冬至

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 今日は「冬至」で、完全に、日本人をしました。夕食に「南瓜」をオイルで焼いて、夕飯のおかずに添えました。そして、お風呂に「柚子」を入れて、「柚子湯」に入浴したのです。去年の正月に、慌ただしく帰国して、入院加療の家内の世話に明け暮れて、帰国後2度目の「冬至」を迎えることができました。病状に安定している家内と一緒に、今夕は「南瓜」を食べ、二番湯でしたが家内に「柚子湯」を用意できたのです。

 「南瓜」を、中国では唐茄子と言うのですが、これを、この日に食べると「中風」にならず、冬季の栄養補給ができるのだそうです。「柚子湯」は、江戸時代の銭湯から始まっているそうで、冬場の冷たくなった体を温めてくれるのです。
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 華南の街のアパート群の七階に住んでいた時、五階のご婦人が、「汤圆Tāngyuán 」と言うコメの粉であんこを丸めた団子を、『冬至に私たちは、これを頂くんです!』と言って、『お二人で食べてください!』と持って来てくださったことがありました。懐かしく夕食の時に食べたのを、今夕思い出したのです。

 父の家に住んでいた時、慣習に追われることも、迷信も信じたりしない母でしたが、四人の子が健康であるために、成長を願って、季節季節の食材を調理して食べさせてくれました。明日から、暦の上では、「夏至」の日に向かって、昼の時間が一日一日と長くなって行き、太陽が回復してくるのです。ヨーロッパ人は、この「冬至」を祭の様にして過ごし、生命の回復として特別に考えていたのでしょう。

 『南瓜しか食べなかったの?』と心配されるといけないので、今宵の夕飯は、10分の8カップの炊いたご飯に、カレイの煮付け、大根おろし、小松菜のおひたし、納豆、糠味噌漬けの漬物、梅干し、豆腐と油揚げの味噌汁でした。『美味しかった!』そうです。

(南瓜と汤圆です)

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 父母と兄弟たちと一緒に住んだ、東京都下の街の家の風呂桶は、檜(ひのき)で作られていました。近所に桶屋さんがあって、そこで特注した優れ物でした。薪で沸かした檜風呂の湯は、子どもの私にとっても香しくて、心底温まる風呂だったのを思い出します。

 檜は、「木曽」が有名ですが、奥多摩の檜林を歩くと、その匂いがしてなんとも心地よかったのです。その植生は、福島以南で、寒過ぎては育たない木なのだそうです。台湾や中国にも檜の植生がみられます。

 以前、大劇場の床は、ほとんどこの檜で作られていたのです。劇場が大きくなかったり、高級ではないものと比較して、大劇場の檜の床の様に、高級材を使っている舞台を踏むことは、演者には誇らしく感じられるわけです。一流の劇団員や歌手になると、『国立劇場の《檜舞台》を踏めた!』と言うことができるのでしょう。

 そう言ったことで、スポーツの世界でも、一流の選手にとって、東京ドームや国立競技場や国技館で活躍できるのを、『《檜舞台》を踏んだ!』と言う様です。それは誉のあることなのです。

 もう一つ、「登龍門」とも言う言葉があります。成功や活躍への一歩をとって潜る門のことです。“ コトバンク"には、『〘名〙 (「龍門」は中国の黄河中流の急流。そこをこえることのできた鯉は龍に化するとの言い伝えから) 立身出世につながるむずかしい関門。また、運命をきめるような大切な試験のたとえ。』、とあります。例えば、学校は社会への登竜門で、「赤門」などの名門校は、官僚や大臣や博士へ一歩のことを言っているのでしょう。

 登竜門を潜ったことも、檜舞台を踏んだことも、私にはありませんが、凡々として粗い板張りを踏んで生きてこれたことも、またいいのかなって思っています。檜舞台で思い出したのは、檜の温泉です。山梨県南部の山間の村営の温泉の湯舟は、岩ではなく、檜で作られていました。そこから山肌が眺められ、木々の葉の微妙な緑が立ち上る湯けむりに映えて、疲れた心と身体を休めてくれたのです。また訪ねてみたいものです。

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長崎と平和

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 江戸時代に、西洋に憧れる青年たちが、思いを向けたのが、日本で唯一開港されていた街、「長崎」でした。初期にはポルトガル人、後にオランダ人の商人たちが、長崎の港の一角に作られた「出島」に住んで、江戸幕府との交易をした人工島だったのです。西洋文化や西洋医学の流入もあって、世界に開かれた港は、好奇の的でした。 

