仙台

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 仙台に、青葉城の城址公園があります。樹々の緑が溢れていて、ここが「杜(もり)の都」と呼ばれる所以(ゆえん)を納得させてくれます。陸奥の雄、伊達政宗の居城でしたが、石垣が、強者どもの夢の跡の様にして残り、往時を偲ばせてくれます。政宗は、関ヶ原で武勲を上げ、徳川家に忠誠を尽くした大名だったのだそうです。

 この街にある耳鼻咽喉科を、ある方に紹介していただいて、鼓膜の再生手術で、仙台地下鉄の終点近くの将監(しょうげん)にある医院に入院したことがあります。その術後に時間があって、市内遊覧のバスに乗ったことがあったのです。その時、この青葉城を訪ねました。実は進学を考えていた時に、仙台市内の学校を候補に挙げていたのですが、希望学科がなくて、結局は受験 することはありませんでした。けっきょく親元から通学してしまいました。

 高校生の頃に、石坂洋次郎の本に魅せられて、読み漁った時期があって、この人が、青森の弘前や秋田の横手に住んで、そこの女学校で教えていたので、そんな関係で、東北へ行ってみたい思いがあったりしていたのです。詰まるところ、東京を逃げ出したかったので、京都も候補地に一つだった、気の多い青年期でした。

 小説に登場する田舎の学校や生徒や街の印象がよかったからですが、教師になりたかった私は、石坂洋次郎と同じ、女学校の教師をさせていただいたのです。その現実は小説に出てくる、青草の匂いの様なものではなく、東京の街のバターやシナモンの匂いのするコンクリートの中の学園でした。
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 その仙台市の高台の城跡に、馬上の政宗の銅像があり、仙台人にとっては、自慢のお殿様だったわけです。進取の精神に飛んでいたのでしょうか、家臣の支倉常長(あぜくらつねなが)を、「慶長遣欧使節」として、スペインに、派遣しています。しかし、「鎖国政策」を厳しくした幕府は、西欧との交流を、強引に断ってしまったわけです。

 それで長崎の出島を、江戸幕府の厳しい監督の下に、唯一の交易の場としたのです。物だけの交易に限ったのですが、学問や文化なども同時に入って来て、世界的な潮流を押し留めることができませんでした。やがて開港を迫られて、ついには横浜や函館などの港を開かざるを得なくなって行き、一気に明治維新へと歴史が移って行くのです。

 仙台は、笹かまぼこや牛タンが美味しい街ですが、日本でも住み易い街の一つに挙げられています。東北人の忍耐強さが溢れて、優秀な人材を社会に、輩出させているのです。大男を想像していた伊達政宗は、160cmほどの背丈だったそうで、当時では普通だったのでしょう。戦国時代ではなく、戦乱の収まった平和の時代に生きられて感謝を覚えたのです。よもや街作りに励んだ政宗は、その仙台の地下に電車が走り、プロ野球の球団がやってくるとは思いもあいなかったことでしょう。

(仙台市の「青葉城」と市鳥の「カッコウ」です)

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