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『いやー明治だよ緑波(ロッパ)さん!』、日本史を学んだ私たちには馴染みの暗記例でした。明治の御維新、明治元年が ” 1868 ” 年であったからです。そして、日米英の太平洋戦争の開戦は、その七十年余り経った、1941年12月8日のことでした。その4年後、敗戦を喫してから、今年は七十有余年が過ぎているのです。私たち四人兄弟が、みな七十代になっていますから、その生まれた頃は、日本に大きな変化があった明治維新から、七十年の節目、折り返しがなされたわけです。父は1910年生まれでしたから、大変革の年から43年経っていたことになります。
こう言った年数を勘定しますと、歴史というのは、意外と身近なのだと思わされて仕方がありません。私が日本の歴史の中で、最も関心を向けているのが、「鎌倉時代」なのです。中学の3年間の担任で、社会科を教えてくれた教師が、日本史の時間に、『日本人が最も覇気があって、潑刺としていた時代は、鎌倉時代です!』と教えてくれた時からの関心なのです。源頼朝が、鎌倉に幕府を置いて、征夷大将軍になったのは、1192年のことでした。今より千年の昔のことになります。
その頼朝は、公家社会から、武士中心の社会に移行した大きな転換期の中心人物であったわけです。『俺は鎌倉武士の末裔なのだ!』と、あまり誇ったりしなかった父でしたが、ただそんなことを言っていました。頼朝から拝領した土地に父が生まれ、その生家が今も残り、先年、兄と弟とで訪ねたのです。千年も前のことと自分がつながりがあることに、なんとも不思議な感覚を、初めて感じたことでした。
歴史とは、人や時との関わりだけではなく、「土地」とのつながりでもあることを思わされるのです。時は移ろい、人は生まれては逝き、また生まれ、上物の家屋は朽ち果てては、建て直されても、「土」は残るわけです。自分が生まれた山村にも愛着を感じますが、一族が、千年もの間住み続けている街(三浦半島/横須賀)には、さらに強い思いを覚えてしまいます。その街が、やがて日本海軍の主要な軍港になり、真珠湾攻撃艦隊の軍艦の母港にもなったのです(広島・呉の軍港を経て最終的には択捉島(エトロフ)のヒトカップ湾から出港しています)。
生まれた村には家もなく、祖伝伝来の土地には、父の生まれた家はあっても、相続権を放棄していますので、実際にはありません。たとえ「天涯の弧客(てんがいのこきゃく)」であっても、天なる故郷には、帰り迎えてくれる家が備えられていると、信じているのです。そんな思いで、この年を迎え、新しい年も三週が過ぎようとしています。何か重いものを負いながらの2021年ですが、恐れません。
(横須賀市の市花の「浜木綿〈はまゆう〉」です)
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