 昭和生まれの私なのに、なぜか「長崎」に行ってみたくて、小学生の頃に、母の出身地の出雲に行ってから、十九の夏に、長期の旅をしたのです。小倉、別府、鹿児島と旅をしました。平戸口から、平戸にも行ったでしょうか。中国人やマレー人もで出島の働きのために居住していた様です。

 やはり一番印象深かったのは、被爆記念の「平和祈念像」でした。松江で生まれ、飯石郡飯石村(現・雲南市三刀屋町)で育った永井隆が、長崎医科大学病院で医師として勤務していた時、被爆しています。昭和20年8月9日のことでした。この永井隆を歌った「長崎の鐘(作詞がサトウハチロー、作曲が古関裕而)」が世に出たのは、昭和24年のことでした。
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1 こよなく晴れた青空を
悲しと思うせつなさよ
うねりの波の人の世に
はかなく生きる野の花よ
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る

2 召されて妻は天国へ
別れてひとり旅立ちぬ
かたみに残るロザリオの
鎖に白きわが涙
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る

3 つぶやく雨のミサの音
たたえる風の神の歌
耀く胸の十字架に
ほほえむ海の雲の色
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る

4 こころの罪をうちあけて
更け行く夜の月すみぬ
貧しき家の柱にも
気高く白きマリア様
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る

 私が訪ねた時には、長崎の街は復興していて、真夏の強い陽射しを受けて焼ける様に暑かったのです。鐘の音の記憶はありませんが、私も平和の尊さを感じた旅でした。また、いつか長崎を訪ねてみたいものです。

(川原慶賀「長崎港図」左左側に扇形をした出島、平和祈念像です)

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 東北の海辺に「塩釜」、中部の内陸に「塩山」や「塩尻」と呼ぶ地名があります。とくに「塩尻」は、「塩の道」の終点という事で、そう呼ばれたのです。東京から長野県に抜ける、甲州街道も、蒸気機関車の中央本線も、この塩尻にあった「塩尻峠(塩嶺とも言います)」が難所でした。もう高速道路ができ、旧道を通る車は、地元の人だけになってしまっている事でしょう。

 蒸気機関車も電車も、この峠を超えるのは大変だったのです。かつては、岡谷から辰野を経て、塩尻に至り、そこで「中央西線」と松本方面の「篠ノ井線」に分岐していたのです。ところが、トンネルを掘削して新線が、1983年に開通して(みどり湖駅を経由して)、辰野を通らないで塩尻に至る事ができる様になったのです。

 辰野からは、今でも辰野支線で塩尻に繋がっています。また辰野は、飯田線の始発着駅でもあります。娘夫婦が、飯田市近郊の県立高校で英語教師をしていて、初めて電車で行きました時に、位置感覚がおかしく感じたのを覚えています。以前利用していた時と違っていたからです。それほど難儀だったのです。
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 さて、「塩尻」ですが、内陸部の信州には、海がありませんでしたから、塩の産地ではなかったわけです。それで塩の供給を海辺に頼っていました。塩商人が、担いだり、馬の背に載せて、塩を運んできたのです。越後の糸魚川から「千国(ちくに)街道」、三河の岡崎から「三州街道」や「足助(あすけ)街道」、駿河の御前崎から「秋葉街道」を、塩が運ばれて来たのです。その終着点でしたので、「尻」を付けた「塩尻」と呼ばれる様になった、地名の由来にあります。

 「街道」と言うのは、物を運ぶことから始まり、そこを人が利用して行き来をする様になって、発達してきたわけです。その道筋に宿場ができたことになります。江戸期に整備された「五街道」だけではなく、そういった商業街道が、網の目の様に張り巡らされていたのです。自分の祖先も、髷を結って、旅姿で歩いていただろう想像すると、浪漫が広がっていく様です。
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 世界中に「塩の道」がある様です。ソルトヒップとかソルトボトムとか言う地名だって、世界のどこかにありそうですね。ネパールにも、「塩の道」があるそうです。ちなみみに、オーストリアの"ザルツブルク”とは、「塩の城」を言うのだそうです。この街からも、「塩の道」が始まっていたと言われています。

 ここ栃木県民の食生活で、塩分の摂り過ぎが大きな問題になっているそうです。米飯で、味噌汁と漬物を多く摂るので、先日受けた「検診」の案内の中や、市の広報には、そういる留意点が記されていました。美味しさは、脂分、糖分、そして塩分が作り出すのでしょう。『過ぎたるは及ばざるが如し』なのでしょう。

 「あなたがたは地の塩です」と、愛読書にあります。塩は姿を溶かし消しながら、他の食材の味や栄養素を引き出し、食生活を美味しいものにしてくれています。褒められずに存在意味を表してくれています。そんな生き方を、もう少ししたい、誕生日の朝です。ネット会議で、” Happy birthday to you “ を、子どもたちと孫たちが歌ってくれました。一人の妻の夫、四人の子の父親、四人の孫のジジとして嬉しい次第です。さらに6才の小女朋友が、” Happy birthday to you “ を歌ってれくれました!
 

