药(薬)

昨晩の夕食は「餃子」でした。先週末、息子家族と家内が招かれて、《ギョーザ・パーティー》に参加してきました。日本で仕事をする中国人のみなさんが、開いていたのだそうです。残った餃子の餡を頂いてきましたものを、家内が、市販の餃子の皮に包んで、水餃子にしたもので、とても美味しく頂きました。あるブログに、こんな記事がありました。

『日本人の大好物のつである「餃子」は中国の東漢時代に由来し、当時の名医・張仲景(ヅァン・ゾンジン)が創案したものである。それは元々形が耳に似ていることから、当時「嬌耳(ジャウ・ア)」(可愛い耳)と呼ばれていた。餃子を作った張仲景はどんな難病でも治すことができる優れた医術の持ち主であり、 民衆から聖医と呼ばれ、道徳家でもあった。張氏は、貧困層に対しても富裕層に対しても真面目に診療を行い、多くの命を救った。疫病が流行ったある年に、張 氏は勤め先の政府庁舎前で、大きな釜を設置し薬を煎じて多くの民衆を救ったため、民衆の敬愛を得ていた。

張仲景が引退後、故郷に帰ったが、歯を食いしばって飢えと寒さを忍ぶ多くの貧しい民衆の耳が凍傷になった悲惨な状況を知り、民衆を助けることを決心した。多くの患者が治療を求めに来る ため、張氏は多忙な毎日を送った。張氏は飢えと寒さを忍び耳が凍傷に冒された民衆のことがどうしても気がかりであった。』

とありました。このように中国原産の「薬」と言われた餃子は、今日日、日本ではラーメンと共に「国民食」だと言えそうですね。この帰国の2週間に、もう4回ほど餃子を食べているのには、驚かされてしまいます。この「餃子」のせいでしょうか、今朝受けました、《内視鏡検査》では、『あなたの胃には問題ありません!』との医師の診断でした。中国に再び帰ったら、せっせと餃子を「薬(药yao)」として食べることにしましょう!

(写真上は「張仲景」、下はh tp://blogs.dion.ne.jp/xiongmao/archives/8335677.htmlの「水餃子」です

バリウム

冬休みには、避寒ということで、長女のいますシンガポールに行く予定を立てていました。ところが、昨秋、家内が入院治療をしました関係で、日本に帰って治療を継続したほうがよいとのことで、急遽日本への帰国に変更いたしました。胆石性膵炎の手術と、査証の更新のために帰国したのですが、家内の手術は、精密な検査をしてから決める、最悪の場合のみ手術で、極力、リスクの大きい手術は回避したいとの医師の診察でした。私たち家族は、手術なしの治療を、心から願っているところです。手術することしか思いになかった私たちにとって、順天堂医院のF医師の言葉は、”good news”でした。きっと、手術することなく中国の《鞘(さや)》に戻れるのではないかと思っております。

「査証」ですが、2年間の許可がおりました。多くの人にご心配していただいたのですが、円滑に入手することができ、「一件落着」、いえ「二件落着」といったところです。実は、三件目があるのです。家内の思いもよらない疾患で、昨秋11月には市立病院に一週間入院治療をし、退院後も、中国漢方医の医師の診察、医科大学付属病院での診察を経ての帰国で、両親の「健康不安」を覚えたのが、四人の子どもたちでした。『お母さんだけではなく、この際、お父さんも、しっかり検査をしてください!』と、全員から言われてしまいました。今朝、私は意に反して、家の近くにある大きな病院で、「人間ドック」の検査に行ってきたのです。多分20年ぶりのことであります。それでも、ほぼ毎年、中国の町の検査を受けてきておりますから、帰国時の検査は不要だと思っていましたし、なにか発見されて束縛されたくないとの思いもあって、避け続けてきたのですが、今回ばかりは拒めませんでした。今、バリウムを飲んだ後の不快感に悩まされています。一週間後に結果が出てまいりますが、帰りの飛行券は手元にありますから、何も発見されないで、中国の町に戻れるのだろうと思っております。

