『来年こそ一度やってみたいこと!』

.

 『来年こそ一度やってみたいこと!』の一つは、「歌舞伎」を観に行って、役者の屋号である『中村屋!』とか、『播磨屋!』と言って、掛け声をかけてみたいのです。歌舞伎座でかけられるような本格的なものを観たことがないのです。よく父が、『昔から、歌舞伎役者を〈河原乞食〉と言って軽蔑されていたんだぞ!』と言うのを、子どもの頃から聞かされていたので、つい足が遠のいていたからです。こちらに来て、「京劇」、「川劇」、「闽劇」という中国の歌劇の観劇招待状をいただいて、観る機会がありました。相互に影響しあったと言われる「歌舞伎」を、そんなことで、一度観たくなったわけです。そして、腹から、『三河屋!』を屋号を呼んでみたいのです。

 そういった呼びかけというのは、中国の劇にはなかったと思います。みなさんは静かに観ているのです。でも、『何を言ってるのかチンプンカンプン!』と、こちらの方がいうのを聞いて、『じゃあ、分かりっこないよね!』と家内と言ったりしておりました。それでも、娯楽の少ないこちらでは、ずいぶんと人気があるようです。テレビでも専属チャンネルがあって、年寄りは、楽しみにして観ていると聞いています。

 長野県の大鹿村に伝わる「大鹿歌舞伎(農村歌舞伎)」を観た時に、ほんとうに『面白い!』と思ったのです。何時もは、みんなと同じようにはしない私ですのに、「おひねり(お金を紙に包んでひねってあるのでそう呼びます)」を、舞台に投げて楽しんでみました。演目は「藤原伝授手習鑑~寺小屋の段」でした。江戸時代の農村で、ご禁制でありながら、密かに残され楽しんでいた娯楽で、それを観た時に、『きっと、平家などの落ち武者が、この山岳地帯に流れてきて住み着いたけれど、「武士(もののふ)」の血が騒いで、鋤や鍬を持つ手を休めて、剣や槍で演じ、また観てきたのだろう!』と思わされたものです。終演の時は、大きな拍手をしてしまいました。

 何時か、また大鹿村に行って、この農村歌舞伎を見てみたいと思うのです。桜の春と、紅葉の秋、年二回の公演をしていて、映画にもなったことから、全国的な人気が出てきたのだろうと思います。長野県には、この大鹿村だけではなく、他の村でも、伝承されて、公演が行われていると聞いたことがあります。そいうえば、ずっとこの村に住んでいる人の顔をよく見てみると、『あの平清盛は、こんな顔をしていたのだろう!』と思ってしまうような、凛々しい男性がおられました。ここでは、役者が素人の住民ですから、屋号はないでしょうね。野菜を売っている店の主人が出てきたら、「やお屋」とでも呼んでみましょうか。きっと顰蹙(ひんしゅく)をかうことでしょうけど。

(写真は、「大鹿歌舞伎」の観劇風景です)

「別れ」

.

 「別れ」、この2012年に、愛する人との別れが三度ありました。先ず、ブラジルの義兄でした。昨年、発病して手術を受け、回復して、自営の仕事に復帰していたのです。今年の元旦でしょうか、家内に、『電話してみない?』と言って、国際電話をかけたのです。久しぶりの会話を家内は楽しみ、私も懐かしい渋い声を聞くことができて喜んでいたのですが、その後、間もなくして召されたとの連絡が、互いの子どもたち、従兄弟同士の連絡網で、私たちのところにも知らせてきたのです。すぐに、義姉に電話を入れて、告別式には行かれないこと、気を落とさないで過ごして欲しいむね伝えました。

 アルゼンチンの会議の後、私は、サンパウロから車で、1時間半ほどのところにいる、義兄を訪ねたのです。移民した中では、大きな敷地の中に一周するとそうとな時間のかかる池を持つ、そのような「屋敷」に住んでいましたから、農業では成功しませんでしたが、まあ成功の部類に入るのでしょうか。高校を卒えた春ですから18歳で、船でブラジルのサントス港に向い、一度も帰国をしないまま、移民先で召されたわけです。『移民仲間が、あまりの辛さと孤独で自死してしまい、なくなく墓をほって埋めた!』と、話してくれました。義兄の友人で、リンゴ栽培と、貯蔵しての出荷に成功をした親友がいました。お母さんが離婚され、親戚と一緒に、3,4人の子どもを連れてやって来たのだそうです。赤貧水を洗うが如き時を過ごして、林檎栽培を始めたのだそうです。私の訪問時に、日本のものと遜色ない「フジ」を一箱届けてくれたのです。食事をご馳走してくれましたが、食べ切れませんでした。