(塩釜の港塩山、干し柿の塩山、古民家の塩尻です)

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一対の現実

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 四年前の今日、12月16日に、中国に行きましてから、初めて、「葬儀」に出席させていただきました。その夏にお会いした方が、三日前に亡くなられたのです。病を得ておられて、その闘病の後に、召されたのです。六十有余年の生涯を終えられ、命の付与者の元に帰って逝かれたのです。

 その告別の式に列席させていただきました。私の愛読書に、次の様に記されてあります。

 「主の聖徒たちの死は主の目に尊い。 」

 司式者の導きで、4曲ほどの歌を歌い、お話が淡々と語られていました。最後に、ご子息が、200人ほどの会葬者に、会葬のお礼を、涙ながらに語っておいででした。

「浮世のさすらい やがて終えなば
輝く常世(とこよ)の 御国に移らん
やがて天にて 喜び楽しまん
君にまみえて 勝ち歌を歌わん」

 この方も、お父さまも、中国では、大変著名な書家で画家だったそうで、彼を慕う多くの方に、亡骸をみ送られて、荼毘にふされました。激動の1950年代にお生まれになり、ご両親の寵愛を受けて育てられ、大学を終えられ、国営企業で働きながら、創作活動をされたそうです。

 人の命、一生とは、かく短いものなのだということを、改めて知らされました。褒賞も栄誉も賛辞も、全てをこの地上に残して、去って行かれたのです。しかし創作された書や絵画は、残されているわけです。

 長年連れ添った奥様は、柩に蓋がされた時に、今まで我慢していた思いが流れ出て、大きな声でしばらく泣き崩れておられました。葬儀が執り行われたのは、この街の斎場でした。広大な敷地の中に、多くの葬儀施設があり、火葬の建物もありました。その日は、一番寒い日だったのです。真っ青な空が、どこまでも広がっておりました。

 やがて合い間見ゆる望みを持って、お見送りできたことを、驚くべき特権と思っております。ご遺族や友人知人の皆様の上に、お慰めを心から願った次第です。「生」も「死」も一対の現実です。天に望みをつないで、今を精一杯生きることが、私たちのすることなのでしょう。

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戦いの終結を願う

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 突然コロナ軍が国境を越えて、攻め込んで来て、諸国をなぎ倒して、多くの負傷者と死者を世界中で生み出している、まるで世界が戦場の様相を見せています。

 最前線で、医師や衛生兵は奮闘し、後方では対策が講じられています。でも戦場から心理的に遠く離れた参謀本部では、経済優先の主導で、最前線の現況を理解、把握していません。

 防護のためのどんな盾も、どんな防弾壁も役に立ちそうにありません。攻撃法を研究中で、どんな弾薬や防護服が有効かの研究が、世界中の参戦国で続行中です。現実は臨戦態勢の中で、右往左往している世界です。

 コロナ戦争が世界で繰り広げられる原因究明よりも、どう防護し、どう攻撃するかを、国連が主導したらよいのですが、この組織に力がありません。利害関係でことを処そうとする悪癖が、また行われています。

 専門機関の進言を聞こうとしないで、それを封じ込んで、政治優先で判断している間に、戦況はますます悪くなってきています。闇に活躍する敵軍を攻撃しつつ、一般人の不安や恐怖心の対策を講じないでいるので、戦況はますます悪化してしまっています。

 まさに世界パニックの前夜の様です。旅行などしてる暇などありません。忍び難きを忍んで待機することです。おもに社会的弱者を忘れてはいけません。前線で戦っている兵士のみなさんの無事を祈らねばなりません。終わらない戦いはないと信じます。国際協力をして、戦いの終結を願う年の暮れです。

(この華南の小朋友たちと世界中の子どもが健康に育ちます様に!)