父は退院の朝に倒れて不帰の人となったのですが、『俺も!』と思ってはみますが、だれも願うようには死んでいくことができません。人には、《生きる責任》があるのでしょうか。妻のために、子どもたちのために、可愛い孫のために、そしてまだまだ元気な母のために、社会的な責務が残されているのだと思わされるのです。中国の地には、帰国前に『再見!』と言ってくれた学生のみなさんがいて、彼らに会う責任もあるわけです。そうしますと、まだ死ぬわけにはいかないのですが、これだって、私の願いにはよらないことになります。

「オリンポスの果実」を書いた田中英光が、太宰治の墓の前で、子どもたちに、『さようなら!』との遺書を残して自死しますが、彼と同じく小説家になった息子さん(光二氏)が、そんな父を語っていたのを読んだことがあります。虚構の世界をさまよう小説家が、書けなくなると死を選ぶ事例が多いようです。「老人と海」を読んで感動した中学生の私は、それを書き著したヘミングウエイが、銃を用いて自らの命を断ったのを知ったときは、ショックでした。みんな人は、旅人のように、この世に寄留して、それぞれの短い人生を生きるようにと、いのちの付与者に命じられているのですね。どうせ生きるなら、楽しく喜ばしく生きたいものです。そして、『よく生きた!」と、子や孫に言われるように生きてみたいものです。与えられた天職があって、それを全うすべく、来週は機上の人となりたいと願う、バリュウムの喉越しの残る、暦の上では「節分」の夕方であります。

(写真上は、「順天堂医院(御茶ノ水)」、下は、大阪大学医学部の「バリウムと発泡剤」です)

代官山


渋谷から、東急東横線の電車に乗って1つ目の駅が「代官山」で、ここに引っ越して部屋を借りた次男を、今週訪ねたのです。ここは、東京の「住みたい街」の上位に位置する《人気スポット》で、若者好みの街です。正面口付近に立って、お洒落した若者たちを眺めている私を、息子が出迎えてくれました。駅周辺はアパート群で、階下には瀟洒な店がならんでおります。渋谷の街の喧騒から、ちょっと離れただけで、こんなに閑静な街を形作っているのが、いささか不思議な感じがいたします。息子に聞きますと、この周辺は、IT 関係の会社の多い街だそうで、彼もまた、その業種に従事しております。

もう50年も前のことになるのですが、私は新宿で「山手線」に乗り換えて、目黒からバスに乗って学校に通っておりました。宮益坂を登って行く青山学院のある六本木方面は、けっこうにぎやかだったのです。渋谷駅は、谷間にあるように坂の多い街の谷間にあって、山手線の外側は、低い軒を連ねた平凡な住宅街だったのを覚えています。今回、帰りには、「恵比寿」から電車に乗り込んだのですが、当時は、エビスビールの工場があっただけで、何もなかった駅の周辺が、繁華な街になっていたのにも驚かされて、初めて恵比寿の駅を利用しました。昔日の感がまったくなく、大都会に飲み込まれてしまったようです。

江戸時代には、「目黒のさんま(落語の演題)」に出てくる殿様が狩りをした地に近いのですから、この辺も原野だったのでしょうね。昭和二十年代の中頃になって、『四人の子どもたちの教育を、どうしよう?』と考えた父が、中部山岳の山村から出て、家を最初に見つけたのが、新宿でした。横須賀で生まれて、若い時を東京で過ごした父にとっては、《東京通》でしたから、そう思いついたのでしょうか。甲州街道(20号線)の道沿いにある南口駅の近くだったようです。今のような賑わいはありませんでしたが、当時も歓楽街だった新宿に住むことをためらった父は、東京都下の街に家を買い求め、そこで私たち兄弟は育ったのです。

結婚前の家内の本籍地は、東京・本郷で、「切通し坂町(湯島)」でしたから、そこは、《ちゃきちゃき》の江戸だったことになります。そういえば、今日日、町の名までが、「町名変更」で、実に情緒が無くなってしまったのを感じて、ちょっと寂しい思いもいたします。「渋谷」だって、武将の渋谷氏にちなんで呼ばれた街であり、「代官山」も代官町の名残でしょうし、父が一時は住もうと考えた「新宿」だって、かつては「内藤新宿」と呼ばれた、日本橋から始まる甲州街道の最初の宿場町だったのですから。

