長崎と平和

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 江戸時代に、西洋に憧れる青年たちが、思いを向けたのが、日本で唯一開港されていた街、「長崎」でした。初期にはポルトガル人、後にオランダ人の商人たちが、長崎の港の一角に作られた「出島」に住んで、江戸幕府との交易をした人工島だったのです。西洋文化や西洋医学の流入もあって、世界に開かれた港は、好奇の的でした。 

 昭和生まれの私なのに、なぜか「長崎」に行ってみたくて、小学生の頃に、母の出身地の出雲に行ってから、十九の夏に、長期の旅をしたのです。小倉、別府、鹿児島と旅をしました。平戸口から、平戸にも行ったでしょうか。中国人やマレー人もで出島の働きのために居住していた様です。

 やはり一番印象深かったのは、被爆記念の「平和祈念像」でした。松江で生まれ、飯石郡飯石村(現・雲南市三刀屋町)で育った永井隆が、長崎医科大学病院で医師として勤務していた時、被爆しています。昭和20年8月9日のことでした。この永井隆を歌った「長崎の鐘(作詞がサトウハチロー、作曲が古関裕而)」が世に出たのは、昭和24年のことでした。
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1 こよなく晴れた青空を
悲しと思うせつなさよ
うねりの波の人の世に
はかなく生きる野の花よ
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る

2 召されて妻は天国へ
別れてひとり旅立ちぬ
かたみに残るロザリオの
鎖に白きわが涙
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る

3 つぶやく雨のミサの音
たたえる風の神の歌
耀く胸の十字架に
ほほえむ海の雲の色
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る

4 こころの罪をうちあけて
更け行く夜の月すみぬ
貧しき家の柱にも
気高く白きマリア様
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る

 私が訪ねた時には、長崎の街は復興していて、真夏の強い陽射しを受けて焼ける様に暑かったのです。鐘の音の記憶はありませんが、私も平和の尊さを感じた旅でした。また、いつか長崎を訪ねてみたいものです。

(川原慶賀「長崎港図」左左側に扇形をした出島、平和祈念像です)

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