 そして、3月31日、母が九十五歳の誕生日に、天に帰って行きました。出雲で生まれ、東京に死したのです。母の体が荼毘(だび)にふされた時、自分を妊娠して、十月十日の間いた母の胎が灰になっていくのを目の当たりにして、なんとも言えない寂寞とした思いを感じていました。『人生短し!』、まさのこの実感でした。甲州街道に面していた時計屋の小父さんが、母の通りすぎていく姿を、じーっと見つめて目で追っていた光景を覚えています。ちょっと肌が黒かったのですが、「今市小町」と言われていたと、母の幼馴染に聞いたことがあったのです。母親との死別のコメントを、これまで何度も読んできましたが、自分の母との場合は、格別なものがありました。帰国して、すぐに跳んで行く場を失ったこと、いや話しかけたり、手を引いたりすること、おぶうこともできなくなったことは、言いようもなく寂しいものです。

 さらに、母の死の後すぐに、母の大切な友人で、家内の母も、私の母を後を追うように、天に帰って行きました。筑後川で泳いで、夏は真っ黒になっていたのですが、「久留米小町」と言われていたようです。子供の頃から優しい人で、貧しい人を見ると、家の蔵に跳んでいって、米を分け与えるのを常としていたそうです。そんな義母を、母親は黙ってみていたのでしょう。昭和天皇だったと思いますが、久留米に行幸された時に、選ばれて、お茶の接待役をしたとも聞いています。子育てや夫婦関係で悩んでいるお母さんたちの相談にのり、離婚してしまい、つらい気持ちを聞いて上げて、一緒に泣いて上げた義母でした。私の母とは、甲州街道の路上で、初めて出会って、それから親交し続ける「親しい友」となったのです。6つ年上でしたから、101歳で、義母は召されたことになります。

 この方々との別れは、寂しくも悲しくもありますが、やがて「再会」の望みがあって、『また会えるね!』と思えるので、いつまでも悲しまないことにしましょう。歌の文句に、『会うは別れの始めとは・・・』と言うのがありましたが、生まれた時に、『こんにちは!』でしたが、『さようなら!』が続くのだという人の世の常が、しみじみと感じられた一年でありました。でも、『さようなら!』よりも、中国方式で、『再見!』と言うことにしましょう。

(写真は、陽の光を受けて陰影を見せる雲です)

英雄

.

 最近、「草食系男子」という言葉をよく聞きます。かつては「肉食系」だったと思うのですが、女性化でしょうか、中性化していく傾向があるのでしょうか。男の子が、「男」として生きていくためには、その「男性性」を養わなければなりません。そのためには、モデルが必要とされます。幼い日は、「父親」でした。大きくて、力があって、何でもできるし知っていて、たくましかったのです。どんな大人チョリも、『お父さんが一番!』と思っています。ところが、だんだん大きくなるに連れて、お父さんのボロでしょうか、弱さを見るようになるのです。それで、「偶像」が地に堕ちてしまい宇野です。『お父さんって、偉くないじゃないか。◯ちゃんのお父さんは課長で、お父さんは係長・・・・』ということが露呈してしまいます。ここでいけないのが、お母さんの、お父さんへの、『まったく・・・』の愚痴です。しかも、子どもたちの前で、父親の権威を失墜させるような言動が、さらにお父さんの地位を低下させていくのです。

 そこで子どもは、マンガや映画やテレビの「ヒーロー」、「英雄」に心を向けるのです。いわゆる「強い男」、「男性性」がプンプンと匂い立つ映画スターに、「偶像」を換えていくのです。やがて、彼らは「虚構の世界の男」だということが分かり、彼らのスキャンダルを耳にしてしまうと、もうヒーローではなくなってしまうのです。それで今度は、歴史上で、実際に活躍した「偉人たち」に特別な関心を向けていくわけです。しかし、歴史を学んでいくと、彼らも、みな「弱さ」や「欠点」を持っていた事実を知ってしまうのです。それで最後に、再び「お父さん」のところに帰って来るのです。『親爺は弱いところがある普通の男だけど、俺に関心を向けてくれ、懸命になって働いて、養い育ててくれたんだ!』と言って、感謝の念が湧くき上がってくるわけです。もう、同級生の親爺と比べたりしないのです。オナラはするし、ゴロゴロしたり、万年係長でも、「父親像」は健全になっているのです。