そんな都会の狭間の息子の部屋で、一泊したのですが、実に静かな夜でした。窓の密閉度が、そうさせただけではなく、都会の喧騒などまったく聞こえてこなかったのですから、「大人の街」といったらいいのかも知れません。息子と夕食を済ませた後、寄ったパン屋さんの会計は、中年の流暢な日本語を話すイタリア人でした。家内は、長男の家族と一緒に、長女はシンガポールの海の見える部屋で、次女はオレゴンの家で過ごしていることを思って、散り散りになった我が家族の無事を願った、次男の代官山の部屋の一日でした。

(写真上は、東急東横線の「代官山駅」、中は、「目黒のさんま祭り」、下は、「切通坂(湯島)」です)

今日は、検査のために、最寄りの駅から急行電車に乗り込んで、池袋に出て、JR山手線の神田にあります、「MRIクリニックセンター」まで出かけてきました。ラッシュを外れていましたので、電車は空いていたのです。車両には「優先座席」がありまして、病院通いの家内のためにと思って、その座席のそばに立ちました。反対側には白髪の男性の年配者が吊革を掴んで、奥様の席の前で立っていました。数駅向こうから乗り込んでこられたのでしょう。ところが目の前の席には、年配者の他に一人の20代の女性が何食わぬ顔で座って、携帯を操作していたのです。通路を挟んで、その反対側に家内が立っていました。目の前の3人がけの座席には、年配者と二人の高校生が座っていました。その高校生たちはゲームに熱中していたのです。よく見かける車内風景です。

ところが中国の公共バスですと、この様相は全く違うのです。年配者が乗ってきて、カードで乗車賃を支払う操作をしますと、『ラオレン・カー(老人卡)!』とコンピューター読み取って音声で応答します。バスの前方に座っている若者は、それを聞きますとさっと立って、席を空けて、いつでも座れるように譲るのです。そうでなくても、年配者の気配がすると、席を立って譲っています。

この違い、この差について、しばらく考えてみました。私たちの時代ですと、ゲームも携帯電話も文書版や週刊のマンガもない時代でしたから、若者が座っていて、目の前に年配者が来ると、『どうぞ!』と譲るのが常でした。それよりも席が空いていても、若者は座ることを避けていたのではないでしょうか。親子連れで電車やバスに乗っていて、子どもが席に座っていて、老人がそばに来ると、お父さんやお母さんは、『◯◯ちゃん、立って席を譲りなさい!』と声をかけてもいました。それが自然になされていたのです。現代の中国と、まったく同じでした。

『なぜ若者は席を譲らないのか?』という社会学的考察をされる方が、『席を譲られたくない老人がいて、断らることが多くて、それで現代青年は席を譲らいのだといった理由もあるのです!』と結論されていました。そうしますと、今日日の日本の年寄りは自分が老人であることを認めたくないからなのでしょう。そうかも知れません。しかし全体的に、近年、《敬老の心》が失われてきているのは事実です。もしかしてこの時代は、プレッシャーで疲れてしまっている若者が多いのかも知れませんね。

中国の街でバスに乗っていて、中年の女性にも男性にも、席を譲られたことが数回あります。若者だけではありません。気がつかないでいる学生に、学生が、席を譲るように膝を叩いたり語りかけて、促している光景も、ちょくちょく見かけます。『科学技術の面で日本には、数段も遅れをとっていますから、私たちは日本に学ばなければなりません!』と、作文に書く学生が何人もいます。彼らは、日本に、アメリカに、ヨーロッパに学ぼうとして躍起なのです。としますと、日本の若者は、中国の若者たちが持っている優れた《社会性》や《人間性》から、多くのことを学ばなければならないのではないでしょうか。

もちろん立派な日本青年も知っています。しかし全般的な傾向として、かつて《よし》とされていたことが忘れ去られて消えかけているのを感じるのは、一概に《年寄りの冷や水》だとは言えないのではないでしょうか。譲られることが多い私は、先日、私の住む中国の街のバスの中で、子どもを抱いているお母さんに、譲り受けた席を譲りました。譲ってくれた学生が、『あれっ!』と言う顔をしていました。私よりも年上の方にも席を譲りました。まだまだ座らなけれ耐えられないほど体力が衰えていないからです。今度中国に戻ったらテニスを、またやろうと意気込んでおります。でも譲られたら、感謝して受け、その席に座るつもりでおります。

(写真上は、「東武東上線の車両」、下は、「中国の公共バスの社内風景」です)

