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南洋の島でしたら、寒さもなく、食料も簡単に入手できたのに、どうして冬場の厳しい天候の中、寒い地に人は住み続けたのでしょうか。それが謎めいて興味を湧き立たせてくれるのです。津波で福島の原発が被害を被って、原子炉が溶解して、大変な事態が生じた時に、『東京も危ない!』と言って、首都圏から沖縄に移住してしまった人たちがいました。人は《安全さ》を求めて、危険を避けて、南下する傾向があるのでしょうか。
寒さ、冷害、凶作を避けて、農作の容易な地を求めても不思議ではないのに、名寄、根室、稚内、そして樺太やアリューシャン列島に住み着いたのでしょうか。食物の自給は最も定住の条件でした。この《オホーツク文化》は、大陸の黒龍江(アムール川)の河流域にも、イルクーツクにも連なる文化や、カムチャッカ半島の《コリャーク文化》にも関連していたのだろうと思われています。さらにアラスカのエスキモーの文化圏にも連なりそうです。
この人たちは、農耕民族でなく、狩猟民であったことを考えると、極北の地を生活圏に定めた理由に納得します。海洋の漁撈、陸での狩猟で生活が成り立っていて、やがて農耕が始まり、より良い植生を求めて、温暖な地に移って行って、消滅したのでしょうか。または新しい鉄器を使う《擦文(さつぶん)文化》が起こって、オホーツク文化が終わったか、変化したか、吸収されていったのかも知れません。
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オホーツク文化圏の人々の生活基盤は、海と山野での漁労と狩猟であって、そんな生活基盤でしたが、文化的なものや宗教的なものは、ヨーロッパ文明と比較すると、随分と原始的だったことが気になります。北米のエスキモーの生活も、アジア系の人種ですから、どこかで分離したり集合しているのかも知れません。そうなると、思いが広がって行き、好奇心が溢れてしまうのです。
創世記の記事の中に、「一方、ツィラはトバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる道具を造る者であった。(4章22節)」に、鉄工、鉄鍛冶を生業にしていたトバル・カインが出てきます。今から6000年近く前だと思われます。それなのにオホーツク文化には、鉄製品の使用がみられません。日本史に見られるのは、大化の改新の頃に鉄鍛治がいたそうですが、紀元600年の半ば頃のことになります。
遥か昔、「絹の道」がヨーロッパと東アジアを結んでいたのに、その文化的影響は、ずいぶん遅かったことになります。鉄の武器で、部落間の闘争が激化し、漁や猟にも鉄器が使われ、捕獲量も増えて、生活様式に変化がやってきたに違いありません。そんな雪原や結氷の中を行く原始的な古代人の生活の中に、浪漫が感じられて、興味が尽きません。
スーパーマーケットで食料を賄える、この時代に生きてきて、労働が分業されて、精神労働も生まれてきている社会は、住み良いのですが、その反面、考えもしなかった世界大のストレスも生じて、古代よりも住み難いかも知れません。愛読書にある、「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。(マタイ6章34節)」、今日一日の「心配」や「苦労」で、今日を生きる毎日がよろしいのでしょう。
(流氷とモヨロ貝塚の出土品とアリューシャンの白雪の山です)
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