胃袋

鎌倉や今日はかしこの屋敷守   一茶

鎌倉は、小学校のときの遠足で訪ねたのが初めてでした。私の父が生前、唯一の自慢話として話してくれたのが、『我が家は鎌倉武士の末裔で、源頼朝から拝領した・・・』と言っ ていました。家督を相続することを固辞した父にとっての拠り所は、それでも鎌倉にあったようです。明治生まれの父が父の祖父から聞いた家系を誇っていたのを思い返して、そうは言っても、我が家の祖先は、弥生人か縄文人で、はるかな海を超えてやってきた先人たちの故郷・大陸に行き着くに違いないのですが。

その父の相続分を、私たち4人の男の子に、それぞれ相続する権利があるという話が、いつでしたか持ち上がりました。それは寝耳に水のような話でした。頼朝からもらった土地は、想像を越えるほどに広大なものだったのでしょうけど、800年もの間に減り続けて、我々が相続するのは猫の額のようなものになっていたのだろうと思われます。そんなことを考えますと、800年もの年月の隔たりの中で、頼朝の忠臣であった、私たちの祖先が、どんな人だったのかと思い巡らして、なんとなく不思議な感慨を覚えて仕方がありませんでした。その土地だって、剣や槍で奪い取ったものだったわけですから。みんな、『要らない!』と言って、相続を放棄してしまっ たのです。

小学生のときには、何も知らないで訪ねたのですが、歴史や家系などがわかって、訪ねた鎌倉は、わが祖先が、鎧兜を身につけて馬に乗りつつ、主君に従って闊歩した都大路だったことを思いながら、駅前の道をそぞろ歩いたりしてみたのです。そうしましたら、何だかタイムスリップしたような錯覚を覚えて、800年の昔の鎌倉が、目の前にひらいているようでした。その大路の傍らにあった鳩サブレーの売店の喫 茶室に入って、アメリカン・コーヒーを飲んで見ましたが、とても美味しかったのです。それでも、『やはり茶店で、串団子と日本茶が似合いそうなのが鎌倉かな!』、と思うのが自然でしょうか。

帰りに、江ノ島を左に見ながら車を走らせたのですが、何十年も前の真夏に、アルバイトをした片瀬江ノ島の建物は見つけることが出来ませんでした。年月が経ってし まったのですから、当然ですね。江ノ電がゴトゴトと走る姿が右手に見えて実に懐かしく、また夕焼けに染まる江ノ島が、昔のままのたたずまいの中、幽玄とし て夕闇をついて見えていました。その時、横浜もコースでしたから、中華街にも寄ったのですが、お土産のシュウマイが、ことのほか美味しかったのです。

それは私の父が、横浜帰りに、また横浜を通過するたびに、必ず土産にぶらさげて持ち帰っててくれた、実に懐かしい味なのです。食べ盛りの4人に、『旨い物を食べ させたい!』との父の思いがあふれていたのです。『いい親爺だったな!』と、胃袋で思い出している私は、父が召された年よりを、もう五年も多く生きております。もう少し生きられるでしょうか。そう願って、来春は40年記念を迎える家内と手を取り合って、生まれ故郷でもなく、祖先伝来の拝領の地でもなく、「天(あめ)なるふる さと」に向かって、もう一歩の人生を、生きることが出来るようにと、切に願う今日このごろです。

(写真上はHP「写真俳句・谷戸の風」の「鎌倉の海」、下はHP「Nagisa Photo Stadio」の「鎌倉散歩・紅葉」です)

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