子どもの頃、友達の中に、お父さんのいない母と子の家庭が意外と多くありました。TくんもBくんも、その他の級友たちの家が、そうでした。彼らは父親のカゲが薄かったのを感じていました。両親のいた私は、父親のいない級友たちの家に遊びに行っては、『どうして君にはお父さんがいないのか?』と聞くことはありませんでした。理由を知りたかったのに、そう聞いてはいてはいけないような思いがあったのでしょうか、聞き出して彼らを窮地に陥れるようなことはしませんでした。戦争を知らない私にとって、どうしてかということが、まだ分らなかったのです。

日本の歴史にとって、また私たちの世代にとっても、昭和12年(1937年)は決して忘れてはいけない年だというべきでしょう。この年の77日、北京郊外の蘆溝橋で軍事衝突事件が起こり、日中両軍が交戦状態に入りました。停戦協定が成立した11日に、日本政府は、初期の不拡大方針を覆して、華北への派兵を決定てしてしまいます。28日になりますと、日本軍は華北で総攻撃を開始し、8年間にわたる「日中戦争」へと全面突入してしまったのです。

それにともなって、日本国内では、軍備拡張が行われ、多くの働き盛りの男が徴兵されて、戦場に送られていきます。その中に、私の級友たちの親がいて、終戦間際に戦死してしまったわけです(私の大学時代の級友には、戦争後、中国に残留し、内戦に従軍して、その戦いでお父さんを亡くなした級友がいました)。彼らのお父さんが戦死であったということが分かったのは、小学校の高学年になってからだったでしょうか。私の父は、戦闘機の部品に関わる「軍事産業」にたずさる「軍属」でしたから、戦場に行くことはなかったのですが。

高校の友人の家に行きまして泊めてもらったときに、布団を敷いてくれた部屋に、軍帽と軍服の彼のおその時初めて、戦死されていたことを知ったのです。悪戯で、担任の良く叱られ仲間でにぎやかな彼が、ふと見せる寂しさの理由が分かったのです。そんな彼と出会った頃、『お母さんの若い頃に流行った歌を教えて!』と言って、無理に頼んだことがありました。母が教えてくれたのが、「無情の夢(作詩・佐伯孝夫、作曲・佐々木俊一)」という歌謡曲だったのです。

きらめましょうと 別れてみたが
何で忘りょう 忘らりょうか
命をかけた 恋じゃもの
燃えて身を灼く 恋ごころ

この歌は、なかなか歌うのが難しかったのですが、多分、父と母が出会って恋に落ち、結婚に導かれた頃に一世を風靡していた歌謡曲だったに違いありません。母の話によると(これも無理に聞き出したのですが)、広島の江田島にあった「海軍兵学校」に学ぶ人の中に、想う人がいたのだそうです。戦死したか、どうかの消息は聞きませんでしたが、叶わぬ恋だったのでしょう。母にも、人を恋する思いがあったことを知って、思春期の真っ只中の私にも、『恋心を抱いてもよろしい!』、との許可を、母にもらったかのような出来事でした。

恋し、愛した人と引き裂かれたり、父を亡くしたり、隣国を犯し戦闘で人を殺めたりする戦争が、二度と再び起こらないことを願う私は、ただ平和を願ってやみません。父を亡くした級友たちも、父となり、爺となって、そう願っているに違いありません。七十数年前に激しい戦いが行われた大陸を離れて、この週末、帰国しましたが、その思いだけは忘れないで、来月、また中国の地を踏むつもりでおります。

(写真は、日中戦争の勃発地点となった「盧溝橋」です)

扶養

『日本は寒いですよ!』と聞かされて帰国したのですが、冬将軍の暴れ回る日本よりも、大陸華南の冬のほうが、寒いように感じています。昨日は、孫娘と近所の《きたの公園》に出かけて、滑り台や砂場で遊びました。おしゃまな彼女ですが、優しくて可愛い3歳なのです。公園の木はすっかり北風に葉を落とされて、枯れ枝から真っ青な空を見せてくれました。帰国して長男の家に落ち着いた家内と私を訪ねてシンガポールから出張できていた娘と、渋谷に住み始めて働く次男が、昨日、訪ねてきてくれました。次女は、オレゴンにおりますので、気持ちだけ、こちらの向けていることでしょうか。それで、子や孫たちとの久しぶりの夕食を、近くの「焼肉屋」でとりました。これまで支払いは父親である私の役割でしたが、昨晩は、長女がしてくれ、家内と私は、『ごちそうさま!』と言って、彼女の饗(もてな)しに預かったのです。もう最近は、常に、子供たちや嫁や婿に、その役割をとって変わられてしまっていますが。