 中学の時に、第一次世界大戦の頃のアメリカのカリフォルニアの農村の家庭を舞台にした、「エデンの東」という映画を観ました。両親は離婚。父は、大きな農場を経営し、レタスの栽培をしているのです。母親は列車でだいぶ行った別の町で、いかがわしい水商売をしていました。彼らの二人の青年期の男の子がいるのです。弟は、お父さんや兄に内緒で、何度もお母さんを訪ねていました。彼は兄もまた、母の現実に直面すべきだと思ったのでしょうか、意を決して、嫌がるお兄さんを誘って会いに行くのです。

 お兄さんが、母親に会ったときの衝撃は想像を絶するほど激しいものがありました。母親に触ることが、汚れたものに触るかのように拒むのです。それを傍らでいたずらっぽく眺める弟の表情が微妙で、二人の兄弟の違いの描写が巧みでした。兄は母の現実を受け入れられなくて、発狂したかのように発作的に、ヨーロッパ戦線に従軍して村から出ていってしまいます。

 弟は、野菜の出荷で大損をした父を励まそうとし、父親の愛を求めたのでしょうか、大豆を栽培し、戦争景気で大豆相場が高騰して、大もうけをするのです。その設けで、お父さんの損を補填して渡そうとするのですが、父に受け入れてもらえないのです。そんな時、お父さんが倒れてしまうのです。弟は、かいがいしく父の世話をし、ついに父の愛を得るのです。

 不良っぽい弟と、模範青年の様でも脆い兄、この二人の違いに、『お前はどっちの人間でありたいか?』、そう問われたように感じたのです。弟は、母が何をしていても母として受け入れて遇したのです。母を恥じたりしなかったたわけです。その様な映画でした。何度観たことでしょうか。この弟を演じたのが、ジェームス・ディーンでした。まだ、ジョンスタインベックが、1952年に著した原作を読んだことがないので、今度帰国したら、読んでみようと思っている、年末の夕方であります。

(写真は、「エデンの東」の一場面です)

☆南十字星

.

 子どものころに、「南十字星」が見られる南半球に、『何時か行ってみたい!』と思っていました。地球が丸くて、「赤道」という帯が地球の中央部についていて、そこから北側が、日本や中国やヨーロッパの国々がある「北半球」で、その南側が、「南半球」だということを、社会科で学んでからでした。自分の足の下に、別の国があって、様々な生活がなされているというのは、「不思議」というのでしょうか、小学生の自分にとっては、まったくの「神秘」であったのです。

 17歳の高校生の時に、卒業したらどうするかを考えていました。兄たち二人は、それぞれに進学して行きましたから、自分も同じ道を踏んでいくのだろうと思っていました。しかし、受験勉強に全く身が入らないのです。そうこうしているうちに、小学校で学んだ、「南半球」のことを思い出したのです。それで、気の多い私は、「アルゼンチン協会」という団体が東京にあるということを知って、そこに手紙を出しました。すると、すぐに便覧やパンフレットなどが送られてきたのです。それを興味津々、食い入るようにして見入ったのです。首都が、ブエノスアイレスで、ラプラタ川という川が流れ、アンデス山脈に至るまで、「パンパ」と言われる大平原が広がり、アンデスの麓には、メンドサという街があることを見つけたのです。その山を越えた向こう側に「チリ」という国がありました。これを観ていたら、受験なんて全く小さなことにしか思えなくなってしまって、一生懸命に「スペイン語」の独習をしていたのです。

 メンドサは葡萄の産地で、ワインで有名な街でした。葡萄の収穫のもようが、便覧に写真入りで解説されていました。ラテン系の美しい女性が、ニッコリと微笑んでいるではありませんか。まるで『来ませんか!』と呼びかけているようでした。思春期まっただ中の私ですから、すっかり誘惑されてしまったのです。『よし、アルゼンチンに移民するぞ!』と、心深く決めてしまったのです。それもこれも逃げの一手で、受験のプレッシャーから逃れる逃避好でしたし、ちょっとしたハシカのような症状でしたから、すぐに熱は冷めてしまったのです。