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仙台

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 仙台に、青葉城の城址公園があります。樹々の緑が溢れていて、ここが「杜(もり)の都」と呼ばれる所以(ゆえん)を納得させてくれます。陸奥の雄、伊達政宗の居城でしたが、石垣が、強者どもの夢の跡の様にして残り、往時を偲ばせてくれます。政宗は、関ヶ原で武勲を上げ、徳川家に忠誠を尽くした大名だったのだそうです。

 この街にある耳鼻咽喉科を、ある方に紹介していただいて、鼓膜の再生手術で、仙台地下鉄の終点近くの将監(しょうげん)にある医院に入院したことがあります。その術後に時間があって、市内遊覧のバスに乗ったことがあったのです。その時、この青葉城を訪ねました。実は進学を考えていた時に、仙台市内の学校を候補に挙げていたのですが、希望学科がなくて、結局は受験 することはありませんでした。けっきょく親元から通学してしまいました。

 高校生の頃に、石坂洋次郎の本に魅せられて、読み漁った時期があって、この人が、青森の弘前や秋田の横手に住んで、そこの女学校で教えていたので、そんな関係で、東北へ行ってみたい思いがあったりしていたのです。詰まるところ、東京を逃げ出したかったので、京都も候補地に一つだった、気の多い青年期でした。

 小説に登場する田舎の学校や生徒や街の印象がよかったからですが、教師になりたかった私は、石坂洋次郎と同じ、女学校の教師をさせていただいたのです。その現実は小説に出てくる、青草の匂いの様なものではなく、東京の街のバターやシナモンの匂いのするコンクリートの中の学園でした。
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 その仙台市の高台の城跡に、馬上の政宗の銅像があり、仙台人にとっては、自慢のお殿様だったわけです。進取の精神に飛んでいたのでしょうか、家臣の支倉常長(あぜくらつねなが)を、「慶長遣欧使節」として、スペインに、派遣しています。しかし、「鎖国政策」を厳しくした幕府は、西欧との交流を、強引に断ってしまったわけです。

 それで長崎の出島を、江戸幕府の厳しい監督の下に、唯一の交易の場としたのです。物だけの交易に限ったのですが、学問や文化なども同時に入って来て、世界的な潮流を押し留めることができませんでした。やがて開港を迫られて、ついには横浜や函館などの港を開かざるを得なくなって行き、一気に明治維新へと歴史が移って行くのです。

 仙台は、笹かまぼこや牛タンが美味しい街ですが、日本でも住み易い街の一つに挙げられています。東北人の忍耐強さが溢れて、優秀な人材を社会に、輩出させているのです。大男を想像していた伊達政宗は、160cmほどの背丈だったそうで、当時では普通だったのでしょう。戦国時代ではなく、戦乱の収まった平和の時代に生きられて感謝を覚えたのです。よもや街作りに励んだ政宗は、その仙台の地下に電車が走り、プロ野球の球団がやってくるとは思いもあいなかったことでしょう。

(仙台市の「青葉城」と市鳥の「カッコウ」です)

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装われた美

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 私の愛読書に次の様にあります。

 「なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち(マタイの福音書6章28~30節)。」

 『どうして花は綺麗なのか?』という問いに、生物学者は、次の様に答えています。『花は植物の生殖器官。一番大事な花の機能は、子ども(種子)を残すこと。そのために美しくなったんです(京都大学教授・酒井章子)。』、建築家の酒井国雄は、『それは、自らの責任でそこにあるからだよ!』と答えています。

 受粉する必要がある木々は、美しくあることによって、鳥や虫を惹きつけるために、形や色や匂いを艶やかにすると言います。動物の世界も、発情期には、際立った色を見せ付けたり、相手を惹きつける匂いを放ったりします。また雄は、雌たちの前で強さを誇示します。弱い雌を、可哀想に思って自分のパートナーに選ぶ様なことは、動物の世界ではあり得ません。

 ところが人間だけは、外観だけではなく、秘められた内面的な美を受けて、それに呼応して結婚相手を選ぶことができます。ペテロという人が、次の様なことを書き残しています。

 「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。」とです。《心の中の隠れた人柄》を飾る様に勧めています。

 若かった時に、息を飲む様な美しい女性と出会ったことがあります。映画女優になれそうに眩しく輝いていました。でも、小説の様な言い方で、「縁」がなかったのです。未練はありませんが、今、どこでどうされているでしょうか。ところが「内面の美」は、朽ちずに、いよいよ輝いていくのかも知れません。打たれたり、裏切られたりして錬られるからでしょうか。ペテロが言う様に、内に《柔和さ》を宿すことなのでしょう。

