騒音の諸相

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 子どもの声や行動が、「騒音」だという騒動があります。子育てを、私たちが始めたのが、長男が東京都下の街で生まれ、ついで彼が2ヶ月で新しく越した街からでした。2階建てのアパートの二階の角部屋に住んだのです。近所の公民館をお借りして、日曜学校を始めました。20〜30人もの子どもたちがやって来て日曜学校を始めました。その中の何人かの子たちが、週日の午後の下校後に、わが家に、よく遊びにやって来たのです。

 壁も床もが造りが薄く、音が漏れるに十分の古い普請のアパートで、階下や隣は迷惑だったことでしょうか。階下の家は天井、わが家では床下を、きっと箒の先でしょうか、口でではなく、トントントンと築突き上げて、抗議されたことが何度もありました。

 それに、『越して来て空気が変わったからね!』と、近所のお母さんたちに、同情されて言われた様に、長男がよく泣いたのです。『泣く子は育つ!』で、あの泣き虫は、187cmの青年に、いえもう五十の中年になっています。今は魂のお世話をする仕事に励んでいるのです。

 社会全体に、今や余裕や愛情や労りが少なくなってきているのではないでしょうか。忍耐を超えてしまう限界点があって、それを「受忍限度」と言うのだそうです。電車や飛行機の中で、幼い子どもが泣くのを、同乗客が我慢できないで怒鳴ることが、チョクチョクあるのだそうです。また、保育園の保育場で遊ぶ子どもの声がうるさいとか、送り迎えの車の音もうるさいのだそうです。そう言った騒音で、事件だって起きている様です。

 聞き方によって、ある人には、[成長期に発せられる好ましい音]、[将来性を告白している音]と捉えられる人と、まさに騒音でしかない人がいるわけです。やはり、今流の社会問題として騒がれています。

 父の家に育った男の子たち四人は、兄弟喧嘩をし、父子喧嘩をし、外でも喧嘩をし、怒鳴り声や物を壊したり叩いたりする音で満ち溢れていました。ビックリした近所の方は、はじめの頃は注意しに来たのですが、父に、『うるさい!』と、怒鳴られて、『はいっっ!』と言って、追い返されてから、もう何も言われなくなってしまいました。道の向こう側の家の一家は、窓の上のガラス越しに、みんなで、我が家の様子を見ていました。

 家内が働いていた職場の上司が、『大丈夫なの?』と心配して聞いてきたのだそうです。結婚を決めた相手の私で〈大丈夫〉なのかと言う、そんな心配と同情のこもった質問を受けたわけです。その人は、街一の[騒音一家]の父の家の評判や実情を知っていた方だったのです。家内は、『大丈夫です!』と言って、嫁入りして来て、五十三年経った今も、どうも「受忍間度」内で大丈夫そうです。

 騒音に忍耐してくれた近所の人がいて、きっと『大きくなったら、どんな子たちになってしまうんだろう?』と、心の内では溢れるほどに心配していた近所のみなさんが、いつの間にか、ちゃんと高校に進学し、大学まで行き、一部上場の会社に就職し、外資系のホテルマンになり、高校の教師になっていった四人に、予想外、当ての外れた私たちを見ていて、どう思っておられたのでしょうか。

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 上手に感情を発散したのがよかったのでしょう、危機の思春期を上手に越えられ、だれも極道者にもならずに、八十を迎え、迎えつつある四人の今を、もし知ることができたら、奇跡だと思われたに違いありません。これは、万物の創造者なる神の「憐憫」に違いありません。

 あの映画で人気の寅さんが、久し振りに帰宅し、おいちゃんの和菓子屋の茶の間に座っていると、『おい!トラ、こんなところでクソひっちまって!』と、サクラの夫が裏口から帰って来るくだりがあります。自分のことを言われたと勘違いして、『俺がどこに・・・?』とお尻を見ながらトラさんが言い返します。おいちゃんもおばちゃんも、サクラもハラハラしています。『いつもみんなでトラ、トラと言ってオレの悪口を言ってるんだろう!』と寅さんはイジケます。そこへ隣の印刷工場の社長が、『トラ、トラ、このヤロー!』と、トラを追いかけながら裏口から入って来るのです。それで堪忍袋の尾が切れた寅さんが、喚きながら、社長に物を投げたり大暴れをする、そんな場面がありました。

 そんな場面が、我が家にもあったなあ、と思ったものです。翌朝になると、子どもたち四人は、学生服を着て登校し、父は、Yシャツにネクタイ、ピカピカに磨いた靴に紳士姿で出勤していくのです。昨夜の騒ぎが嘘の様に、何もなかったかの様に、すずしい顔で家を、みんなが出て行くのです。そんな繰り返しだったなあ、と家内に話しました。

 家内と子育てをしたのは、みんなで建てた教会堂の一階の奥の部屋や、道路の反対側の借家でした。私たちに4人の子どもたちも、元気イッパイ、声まで大きく、六匹の秋刀魚を焼いた煙でモクモクさせて、隣家から苦情が出るほど、まあ迷惑な騒音一家だったかも知れません。そこから、市営団地、県営団地と引っ越しをしていく頃に、一人の姉妹が礼拝に見える様になっていました。

 彼女が、市内の高校に通っている頃、教会の前をよく通ったのだそうです。教会や借家の玄関から、勢いよく出てくる子どもたちの姿や声を見聞きして、『楽しそうでいいなあ!』と思っていたのだそうです。そんな高校時代を過ぎて、留学中の時だった時にでしたか、クリスチャンになって、礼拝に見える様になっていたのです。

 その騒音一家が、この方にとっては、自分の家庭と違った和気藹々の楽しそうな一家に見えて、羨ましくて仕方がなかったのだそうです。そんなことだってあるのですね。その頃には、上の子たちは、学びのために留学したり、東京に行ったりして家にいない頃でした。

 思い返せば、楽しくもあり、騒騒しい時々でしたが、いつも、忍耐の神さまの憐れみが溢れていたでしょうか。それに、隣人のみなさんの忍耐もあった様です。それに、母の祈りや家内の祈りがあったからでしょうか。

(ウイキペディアの柴又駅前の寅さん像、焼き秋刀魚です)

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