さて今回は、私の人生で大きな変化のある帰国になりました。というのは、中部山岳の山村に生まれて、父の戸籍に入り、父の扶養家族とされて22年を過ごしました。学校を出て就職をしてからは、父の扶養から離れて、民法や税制上でしょうか自立しました。父に養われて成長して、社会人として収入を得る身になったからでした。生活の基盤は、なお父の家にあり、母の作ってくれる食事に養われていました。月給の中から父に、「食い扶持」を出すと、父はビールを買ってきては飲ませてくれました。それが嬉しかったのでしょう、たいへん喜んでいた顔を思い出します。それから4年ほどして結婚したとき、父の戸籍から離れて、世帯を持った街を本籍地に決めたのです。長男が東京で生まれ、その後に与えられた3人は、アメリカ人実業家と共に働いた中部の街で生まれ、そこで教育を受け育っていきました。

今では、彼らはそれぞれに生きる道を見つけて、その基盤をすえて、もう自立して生活しております。中国語に、「时间过了很快(シィジエン グオラ ヘン クアイ)、『時間はとても早く過ぎる!』」とありますが、もう世代交代の時代なのです。イスラエル民族の法律の中に、「人身価値」の規定があります。60歳を過ぎた私の価値は、15シェケルだとあります。父から独立し、世帯を持って社会でも家庭でも、力いっぱい活躍していた時期の価値は、50シェケルですから、今日では三分の一に目減りしていることになります。今、次女の長男が5歳で、彼の価値は20シェケルですから、外孫の彼の方が、この私の価値よりも、5シェケルも高いことになるのです。このことで決してもがくことはありません。『ジイジとバアバは、どうして頭が白いの?』と孫息子が不思議がっております。黒々と豊富だった髪の毛から、色素の艶も、今は抜けてしまっているということであります。

先週末、帰国した私は、長男の住む街に《転入届け》を出しました。長男夫妻の進言もあって、家内と私は、長男の「扶養家族」にしてもらいました。ということは、ついに家内と私は、『太郎兵衛さんのご家の・・・・!』と呼ばれることになったわけです。ちょっと寂しさは禁じえませんが、《世代交代》は、どの社会でもすみやかにした方がいいのかも知れません。いつまでも《頭》でいるのではなく、彼らの責任に委ね任せるべきなのでしょう。孫が不思議に思う白髪は、『もう次の番だよ!』というサインなのでしょうね。

イスラエルの社会のことですが、次のような掟もあります。「白髪の老人の前では起立せよ!」とあります。イスラエル人ではない私ですが、中国の街のバスの中では、吊革に手をかけるやいなや、髪の毛の白さと、顔のシワを認めた若者は、躊躇なく起立して席をゆずってくれるのです。今やそれを、喜んでうけております。

(写真上は、http://www.nisk.jp/search/digitalkanji.asp?code=91B7の字「孫」、下は、中国・済南市で医療活動を続けられた老医師・山崎宏さん(日本兵士でしたが、中国残留して医師となって奉仕)ですが、昨年末亡くなられました)

あすは

地方都市に生活していまして、母や兄弟がおりましたので、ちょくちょく上京する機会がありました。前の晩になりますと、必ず思い出す、いえ、口からついて出てしまう歌謡曲の一節がありました。