 花も山も空も海も、みんな美しいのです。厳しい風や熱や寒さを超えていく中に、美しさがなお輝きを増していくのです。華南の小島の岩陰に、小さな花弁の花が咲いていました。燦々と降り注ぐ太陽の光を浴びて咲き誇っているバラや胡蝶欄に劣らない、清楚な美しさを湛えていました。「野牡丹」だと、後になって教えられたのです。ゼミの教師が、『野の花の如く』と色紙を描いてくれました。それも自然に《装われた美》なのでしょう。

 風に吹き飛ばされて地に落ちた種が、芽を出して美しい花を咲かせるのは、創造者のみ手によります。人を喜ばせるのではなく、天に向かって咲き出すからです。全天全地の創造者で統治者なる方を、褒め称えるためにです。ここ栃木の町にも、長く過ごした華南の街にも、生まれた山里にも、学校に通った畦道にも、その様に咲く花がありました。

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真理

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1946年9月、東京帝国大学卒業式で、時の学長、南原繁が次の様な、餞(はなむけ)の言葉を語っています。

『・・・敗戦日本の復興のための世界歴史的教訓として、近頃しばしば人の説くデンマルクをして、80年以前、同じく敗戦のどん底から立ち上がらしめ、よく平和と文化の幸福な国土を築くに至らしめた所以ものは何か。実にかような真理と精神の力に対する無限の信頼を抱いたところの隠れた幾多個性のあったことに因るのである。

 かの三千平方哩の荒寥たるユトランドの曠野を化して遂に緑の林野となし、この国の林業および牧畜の一大富源をつくったのは、若き地質学者にして復員軍人たるダルカスとその子の事業であった。そしてかれら父子をしてこの事業を完遂せしめたものは、実にユゲノーの自由の信仰と、誤解と嘲笑に堪えてあくまで真理を探求する不屈のたましいであったのである。また人の知るデンマルク創始の国民高等学校は、ひとりの精神の指導者グルンドウイの思想に共鳴したところの、コペンハーゲン大学卒業の数人の学士が、その未来に約束された輝かしい地位を捨てて、それぞれ田圃に立ち帰り、地方青年の間に神を敬し、隣人と祖国を愛する人間の教育を始めたことに由来する。これがのちに全国に組織せられ、今日のデンマルクを担うところの国民の中堅層は、ここで養成せられたのである。・・・諸君、我々を取り囲む環境がいかに苛酷でであろうとも、いまこそわれらの学んだ真理と精神の力を発揮すべき時である。』

 この南原繁は、香川県から上京し、一高、東京帝国大学に学び、青年期に新渡戸稲造に強い感化を受け、さらに内村鑑三の教えを受けた人でした。青年期に受けた薫陶は、学問だけではなく、精神の高さが培われていました。まるで神学校の卒業生に、その校長が送る言葉の様に語ったのです。その最後で、次の様に語って終えています。

 『諸君は今日ここに別れを告げるわれら師友と、諸君が長い学窓生活の最後を学んだこの学園のことを、今後の生活の幾曲折において、想い残されんことを望む・・・かくて諸君何処にありても、われわれとともに同じくこの母校を中心として、見えざる真理の紐帯によって結ばれた一つの結合のうちに常にあるであろう。
  
 さらば卒業生諸君!いつまでも真理に対する感受性を持ち、且つ気高く善良であれ!そして常に明朗にして健康であれ!』
 
⚪︎ ユトランド(Jylland )
  ヨーロッパ大陸北部にある、北海とバルト海を分かつ半島である。北側がデンマーク領、根元のある南側がドイツ領である。「ジュート人が住む地」という文字通りの意味である。
⚪︎ダルカス(Enrico Mylius Dalgas)
  デンマークの軍人,デンマーク・ヒース協会初代会長。デンマークに1782年に移住したフランス系の家系に生まれ,1853年北ユトランド,ビボーの軍道敷設隊の工兵中尉に任官,56年大尉に,80年中佐となる。ビボー在勤中にユトランドの土壌を熟知し,66年オーフスで友人らとともにヒース協会を設立し,ヒース地帯の開墾に力を注いだ。
⚪︎ユゲノー(ユグノー/Huguenot)
  16~18世紀のフランスのカルバン派プロテスタントのこと。手工業者・独立自営農民・小商人に多く、次いで貴族層に浸透。カトリックと対立し、ユグノー戦争を経て、1598年のナント勅令により信仰の自由が認められたが、1685年、ルイ14世の勅令廃止によって再び禁止され、1787年、ルイ16世の寛容令によって自由を得た。
 

(デンマークのユトランド半島です)

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