『台風が来る!』とラジオの天気予報が出ると、軒の下に備えてあった板を取り出し、金槌と釘で、窓と玄関に打ち付けました。強風で押し破られるのを防ぐためでした。今では、殆どの家が、モルタルやコンクリートで作られ、窓や玄関の扉にはアルミサッシの頑強なものが用いられていますから、このようなにわか仕事は不要になっています。
学校に行ってた頃、友人と二人で、九州旅行をした時のことでした。熊本の天草・本渡という街に着いて、一番安い旅館を紹介してもらって泊まったときのことです。その晩、何と熊本地方を台風が通過したのです。どうも台風が来る方に誘い込まれれるようにして旅先を決めてしまったのでした。その旅館は、雨戸と障子で外と仕切られているだけだったと思います。唸るような強風が吹きつけて、ガタガタと扉を押してきましたので、寝るどころではありませんでした。それで仕方なく、障子だったか雨戸だったかに背中を当てて、台風の通過を待っていたことがありました。もう少しお金を出せば、しっかりした作りの旅館に泊まることができ、こんな心配や備えをしないですんだのですが、いかんせん便暴力でした。実は、立川の自動車学校の費用(自動車の免許を取るため)に、父からもらったお金を流用して旅に出てしまったのです。おかげで、父に再びくれとは言えず、免許証を取らずじまいでした。まだまだ経済的に、学生で免許証を取れるような時代ではなかったのですが。
昨晩、泉州という海岸の町に台風が重陸したようです。その余波でしょうか、こちらも強い風地雨が吹き付けていましたが、被害はさほどではなかったようです。台風といえば、神奈川県の湯河原で海水浴をしたときにも、出くわしたことがありました。上の兄の学友のお父さんの会社が、ここに海の家を借りでいたのです。ちゃっかり、ここに遣って来る大学生たちに紛れ込んで、何と20日間ほども《泳ぎ三昧》をさせてもらったのです。高校二年生の時でした。滞在費は無料、何もかも備えられていたのです。その代わり、兄の友人の弟さんたちがしていた賄いの手伝いをしていました。湯河原の海岸で、漁師が曳くていた地引網で獲れた「小鯵」を買っておかずにしたことがありました。準備をしていたとき、この弟さんと二人で、親指で小鯵の腹を割いて内蔵を取り、骨と頭を取り除いて、わさび醤油で食べさせてもらったのですが、あの美味は、いまだに忘れられません。そんな楽しい生活をさせてもらっていた湯河原の海岸にも、台風が襲ってきたのです。
怖さ知らずの17歳の私は、遊泳禁止の海に入って、体一つの波乗りをしていました。大学生たちがやっているのを見て、彼らがコツを教えてくれたからです。台風は、ちょうどいい波を持ってきてくれるのです。何度か楽しくやっているうちに、波に乗ろうにも乗れないのです。引き潮が強くて、沖に引いていく波に足を取られてしまい、人間の力では到底抗しきれない。どんなにあがいても駄目でした。『死ぬかもしれない!』という恐怖の波が、思いの中を占領したのです。ところが、私の体を、1つの波がフワッと抱き込んでくれて、浜にスーッと連れ戻してくれたではありませんか。こういうのを「九死に一生を得る!」と言うのでしょうか、一体、あの波はどこから来たのでしょうか。これまで死にそうな体験の多い私ですが、何時も「不思議な力」に護られているように感じてならないのですが。転ぶ前に考えるのではなく、転んで痛い目にあってから考える無鉄砲な私ですのに。時々、その不思議体験を数えてみることがあります。
母の話で父も、弟の話で彼も、同じような経験をしたと聞いていますが。この《神秘な体験》に甘んじることなく、『注意深く生きていこう!』と決心するのですが,怪我がいまだに絶えないのです。『娘の頃に、お転婆だった母の血のせいにしてしまおうか!』,そんなことを思っていますと,台風の後に吹いてくる風が,私の頬をなぜていきました。