『#あすは東京へ出ていくからにゃ、何がなんでも・・・b』

という、坂田三吉という浪花の将棋指しの物語を歌った「王将」でした。実は、明日の朝、家内は一年半ぶりに、私は半年ぶりに帰国するのです。としますと、今晩は、『b あすは日本に帰って行くからにゃ、何がんでも・・・#』と、私は鼻歌をすることになるのでしょうか。この歌は、いつごろ流行っていたのでしょうか。もともと、「演歌」とか「艶歌」と言われる日本独特の歌は、いつごろから歌い始められたのでしょうか。昨日、「龍馬伝」の最終番組を持って、若い友人が訪ねて来られました。この番組の主人公・坂本龍馬の奔走と努力によって、第十五大将軍・徳川慶喜が、「大政奉還」の断を下すのです。そうしますと、市中の人々は、『#ええじゃないか、ええじゃないか・・・b』と歌い踊り始めるのです。明治維新誕生前夜に、日本中で流行ったという歌なのです。聞く所によりますと、龍馬と同じく土佐の人で、統幕運動に身を投じた板垣退助が、明治の維新降になってから始めた、「自由民権運動」を展開していくときに、「オッぺケペー節」という歌が一役かったようです(川上音二郎が歌ったと言われています)。また、三河地方に流行った、伝統芸能の「三河万歳」も、小太鼓を打ちながら歌うのですが、何度か聞いたことがあります。こういったものが、「艶歌」の原型になるでしょうか。

私たちが住んでいます華南の街から、南に行った地域を「闽南(ミンナン)」と呼ぶのですが、この地域は、台湾語と同じ「 闽南語」を話しますが、この地の人々が歌う歌のメロディーが、日本の「演歌」と同じなのです。日本から影響を受けたのか、もともと、そうだったのか知りませんが。きっと「五音階」のメロディーのルーツが同じなのかも知れません。そうでなくても、この街の公共バスの中に流されているFMラジオでとり上げる歌のメロディーは、日本の歌にとても似ているのです。それで区別がつかないのですが、一昨日、「スターバックス」で、人に会うために出かけたバスの中で流れていたのが、

しらかば 青空 南風
こぶし咲くあの丘 北国の
ああ北国の春
季節が都会では わからないだろと
届いたおふくろの 小さな包み
あの故郷(ふるさと)へ 帰かな 帰ろかな

といった、遠藤実が作曲した「北国の春」でした。春の到来を待望し、やっと来た春の気配を喜ぶ、北国の「春待望」の思いが込められていて、一世を風靡した「昭和の名曲」なのです。実は、この歌を中国人は、自国製だと思っておいでなのです。日本で流行ったのが、1977年4月でしたから、にぎやかな文化運動が終わって、「改革開放政策」が鄧小平氏の指導で始まる前に、ここ中国でも歌われ始めていたようです。何の抵抗もなく、受け入れられて喜んで歌われてきて、今日の若い人もよく知っておいでです。

文化も心情も好みも趣も、こんなに似通った両国の近さは半端ではないのかも知れません。実は、この「北国の春」がラジオで流れていたあとに、聞こえてきたのは、なんと「ソーラン節」でした!中国の、春節の直前のバスの中で、『#ヤーレン、ソーラン・・・ニシン来たかと・・・b』を聞くとは思いもよりませんでした。

さあ、今晩は、『b ・・・何がんでも、無事に終わらにゃならぬ・・・#』と歌うことになるのでしょうか、そんなメロディーが喉あたりにきているのを感じます。家内の入院と手術が待つ日本ですが、桜の花の咲く頃には、元気を回復して帰って来られるように、そう願う夕靄の帳のおり始めた華南の街であります。

(写真上は、HP[筍耳鼻科医の呟き」の通天閣(三吉がこの近くに住んでいたそうです)
は、「
蕗ちゃんの道草日記」の「白樺」です)

胃袋

鎌倉や今日はかしこの屋敷守   一茶

鎌倉は、小学校のときの遠足で訪ねたのが初めてでした。私の父が生前、唯一の自慢話として話してくれたのが、『我が家は鎌倉武士の末裔で、源頼朝から拝領した・・・』と言っ ていました。家督を相続することを固辞した父にとっての拠り所は、それでも鎌倉にあったようです。明治生まれの父が父の祖父から聞いた家系を誇っていたのを思い返して、そうは言っても、我が家の祖先は、弥生人か縄文人で、はるかな海を超えてやってきた先人たちの故郷・大陸に行き着くに違いないのですが。

その父の相続分を、私たち4人の男の子に、それぞれ相続する権利があるという話が、いつでしたか持ち上がりました。それは寝耳に水のような話でした。頼朝からもらった土地は、想像を越えるほどに広大なものだったのでしょうけど、800年もの間に減り続けて、我々が相続するのは猫の額のようなものになっていたのだろうと思われます。そんなことを考えますと、800年もの年月の隔たりの中で、頼朝の忠臣であった、私たちの祖先が、どんな人だったのかと思い巡らして、なんとなく不思議な感慨を覚えて仕方がありませんでした。その土地だって、剣や槍で奪い取ったものだったわけですから。みんな、『要らない!』と言って、相続を放棄してしまっ たのです。

