装われた美

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 私の愛読書に次の様にあります。

 「なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち(マタイの福音書6章28~30節)。」

 『どうして花は綺麗なのか?』という問いに、生物学者は、次の様に答えています。『花は植物の生殖器官。一番大事な花の機能は、子ども(種子)を残すこと。そのために美しくなったんです(京都大学教授・酒井章子)。』、建築家の酒井国雄は、『それは、自らの責任でそこにあるからだよ!』と答えています。

 受粉する必要がある木々は、美しくあることによって、鳥や虫を惹きつけるために、形や色や匂いを艶やかにすると言います。動物の世界も、発情期には、際立った色を見せ付けたり、相手を惹きつける匂いを放ったりします。また雄は、雌たちの前で強さを誇示します。弱い雌を、可哀想に思って自分のパートナーに選ぶ様なことは、動物の世界ではあり得ません。

 ところが人間だけは、外観だけではなく、秘められた内面的な美を受けて、それに呼応して結婚相手を選ぶことができます。ペテロという人が、次の様なことを書き残しています。

 「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。」とです。《心の中の隠れた人柄》を飾る様に勧めています。

 若かった時に、息を飲む様な美しい女性と出会ったことがあります。映画女優になれそうに眩しく輝いていました。でも、小説の様な言い方で、「縁」がなかったのです。未練はありませんが、今、どこでどうされているでしょうか。ところが「内面の美」は、朽ちずに、いよいよ輝いていくのかも知れません。打たれたり、裏切られたりして錬られるからでしょうか。ペテロが言う様に、内に《柔和さ》を宿すことなのでしょう。

 花も山も空も海も、みんな美しいのです。厳しい風や熱や寒さを超えていく中に、美しさがなお輝きを増していくのです。華南の小島の岩陰に、小さな花弁の花が咲いていました。燦々と降り注ぐ太陽の光を浴びて咲き誇っているバラや胡蝶欄に劣らない、清楚な美しさを湛えていました。「野牡丹」だと、後になって教えられたのです。ゼミの教師が、『野の花の如く』と色紙を描いてくれました。それも自然に《装われた美》なのでしょう。

 風に吹き飛ばされて地に落ちた種が、芽を出して美しい花を咲かせるのは、創造者のみ手によります。人を喜ばせるのではなく、天に向かって咲き出すからです。全天全地の創造者で統治者なる方を、褒め称えるためにです。ここ栃木の町にも、長く過ごした華南の街にも、生まれた山里にも、学校に通った畦道にも、その様に咲く花がありました。

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