りました。美味しい料理をごちそうになって、知人に別れを告げて、バス停で待っていましたときに、そこから見上げた十五夜の月は、青みを帯びてなにか幽玄さを感じさせ、震えるほどに綺麗でした。一瞬、『どうして、ここで満月を仰ぎ見ているんだろうか?』と、一瞬不思議な感慨がして、あたりを見回しましたら、中国語の会話が聞こえてきたのです。広大な大陸から見上げる月は、仲麻呂が長安からはるかに偲んだ奈良の都の月とも、私の古里の山かげから昇って山肌に消えていく月とも趣を異にしているのでしょう。そう云えば、ごちそうになった円卓には、月餅がのっていて、頂戴しました。中村屋製を食べたことがありますが、こちらの月餅の具が、餡以外のものもあって多彩なのです。そう云えば、餡の中に、月を思わせる卵の黄身が入っていて、中国のみなさんも、満月をこうして楽しむのだと、改めて思わされたことです。

 人恋しい秋ですが、いつの間にか、『静かな静かな里の秋・・・』と歌い出していました。おセンチになってしまったようで、いくつになっても、季節の変わり目の気分というのは、故郷を離れても変わることなく、よいものです(斎藤信夫作詞・海沼実作曲 )。

      静かな静かな 里の秋
      お背戸に木の実の 落ちる夜は
      ああ 母さんとただ二人
      栗の実 煮てます いろりばた

      明るい明るい 星の空
      鳴き鳴き夜鴨(よがも)の 渡る夜は
      ああ 父さんのあの笑顔
      栗の実 食べては 思い出す

      さよならさよなら 椰子(やし)の島
      お舟にゆられて 帰られる
      ああ 父さんよ御無事(ごぶじ)でと
      今夜も 母さんと 祈ります

 無事や健康を祈る父は逝き、母は高齢になりました。それでも古里は記憶の中に、実に鮮明なのだと、歌いながら思ってみたりして、母の笑顔も思い出しました。

(写真は、中秋の名月、「十五夜」です)

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 こちらに越してきましてから、一月が経ちました。かつては畑地の広がる農村部だったのですが、北京や天津や上海といった中心都市だけではなく、ここ地方都市にも、周辺部からの人口流入の動きが見られます。そういった人々のための住宅の確保のために、宅地造成が進んでいるのです。そこには、香港のように18階もの高層アパート群が立ち並び、中央資本が投入されてでしょうか、大きな商業施設が、大きな通りの向こう側に建設中です。旧市街から政府関係の施設の移転計画の中で、ここには近年中に、地下鉄の駅もできるそうで、交通の至便な地域になろうとしています。

 中学生の頃でした。弟が友人のお母さんからスクーター(オートバイに似たガソリン・エンジン付き乗り物のことです)をもらってきたことがありました。まだまだ走る代物(しろもの)でしたから、ガソリンを買ってきては、高台にある畑地の広がる中を走りまわっていたのです。もちろん、免許証を取れる年齢に達していませんでしたから、〈無免許〉でした。そんなことを知っていても、親を含め近所の大人は鷹揚(おうよう)なもので、黙認してくれました。交通事情も今のようなことがありませんでしたから、危険性は少なかったのですが、それでもいけないことをしていたことになります。そのスクーターを乗り回した農地が、やがて日本最大の公団住宅用地に造成されていき、近代化の象徴のように高層住宅が建ち並び始めていました。引越し先に住み始めてから、そんな昔の出来事を思い出しております。

 この地域にお住まいのみなさんの背景は、どうなのでしょうか。どのような人たちが、家を購入して、それぞれに内装して住んでいるのでしょうか。私たちの大家さんは、同じ省の地方の農村部に住んでおられるご両親を呼び寄せるために、この家を購入されたのだそうです。その故郷の楠(くすのき)を製材して、運んでこられて、木製の床と収納を作っておられます。最近の中国の住宅には、石材の床がほとんどなのですが、この家は、木の香が立ち込めております。ご子息の孝行心に応えられたらいいのですが、長らく住んでこられた村から離れられないのでしょうか、越してこられないまま、5年が経ちました。どなたも住まないままになっていた家を、なんと私たちにお貸しくださったのです。自分の親の代わりに、自分と同じ世代のよその親に貸したことになります。

 一昨日、隣家のおばあちゃんが亡くなられて葬儀が行われていました。日本の葬儀が〈陰〉だとしますと、こちらは〈陽〉と言ったらいいかも知れません。もちろん愛してきたお母様の死は、悲しいに違いありませんが、葬儀から陰湿な感じが伝わってこなかったのが印象的でした。日本では、黒ずくめの喪服を着用するのですが、Tシャツに短パン姿の喪主の頭には、白い鉢巻が巻かれ、腰には、真っ赤な帯を締めておられました。お母様の遺体が家を離れる朝は、6時から、音楽隊が3時間も演奏を続けておられました。どんな音楽が奏でられていたのかといいますと、多くの歌の中に、なんと「北国の春(いではく作詞・遠藤実作曲)」が流れておりました。

    白樺(しらかば) 青空 南風
    こぶし咲くあの丘 北国の
    ああ 北国の春
    季節が都会ではわからないだろうと
    届いたおふくろの小さな包み
    あの故郷(ふるさと)へ帰ろかな 帰ろかな

    雪どけ せせらぎ 丸木橋
    落葉松(からまつ)の芽がふく 北国の
    ああ 北国の春
    好きだとおたがいに言いだせないまま
    別れてもう五年あの娘(こ)はどうしてる
    あの故郷へ帰ろかな 帰ろかな

    山吹(やまぶき) 朝霧 水車小屋
    わらべ唄聞こえる 北国の
    ああ 北国の春
    兄貴も親父(おやじ)似で無口なふたりが
    たまには酒でも飲んでるだろか
    あの故郷へ帰ろかな 帰ろかな

 それを聞いたとき、「中国と日本は、切り離すことのできない、文化的な絆で結ばれているのではないか!」と思わされて仕方がありませんでした。国全体には抗日、反日の雰囲気は否めませんが、民間レベルでは至極友好的なものを感じてなりません。葬儀に関わることができませんでしたが、お母様の遺骨が家に戻ってきましたときに、玄関のドアーを開け放って、深々と敬礼をして喪主のご主人と奥様をお迎えしました。ご主人と目があいましたときに、彼も無言で頭を下げて、感謝をあらわしておいででした。うーん、これって中日友好の一歩になるでしょうか。

(写真は、北国の春を告げる花、「辛夷(こぶし)」です)