 仕事の一環で、アルゼンチンで開かれる会議に出席する機会が与えられて、20年ほど前でしょうか、出かけたのです。ブエノスアイレスの街は、かつてはスペイン統治でしたが、イタリア系の移民の多い、気取りのある白人社会でした。日系の移民のみなさんは、沖縄出身者が多くて、花屋かクリーニング屋をしていていたようでした。移民のグループのみなさんが、食事に招いてくれたこともありました。遠い旅先で、日本料理をごちそうになり、実に美味しかったのです。またパンパも大草原の中にある街を訪問したときは、どこまでも続く草原をバスに揺られながら出かけたのですが、コルドバには行く機会がありませんでした。実に広大な国でした。

 アルゼンチンの人は、こう言うのだそうです。『日本人がアルゼンチンに住み、われわれが日本に住んだら一番いい!』とです。人口に比べて国土の広大なアルゼンチンと、国土が狭く人口の過剰な日本が、シフトすればいいという考えなのです。たしかにそうかも知れませんね。ブエノスアイレスのレストランで、ウエイターの接客態度が素晴らしかったのが印象的でした。給料は、たいして好くないのかも知れませんが、素晴らしい接客の身のこなしでした。ああいうのを《プロの意識》というのでしょうか。「アルゼンチン・タンゴ」の発祥の港にも連れていってもらいました。ギターの奏でる《ラ・クンパルシータ》とカスタネットと靴を蹴る音が、祖国のスペインから遠い港町の石畳に反響していました。きっと望郷の思いのやまない人々が、踊り歌い聞きながら、その港で祖国を偲んだのでしょう。

 でも「南十字星」を見つけることができなかったのは、心残りでした。『あの時、日本から移住していたら、どんな生活をしていただろうか?』と、空港に降り立った時、人生の不思議さを思いながら、不思議な懐かしさがこみ上げてきたのです。

(写真上は、アルゼンチンのメンドサ、下は、アルゼンチン・タンゴの発祥の港街です)

写真一葉

.

 自転車で転倒して、右腕の「腱板」を断裂して、その手術のために入院した時、私は、同室の、同年で、同じ月に生まれた方が、坊主頭にしたのに倣って、看護師さんに、『彼のように〈坊主刈り〉して!』とお願いして、刈ってもらいました。それ以来、もう10年近く、同じ髪型にしてきています。この方が、私たちの友人のお兄さんだったのです。以前、『兄が大怪我をして、病院に担ぎ込まれて、ずっと入院してるのです!』と聴いていました。ところが、怪我をして見てもらった病院では、手に負えないとのことで、紹介されて入院したのが、同じ病院の同じ病室の隣のベッドだったのです。なぜか神秘的な、〈運命的なもの〉を感じたのが正直な気持ちでした。

 彼は、戦争中に、北京で生まれているのです。彼が引き上げてきたのが、私が生まれ育った山村の2つほど北の村でした。私は、小学校1年の夏休みに東京に越したのですが、彼はその村で育ったのです。言葉数の少ない人ですが、何か、とても近いものを感じております。私の入院中に、リハビリを開始して、だいぶ機能を回復してきておられましたが、車椅子に乗られ、片腕がやっと動かせる状態でした。今は、その病院から、近くの街の施設に転院していらっしゃると聞いています。また会ってみたい人の一人です。

 おとといの晩、いつもの様に、電気バリカンを使って、頭髪を刈っていました。十年間、伸びると刈るを、自分の手で繰り返してきているわけです。綺麗に刈り上がって、襟足を鏡に写してみますと、何だか刈り残しがあったのです。それで掃除し終わったバリカンで、再び狩り始めた瞬間、「一分刈りのアタッチメント」を付け忘れて、「一りん刈り」になってしまったのです。自分で髪の毛を刈り始めて、初めての失敗でした。後頭部で、目に見えないところですから、気にしなければ、それですむのですが、やはり気になってしまうのです。それで毛糸の帽子を深くかぶって、昨日は外出しました。なんとなく襟足が涼しいのです。