小学生のときには、何も知らないで訪ねたのですが、歴史や家系などがわかって、訪ねた鎌倉は、わが祖先が、鎧兜を身につけて馬に乗りつつ、主君に従って闊歩した都大路だったことを思いながら、駅前の道をそぞろ歩いたりしてみたのです。そうしましたら、何だかタイムスリップしたような錯覚を覚えて、800年の昔の鎌倉が、目の前にひらいているようでした。その大路の傍らにあった鳩サブレーの売店の喫 茶室に入って、アメリカン・コーヒーを飲んで見ましたが、とても美味しかったのです。それでも、『やはり茶店で、串団子と日本茶が似合いそうなのが鎌倉かな!』、と思うのが自然でしょうか。

帰りに、江ノ島を左に見ながら車を走らせたのですが、何十年も前の真夏に、アルバイトをした片瀬江ノ島の建物は見つけることが出来ませんでした。年月が経ってし まったのですから、当然ですね。江ノ電がゴトゴトと走る姿が右手に見えて実に懐かしく、また夕焼けに染まる江ノ島が、昔のままのたたずまいの中、幽玄とし て夕闇をついて見えていました。その時、横浜もコースでしたから、中華街にも寄ったのですが、お土産のシュウマイが、ことのほか美味しかったのです。

それは私の父が、横浜帰りに、また横浜を通過するたびに、必ず土産にぶらさげて持ち帰っててくれた、実に懐かしい味なのです。食べ盛りの4人に、『旨い物を食べ させたい!』との父の思いがあふれていたのです。『いい親爺だったな!』と、胃袋で思い出している私は、父が召された年よりを、もう五年も多く生きております。もう少し生きられるでしょうか。そう願って、来春は40年記念を迎える家内と手を取り合って、生まれ故郷でもなく、祖先伝来の拝領の地でもなく、「天(あめ)なるふる さと」に向かって、もう一歩の人生を、生きることが出来るようにと、切に願う今日このごろです。

(写真上はHP「写真俳句・谷戸の風」の「鎌倉の海」、下はHP「Nagisa Photo Stadio」の「鎌倉散歩・紅葉」です)

青年

先週、一人の青年が、ギターを抱えて尋ねてこられました。海南島の出身で、6年前からギターを習ってこられた、日本語専攻の大学生です。この青年が、家内と私のために、ギターを弾いて歌ってくれました。下の息子と比べたら今一つといったところですが、歌声も、ギターの音色も出色だったのです。気張らないで、撫でるように弾いていました。疲れやモヤモヤが、スーッと消えていってしまいそうな、そんな感覚に引き込まれるようでした。これまで、かき鳴らして気持ちを高揚させてくれたギタリストが、何人かいましたが、『ギターって、弾き手によって、これほど違うのか!』と思わせられること仕切りでした。

その彼のために、家内が定番のカレーライスを作って、一緒に食べました。彼は、『美味しい!』といって感謝し、食後に、『わが家は貧しかったので、よく母を手伝いました。それで食器を洗わせてください!』といわれて、台所に入って、見る見るうちに綺麗に洗い上げてくれたのです。ゴミを取るかごが、少々汚れていたのですが、それも丁寧に洗ってくれ、まるで新品のようにしてくれました。心が繊細なのでしょう、そんな両親が大学で学ばせてくれている感謝が、彼の振る舞いの中にあふれているのを感じたのです。わが家の流しは、日本のようなステンレス製ではなく、コンクリートの上にタイルを張ったもので、築30年を経ていますので、ひび割れたりしていますが、そこを見事に洗い上げてくれました。これまでの来客の男性の中で、食後に食器を洗ってくれた青年は、この青年で二人目になったでしょうか。

