『また大臣が代わった。俺の死刑執行のために、この人は判を押すのかな?』と、きっと思っていらっしゃる受刑者がおられるのではないでしょうか。昨日、また「法務大臣」が新しく選任されたようです。代わるたびに、マスコミから「死刑の是非」についてのコメントが求められて、厳罰主義と温情主義が交互に出てくるようです。このたび新たに大臣になられた方は、『死刑という刑罰はいろんな欠陥を抱えた刑罰だと思う』と私見(!?)を述べておられました。
法律を学んだ方で弁護士もされた方が、弁護士や法学者の立場で、そうコメントするのはいいと思います。でも、一国の法務大臣になられて、「刑法」という国法に定めた制度があって、法を行うのが法務省の最高責任者なのではないでしょうか。『執行か延期か、いつも怯えなければならないのはつらい。俺たちの心を弄ばないでくれ!』、と受刑者の方は思っていらっしゃるに違いないのです。彼は、『なぜ死刑が必要なのか?』を学ばれたと思います。もし、法に欠陥があるのなら、どうして立法府で改めようとしないのでしょうか。『感情論で是非を公言するのをやめてくれ!』と、私が執行を待っている受刑者なら、こう思うのですが。
「殺してはならない」、「殺人者は死を持って死の値を払うこと」という法が、どの国にもあるのは、人の生命を尊ぶという考えからきています。決して、生命軽視だからではありません。私は、すべての人に「生命権」があると信じています。どのような理由があっても、他者の「生きる権利」を犯したなら、厳罰に処すことはいけないことでしょうか。「故意の殺人」と「過失の殺人」とは違いますが、失われた命の重さは、地球よりも思いのだということが大前提です。人類最初の殺人事件の記録が残っています。兄が弟を殺した忌まわしい事件です。その事件の様子の記録の中に、「あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる」とあります。
この地球は「創造の美」で満ち溢れています。ナイアガラの滝もイグアスの滝も九塞溝(中国・四川省)も、息を呑むような景観でした。奥入瀬も志賀高原も箱根も、見惚れるような美しさです。ところが、この美しい地上には、流された血が、夥しく沁み込んでいるのです。この血の責任は、誰がとるのでしょうか。主義主張の違いで、怨恨で、そして弾みなどで失われた人の血のことです。有耶無耶にされないのです。きっと、すべての人の命についての責任が問われるときがくる、と信じるのです。ヒューマニズムの「人間尊重」は、「人命尊重」が基調です。感情論ではありません。死の覚悟のできた受刑者に、死刑執行の判を押すのは、大臣として当然です。彼が冷酷な人だからではなく、法を愛し、法を行う責務を負い、そして人の命の重さを知っているからなのです。
(写真上は、「HPようこそ”こまがね”に」の「秋の紅葉」、下は、出張した時に連れて行ってもらった、ブラジル、ウルグアイ、アルゼンチンの国境にある「イグアスの滝」です)