 私が住んでいる家の大家さんも同じ坊主頭で、なんとなく安心しています。彼は法学部の教師で、弁護士もしているのですが、髪型には何ら頓着しないのでしょうか、いつもさっぱりしていて、仲間意識を感じております。でも冬場になると、毛がないというのは寒さを感じるもので、、今度は、鬘(かつら)を手に入れようかなとも思っております。「白頭掻けば更に短し」と詠んだ、杜甫の「春望」を学んだことがありますが、髪の毛がまばらになってきて、白髪だらけになってしまった自分です。髪の毛のフサフサだった若い日の写真を一葉、そっと財布の中に隠し持っております。時々、『これ誰だかわかる?』と聞いて見るのです。『髪の毛があった時だってあるんだぞ!』、訴えるのです。無駄な老いの抵抗かも知れませんね。太陽は、今はまだ薄日ですが、これからだんだんと濃くなっていくのですが、髪の毛は・・・・。

(写真は、四川省成都にある「草堂」にある漂白の詩人「杜甫」の像です)

比較論

.

朴正煕大統領が、KCIAの責任者で、古い友人で側近の部下だった人物によって、1979年10月に殺されました。その翌年に、再びソウルに参りました時に、ある韓国の知人が興味深い話をしてくれたのです。朴大統領と田中角栄首相の「比較論」でした。

『韓国人は、正しく生きてる時には命をかけてでも仕えていくことができます。ところが一旦、不正を行なっていることを知ると、手の平を返すように反逆するのです。日本では部下と上司の繋がりというのは、人と繋がっているのです。良くても悪くてもかまいません。正しくても正しくなくてもいいのです。にその人の行いや考え方というのは構わないのです。田中角栄が不正を行なっても、部下が、その不正を糾弾することはありません。ところが朴大統領に不正が露見した時に、黙っていることができずに、銃を手にとって売ったて、制裁を加えたのです!』とです。

この方が言われたことが事実かどうかよりも、彼は日本人と朝鮮民族の違いを語られたので、大変興味をそそられたのです。明智光秀と織田信長との一件を思い出させられる話であります。私たちは、『◯◯先生のことだから、少々の失敗をしても、まあ仕方が無いか!』と思ってしまうのでしょう。人脈とか派閥といった強い絆に、太い感情のパイプでつながっているからです。朝鮮民族のみなさんは、「正邪」、「良悪」と言った規準で人とつながるのだということを学んだわけです。

韓国から日本に働きに来ていた方が、ときどき遊びに来たことがありました。彼の嫌いな日本人はだれだと思われますか。親日家の彼は、そういったことをダイレクトに言う方ではなかったのですが、ある話しの中で、『豊臣秀吉です!』と言ったのです。彼が問題としてこだわっているのは、秀吉の「朝鮮出兵(文禄の役)」の一件なのです。この事件が起こったのが、1592年3月のことでしたから、400年も前のことになりますが、韓国の青年たちは、この歴史的な屈辱を教えられているのですね。

国内統一の後は、近隣諸国を支配下の置こうとした、秀吉の「野心」のなせる業でした。ソウルの大学を卒業して、日本に事業のためにやってきて、ときどき、キムチを作ってくれた彼でしたが、日本人の中に赦すことのできない人物がいる、そう言った隣国の歴史的な感情を、今の私たちは理解しないといけないのではないでしょうか。「竹島」の問題も、歴史をしっかり学ばないでは、話し合いをすることができないのだと思います。

(図は、1959年に15万もの兵を出兵させた「文禄の役」の様子です)

.

1974年夏

.

 1974年の夏に、私は韓国で行われた会議に出席のために、ソウルに滞在していました。その滞在中の8月15日に、「文世光事件」が起きたのです。その日は、日本では終戦記念日、韓国では、日本統治からの解放記念の「光復節」で、その記念行事が、私たちの会議場からそう遠くない「国立劇場」で行われていました。その会場で朴大統領が狙撃され、奥様の陸英修夫人が亡くなる事件が起きたのです。私は、この記念大会に出席はしていませんでしたが、会議中に、『日本人が朴大統領を狙撃し、朴大統領夫人が撃たれて亡くなられた!』という知らせが入ったのです。大変なことに遭遇したのです。

 ホテルに帰りましたが、『危険!』とのことで外出を禁止されていました。ホテル支配人は、『大統領は軍人ですから咄嗟に身を避けたのですが、残念ながら令夫人が・・・』と言っておられました。間もなく、『犯人は日本人ではなく、北朝鮮から送り込まれ、日本人になりすました青年だった!』ということがわかって、安堵したのです。日本の植民地から解放された記念の祝賀会で、もし、日本人が狙撃していたとするなら、今回の「竹島」の問題など及びもつかないことになったのですが、驚いたりほっとしたりで、会議を終えて日本に帰国しました。