すばらしい青年の多い中国で、これまで出会った青年の中でも、23時間の交わりでしたが、彼は《ピカ一》だと思わされたのです。貧しい経験が、こういった青年を育てたのかも知れません。お父様は、体が弱くて家にいらっしゃって、お母様が働いておられるのだそうです。課題の多い国の中で、次の時代を担っていく青年たちが、すばらしく成長して、備えられているのに気づかされています。昨晩も、新装成った大劇場で「京劇」が公演されるというので、招待券をいただいた家内と私は、バスに乗って出かけたのです。乗ってつり革に手をかけるや否や、一人の青年がすっくと立ち上がって、席を譲ってくれるではありませんか。家内を座らせると、今度は、もう独りの女性が同じように席を空けてくれましたので、『謝謝!』といって座らせてもらいました。もう最近は、断らないで、その好意を喜んで受けるようにしているのです。

中国で名だたる京劇俳優の演技もすばらしかったのですが、年長者への敬意を、こういった形で、自然に表す、この国の青年たちが、次の時代を背負って生きていくのですから、この国の前途洋洋ではないでしょうか。日本が、なぜか忘れていることを、この国は律儀に行っているのではないでしょうか。触れもせず、見もせずに非難する人が多くいらっしゃいますが、「儒教の教え」の影響だけではなく、人間の道を誠実に生きている姿を見させられております。あのギターを爪弾く青年も、席を譲ってくれる青年たちも、彼らのうちに、そんな輝きを見るのです。暖房のない大劇場は骨身に、真冬を感じましたが、心の中では、もうイッパイの春を満喫させられた「春節」間近の夕べです。


(写真上は「yamahaギター」、下は「近代京劇」の公演の様子です)

『また大臣が代わった。俺の死刑執行のために、この人は判を押すのかな?』と、きっと思っていらっしゃる受刑者がおられるのではないでしょうか。昨日、また「法務大臣」が新しく選任されたようです。代わるたびに、マスコミから「死刑の是非」についてのコメントが求められて、厳罰主義と温情主義が交互に出てくるようです。このたび新たに大臣になられた方は、『死刑という刑罰はいろんな欠陥を抱えた刑罰だと思う』と私見(!?)を述べておられました。

法律を学んだ方で弁護士もされた方が、弁護士や法学者の立場で、そうコメントするのはいいと思います。でも、一国の法務大臣になられて、「刑法」という国法に定めた制度があって、法を行うのが法務省の最高責任者なのではないでしょうか。『執行か延期か、いつも怯えなければならないのはつらい。俺たちの心を弄ばないでくれ!』、と受刑者の方は思っていらっしゃるに違いないのです。彼は、『なぜ死刑が必要なのか?』を学ばれたと思います。もし、法に欠陥があるのなら、どうして立法府で改めようとしないのでしょうか。『感情論で是非を公言するのをやめてくれ!』と、私が執行を待っている受刑者なら、こう思うのですが。

「殺してはならない」、「殺人者は死を持って死の値を払うこと」という法が、どの国にもあるのは、人の生命を尊ぶという考えからきています。決して、生命軽視だからではありません。私は、すべての人に「生命権」があると信じています。どのような理由があっても、他者の「生きる権利」を犯したなら、厳罰に処すことはいけないことでしょうか。「故意の殺人」と「過失の殺人」とは違いますが、失われた命の重さは、地球よりも思いのだということが大前提です。人類最初の殺人事件の記録が残っています。兄が弟を殺した忌まわしい事件です。その事件の様子の記録の中に、「あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる」とあります。

この地球は「創造の美」で満ち溢れています。ナイアガラの滝もイグアスの滝も九塞溝(中国・四川省)も、息を呑むような景観でした。奥入瀬も志賀高原も箱根も、見惚れるような美しさです。ところが、この美しい地上には、流された血が、夥しく沁み込んでいるのです。この血の責任は、誰がとるのでしょうか。主義主張の違いで、怨恨で、そして弾みなどで失われた人の血のことです。有耶無耶にされないのです。きっと、すべての人の命についての責任が問われるときがくる、と信じるのです。ヒューマニズムの「人間尊重」は、「人命尊重」が基調です。感情論ではありません。死の覚悟のできた受刑者に、死刑執行の判を押すのは、大臣として当然です。彼が冷酷な人だからではなく、法を愛し、法を行う責務を負い、そして人の命の重さを知っているからなのです。

(写真上は、「HPようこそ”こまがね”に」の「秋の紅葉」、下は、出張した時に連れて行ってもらった、ブラジル、ウルグアイ、アルゼンチンの国境にある「イグアスの滝」です)