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『時は人の心を癒すのか?』、哀しく辛い経験が、時間の経過とともに、傷付いた心が癒されるのかどうかを問い掛けています。
昨年12月23日に、姉のように慕っていた幼馴染と死別した、次女の二人の十代の子が、「戸惑い」、「困惑」の渦中にありそうです。幼い日から一緒に育ったほどの近い交わりの中にあった、14、15の心が揺り動かされている様です。もう「死」という人生の厳粛な命題の前に立たされて、学ばなければならないわけです。
次女からのメールに、次の様にありました。『サラちゃんがポスターをオーダーして取りに来ないのでプリント屋さんから連絡があったそう。その2枚が、ノーくんのためにオーダーしてあったもので、多分クリスマスプレゼントだったようです。アーちゃんにはお洋服を買ってくれていて、ノくんにも用意してくれていたみたいです。優しいね。ノアの好きなミュージシャンのカバーと面白い映画のカバーでした。大切にする、と言っています。』とありました。
亡くなる前に、街のプリント店や洋服屋に行って、可愛い弟や妹へのプレゼントを用意していたのが、そう言った形でわかった次第は、嬉しいやら、辛いやらで十代の子たちにとってはどうにもやりきれない思いがありそうです。
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『私もずーっと考えないようにしていたけど、娘を亡くす事を考えただけで心がはち切れそう。とても優しくて面白くていつも笑って話をしていた素敵なお姉さんみたいな存在との死別を真正面から受けている子どもたちの事を考えただけで辛くなります。2人ともまだ14歳と15歳、あんなに近い関係だった人を2人同時に亡くしたんだよね。』と、次女が続けています。
送られてくる、孫たちの成長の記録を撮って、ジジババに知らせようとした多くの写真の中に、オレゴンの川でカヌーやパドルボードを、楽しそうに興じている一葉の写真がでてきました。『板子一枚下は・・・』と言われてきていますが、一枚の薄い板の下の水は、泳ぐ目的のために作られていない人にとっては、下は死の世界なのです。
子どもたちが幼かった日、よく静岡県の静波の海水浴場に泳ぎに行きました。ある夏のことでした。長男の親しい同級生が、親戚の子の流された浮絵輪を追って、その海岸の沖で亡くなる事故がありました。慕ってくれた友の死は、長男にとっては、辛い経験だった様です。先年亡くなられた、デーケン教授が、次の様なことを言っていました。
『感情、理性ともに相手の死という事実を否定する。 「あの人が死ぬ訳がない、きっと何かの間違いだ」という心理状態。
・・・身近な死に直面した恐怖による極度のパニックを起こす。 悲嘆のプロセスの初期に顕著な現象 。なるべく早く抜け出すことが望ましく、またこれを未然に防ぐことは、悲嘆教育の大切な目標のひとつと言える。・・・不当な苦しみを負わされたという感情から、強い怒りを感じる。 「私だけがなぜ?」「神様はなぜ、ひどい運命を科すの?」 「なぜ私だけが、こんな目に…」という、不当な仕打ちを受けたという感情が沸き上がる。 亡くなられた方が、長期間闘病を続けた場合など、ある程度心の準備ができる場合もあるが、急病や災害、事故、自死などのような突然死の後では、強い怒りが爆発的に吹きす。 故人に対しても、また自分にひどい仕打ちを与えた運命や神、あるいは加害者、そして自分自身に対する強い怒りを感じることもある。 』とです。
時間だけではなく、命の付与者からの、懇(ねんご)ろな癒しと慰めと正しい理解が、愛するご主人とサラちゃんを亡くされたお母さんと二人の孫に与えられる様に願う、早春の温かな陽差しが入り込む、巴波の流れの辺りの窓辺です。
(柊〈ひいらぎ〉の花、ウイラメットの風景です)
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