 長女が誕生した直後の出来事でした。海外旅行中に、自分の身近に起こった事件でしたので、これまで体験した大きな出来事のトップテンに入るほどだったと言えます。一昨日、韓国大統領に当選し、2013年2月25日に、大統領に就任予定の朴槿恩女史は、この朴大統領夫妻の長女で、その事件が起きた時には、フランスの大学に留学中でした。そして、朴大統領も、1989年10月26日に、側近の放った縦断に倒れています。南北分裂の悲しい歴史の中を通って、今回、親子二代で、韓国の舵取りをなさるようで、心からの祝福をしたいと思っております。

 この朴正煕大統領ですが、自分の半生、特に日本との関わりを、次のように述べています。『日本の朝鮮統治はそう悪かったと思わない。自分は非常に貧しい農村の子供で学校にも行けなかったのに、日本人が来て義務教育を受けさせない親は罰すると命 令したので、親は仕方なしに大事な労働力だった自分を学校に行かせてくれた。すると成績がよかったので、日本人の先生が師範学校に行けと勧めてくれた。さ らに軍官学校を経て東京の陸軍士官学校に進学し、首席で卒業することができた。卒業式では日本人を含めた卒業生を代表して答辞を読んだ。日本の教育は割り と公平だったと思うし、日本のやった政治も私は感情的に非難するつもりもない、むしろ私は評価している。 』とです。

 凶弾に倒れたお母様に代わって、父である朴大統領を支え続けてきたのが、朴槿恵女史でした。きっと、日本のことを何度も、父親に聞かされて育ったのではないかと思われます。台湾に参りました時に、ある台湾の方が、こう話しておられました。『日本統治時代は、家の玄関に鍵をしなくても安全でした。物を盗られる心配がなかったほど、町の安全と秩序が守られていたのです。日本の統治が終わってからは・・・』と残念な口ぶりで、朴大統領のお話と一致することを語っておられたのです。

 2012年、国際関係は大変なまま、年を越すことになりますが、「友好」が実現して、互いに嫉(そね)みあったり、憎み合ったりするのではない、平和な関係の到来を願う、年末の土曜の午後であります。そう言えば、あの時は、夜11時以降は、夜間外出禁止令が出ていました。

(写真上は、大韓民国の国花の「ムクゲ」、下は、朴槿恵女史です)

「心花怒放」

.

東映の時代劇で、山形勲や薄田研二や進藤英太郎は、どの映画を観ても、同じように「腹黒い」悪役を演じていました。彼らは、子どもであった私にとって、心憎い役者だったのです。主人公に切られると歓声が上がったのを、昨日のように覚えています。役を終えて、普通の小父さんに戻ると、優しい方たちだったのを、大人になってから知ったのです。映画館が暗いのと、圧倒的な音量と光で、異次元の空間に入り込んで、まるで主人公になり切ってしまった〈感情移入〉のせいで、現実とフィクションの境目がなくなってしまったからだったのでしょうか。

この「腹黒い」をgoo辞書で調べてみますと、『[形][文]はらぐろ・し[ク]心に何か悪だくみをもっている。陰険で意地が悪い。「―・いやり方」 』とあります。おなじ「腹」のつく「腹積もり」は、『あらかじめ考えておく大体の予定や計画。また、心の用意。心づもり。「息子に後をまかせる―だ」 』とあります。また、「胸算用」は、『[名](スル)《「むなさんよう」とも》心の中で見積もりを立てること。胸勘定(むなかんじょう)。むなづもり。むなざん。むねざんよう。「謝恩セールの売り上げを―する」 』とあります。「胸くそが悪い」は、『胸がむかむかするほど不快である。いまいましい。「考えただけでも―・い」」とあります。

どうも昔の人間、例えば江戸時代の悪代官や、闇夜の盗賊たちが活躍していた頃は、「腹」の中で考えたり、思ったり、計画していたようですし、そうでなければ「胸」の中で考えていたような言葉が多いのに驚かされます。今日読んでいました本の中に、北里大学の名誉教授で「病理史」の専門家の立川昭二さんが、『日本人が「頭」つまり「脳」で考えるようになったのは、明治以降のことである・・・・その第一走者の一人が夏目漱石である。』と書いてありました。「坊ちゃん」で有名な、近代日本語の基礎を作った人物と言われている方ですが。欧米の人たちは、はるか昔から、「脳」で考えていたのです。

「脳」は、体のてっぺんにあるのですが、「腹」とか「胸」は、体の中心に位置しています。何かの本に書いてあったのですが、人間の一番深いところというのは、「腎臓」なのだそうです。私たちが、「心」というのは、「腹」か「胸」か「腎臓」当たりにあるのではないでしょうか。『あの人は心根の優しい人だ!』とか、『私の先生に人格や学識に心服しております!』とか、『最近は、心胆を寒からしむる凶悪な犯罪が頻発しています!』という言葉を見てみますと、人が感じているのは、「脳」ではなく、やはり「心」のようです。ヘブル語では、『leb[(レーブ)とは、日本語の「心」に一致している点が多い。イスラエル人にとっても、lebは心臓を意味するだけでなく、感情、記憶、考え、判断などの座とされた 』と言っているそうです。

『心はどこか?』には、論争がありますが、だれにもあることだけは事実です。今日は暦の上で、「冬至」です。明日から、「夏至」に至るまで、太陽が傾斜状態から頭上高くに戻っていきます。中国語の辞書を見ていましたら、「心花怒放」という言葉を見つけました。『心の中に花が咲いたようになり、嬉しくてたまらない!』との意味なのです。太陽の恢復は、ヨーロッパ人だけではなく、極東に生まれ、そして、そこに住んでいる私にとっても、心の中が灯されて、「希望」が沸き上がってくるようで、実に、「脳楽しい」ではなく、心楽しいことであります。母が沸かしてくれた「冬至のゆず湯」が懐かしいのですが、今宵はミカンを代用に、風呂でもたてましょうか。

(絵は、冬至に入いると健康になると言い伝えられた「ゆず湯」の案内です)

政治家の涙

.

 「水泡に帰す」を、辞書でみますと、『水の泡のように消えてしまうということから、努力したことが何の甲斐なくすべてむだになってしまうこと。 』とあります。ちなみに、これを英訳しますと、”to come to nothing ”となるそうです。中日の友好のために、北京を訪れていた、時の外務大臣、大平正芳の涙が、中華人民共和国の外交部長・姫鵬飛氏の心を動かしたそうです。そのかいあって、「日中共同声明」が、1972年9月29日に発表され、正式に国交回復がなされていったと言われています。これは日本の外交秘話の一つだそうです。

 実は、それ以前から、民間レベルの交流が行われてきておりました。私たちが住んでいる街の近くの街に、「氷心記念館」があり、一度見学に連れていってもらったことがありました。中国の著名な女流作家である謝氷心の生涯を、写真やパネルや記念品などが陳列されてあり、大変に興味深いものを感じました。この方は、昭和22年には、すでに来日されています。その後もお出でになられて、東京大学では、特別講義をされています。また当時の文壇のそうそうたる作家たちとの交流があり、その記念写真なども展示されてありました。ですから、学術レベルでも、深い交流が行われてきたことになります。

 決定的なことは、鄧小平主席が、日本を訪問したことでした。1978年10月に、「日中平和友好条約」の批准書を交換するために、中国の政治指導者として初めて日本を訪問しました。その時には、昭和天皇とも親しく歓談しています。これは中国の首脳として初めてのことであったのです。日本政府の首脳とも会談をしています。また、この訪問の折には、新日本製鉄の製鉄所、松下電器(現パナソニック)の工場、トヨタ自動車の工場などを見学して、戦後の経済復興を目の当たりにして、驚いたそうです。東京から関西を訪ねた折には、東海道新幹線に乗車しており、その速さや乗り心地に、驚くほどの感銘を受けたと伝えられています。この訪問こそが、中国の「改革開放政策」の原点となっていくのです。松下幸之助との話の中で、松下の工場を中国の国内に作って稼働することや、新日鉄の協力を得て、上海に宝山製鉄所を作るなどの話もまとまったのです。

 戦争責任の賠償金の代わりに、「ODA(政府開発援助(Official Development Assistance )」の援助によって、中国国内の道路整備、上海や北京の空港建設整備、天生橋の発電所建設、港湾や鉄道や橋梁等などの建設が行われております。その総額は、6兆円をこすほどだとされているのです。私たちがときどき渡る橋が、町の中心部にありますが、これも日本の企業が建設したものだと聞いています(今は建て替えられていますが)。

 こういった努力が、「水泡に帰す」ことがないように、新しく誕生する内閣に願い、新しく迎える2013年には、そういった努力の蓄積が、「友好」といった実をしっかりと結ぶようにと、心から願っています。大勢の名のない民間人が、この国で、この二字、すなわち「友好」のために、無言で仕えていることも忘れないでほしいものです。

(写真は、1979年、鄧小平氏と握手を交わす大平正芳氏です)

『心を治めよ!』

.

 アメリカの東海岸のコネチカット州で、18人の小学校低学年の生徒と、大人が9人が、20歳の青年の手にした銃で打たれて亡くなりました。その現場の凄惨さは言葉にできないほどだったと、ニュースが報じていました。犯人は、警察官に包囲されているの知って、自らの命を断ちました。さらに小学校を襲撃する前に、自分の母親も銃を発砲して殺害しているのです。日本でも、この中国でも、これに類似する、刃物によって不特定の人を襲う殺傷事件が頻発しております。

 私たちの孫のいるオレゴン州の街から、車で2時間ほどのところにある、ポートランドの商業施設でも、この事件の数日前に、銃の乱射事件があったばかりだと、娘がメールしてきています。こういった事件を、自分の幼い子どもたちに、どう伝えるのか、どのように説明するのか、そのことを避けていられない状況下で、母として娘も苦慮している様子でした。きっと子どもたちの耳にも、被害にあった子どもたちの悲劇の死、その現場にいて目撃してしまった子どもたちの衝撃などを伝え聞くことになるわけです。アメリカの子育て中の母親は、大変な時を過ごしていることになります。また、子どもたちの心のケア-を、どうするかも大きな課題なのです。

 数年前に起きた、大阪の池田小の刃物による事件で、被害に遭わなかったのですが、心を深く傷つけられた子どもちの、その後の様子が気がかりでなりません。私の長男が、小学生の時に、「豊田商事」という会社に乱入して、人を刺殺した事件のテレビニュースを、見てしまって、その衝撃で倒れてしまったことがありました。事件の現場をテレビで放映したのは、ふさわしいことではなかったのです。正しいことと邪なこと、善と悪、光と闇、命と死、そういった間(はざま)で、私たちは生きているですが、幼い子どもたちの心を守っていく責任が、私たちにはあるのです。

 マスコミは事実を伝える使命がありますが、その伝達に伴う影響力も考えて、抑制力のある報道をしていかなければならない、それが情報報道に課せられたもう一つの義務だと思うのです。報道写真に、怯えている子供の目が写っていました。あるニュースは、『言葉が出ないほどの衝撃を受けていました!』と伝えていました。

 心が統御できない時代、心を治めることのできない時代が来ているのでしょうか。衝動的に、事を起してしまい、終わった後で、『ハッ!』と気付くのでしょうか。よく殴ったり蹴ったりするゲームがありますが、倒れてもまた起き上がり、また起き上がりを繰り返すゲームの相手は、不死身のようです。強烈な殴打によってノックダウンしないのです。ところが実際には、人は一撃で倒せるのです。先日、東京の大学で、空手部の高齢の先輩に、回し蹴りを打って死なせてしまった事件がありました。主将の彼は、このことを知っていたのに、〈怒り〉を治めることができずに、凶器となる足を用いてしまったわけです。ゲームも倶楽部も、いつでも〈遊びの枠〉を超えてしまうことができるのです。

 兄たちに蹴られたり、殴られたりして育った私は、その訓練のかいあって、喧嘩が強かったのです。打たれた痛さを知っていたので、体格の差があっても、どれほどの力で、どこを打てば相手を倒せるかを心得ていました。しかし、どんなに激しても、その一手を超えないわけです。ところが今の若者は、怒り心頭してしまったら、その抑止力が効かないのです。大変な時代におります。兎にも角にも、幼い子共たちを、その暴力と、暴力への恐怖とから守りたいものです。そして『心を治めよ!』と叫びたいのです。そんな思いで誕生日を迎えました。

(写真は、コネチカット州の州の花の「アメリカシャクナゲ」です)