この違いに

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 この暮れに、たずねてくれた孫娘と2週間ほど一緒に生活して来まして、17才になる彼女と、80才前後の私たちジジババとのすれ違いを感じながら、こんな比較のリストを思い出したのです。

・道路を暴走するのが18歳。道路を逆走するのが81歳。

・恋に溺れるのが18歳。風呂で溺れるのが81歳。

・自分探しするのが18歳。みんなが探すのが81歳。

・恋で胸を詰まらせる18歳。餅で喉を詰まらせる81歳。

・心がもろいのが18歳。骨がもろいのが81歳。

・まだ何も知らないのが18歳。もう何も覚えていないのが81歳。

・筋肉が張るのが18歳。筋肉に貼るのが81歳。

・緊張で震えるのが18歳。何も無いのに震えるのが81歳。

・偏差値が気になるのが18歳。検査値が気になるのが81歳。

・衣装も化粧も薄いのが18歳。面(つら)まで厚いのが81歳。

・金も時間もない18歳。金も時間も使えない81歳。

・行く先が見えないのが18歳。逝く先が見えるのが81歳。

・胸がドキドキときめくのが18歳。胸がドキドキ心配なのが81歳。

・聞く気がないのが18歳。聞こえないのが81歳。

・乾杯で始まるのが18歳。黙祷で始まるのが81歳。

 この15の比較は、言い得て、まさに実感の私たちでして、身につまされるよりも、吹き出してしまいます。明日が誕生日の孫娘です。

(”© 2023 StockSnap.“からの「若葉」と「枯葉」です)

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年の瀬に

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 料理担当になってはや5年、47年間、家のことをしてくれた家内に代わって、掃除、洗濯、買い出しからゴミ捨てなどを担当して、もう苦にならずにこなせるかな、と言ったところです。最近では、昼食の用意や、惣菜作り、茶碗洗いもしてくれるようになってきています。

 そんな中に、先日も、二人のご婦人が訪ねてくれましたので、交わりの時が与えられ、夕食をともにすることができ、素敵な交わりの時を過ごすことができたのです。おひとりは、家内の生まれただけの大阪の隣街の出身なのだそうでした。

 美味しいケーキを持参してくれました。またわが家の隣街に住んで、もう知り合って4年ほどになる、私たちの子どもた世代のご婦人なのです。庭になっていると、時々いただくきとがあり、熟し柿や富有柿、旅行帰りのお土産などをいただき、今回もキウイフルーツ、そして小カブなどを差し入れしてくださったのです。

 大阪人の若いご婦人は、牧師さんのお嬢さまで、屈託のない笑顔で、中学一年生で信仰告白をされそうで、隣街の方は、がんを病んだみなさんの交わりサポートの奉仕をされておいでで、家内が、宇都宮で出会ってからの交わりなのです。

 国際関係の世界的な団体のお仕事をされていて、重積を担っておいでなのに、そう言ったものを感じさせないご婦人でした。その日の朝に作った「けんちん汁」で、夕食をご一緒したのです。励まそうとされたのでしょうか。二杯目のお代わりをお勧めしましたら、『はい!』と言われ、喜んで飲んでくださったのです。夕食を共にできたのは、感謝なことでした。

 話が弾みすぎたのか、いただいたケーキを、そのままおだししないまま、お帰りになられて、二人では持て余してしまいました。それで近所の同世代のご夫婦に、お裾分けしてしまいました。千客万来、思いもしなかった街に住んで、満5年になる今、近所の方も、遠客もあって、人の往来のあるこの頃です。

 娘と孫娘も週末には帰って行きます。今朝のニュースで、『十年に一度の寒波襲来!』と報じていました。早いもので、もう2週間ほどで、新しい年がやってきます。どんな年になるのでしょうか。次世代の孫たちの胸にある夢や幻が、その通りになっていくように願っております。どんな困難でさえも超えていけるようにと願う、《応援》の年の瀬です。

(ウイキペディアの「けんちん汁」です)

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ニセコへの誘い

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Yotei, Niseko Hokkaido Japan

 

 北海道に、「ニセコ」という街があります。珍しくカタカナで地名表記をするのですが、北海道原住のアイヌの呼ぶ山の名の「ニセコアンヌプリ(ニセコアンベツ川の〈源の〉山という意味だそうです)」から取られていて、以前は、「真狩村(マッカリ(ペッ)プトゥ(makkari-pet-putu)真狩〔川〕・の川口)」と呼ばれており、それに漢字を当てて「真狩別太(まっかりべつぶと)/狩太」」だった町名を変更したのです。

 スキーの愛好者にとっては、世界三大スキー場の一つに入れられていて、名高いスキーのメッカなのです。私はスキーは、多摩川の土手で、弟の板を使って斜面を降りたり登ったり転んだりして滑っただけで、季節はまだ秋の特設の3、4mほどのスキー場に行っただけです。同級生に、冬季オリンピック銀メダリストの猪谷千春の甥っ子がいて、まさに、skiing boy 然とした男でした。

 札幌の整形外科医院に入院していた2017年の春に、このニセコから来ておいでの方がおいでだったのです。ご家族が差し入れされると、よく和菓子などを分けてくださった方でした。この同病の人が、『親戚に頼んで上げますから、土地を世話するのでニセコに住んだらいいですよ!』と、気に入られて言われたことがありました。 

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 また、札幌の南に「伊達市」があって、道内で最も気候の温暖な街なのだそうで、『実に住みやすいので、そこに越して来たらいいです!』と誘われたこともあります。寒さが苦手ですから、この伊達市はいいなと思ったのです。でも車がなければ、交通の弁がよくなく、寄る年波で、病気がちになったら、なおのこと通院などが大変かなと思って、諦めました。

 何せ、二十数回の引越し歴の「引越し魔」の私は、もう、ここ栃木に5年も住み続けていて、お尻が浮き加減の今、なんとなく漂白の思いに誘われた芭蕉のような心持ちなのです。巴波川の流れに、発泡スチロール製の小舟を浮かべて、渡瀬川 利根川、江戸川と降ってみたい思いが、なかなか消えないのです。この歳の冒険心、いえ漂浪癖というのは、どうにもなりません。

 ある日いなくなった私を探したら、隅田川岸に漂着していたりしたら、家内を驚かせてしまいそうです。先日、弟が《もう10年》と、メールに書き送ってきました。いのちの付与者に、生かしてもらえるであろう残りの年月です。精一杯、生きていくとの決意を表明し、何が起こっても、今を感謝して生きようとに呼びかけでした。

(“ウイキペディア” による「ニセコと羊蹄山」と「伊達市」です)

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[街]壱岐

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Aerial view of Tatsunoshima, Iki Island, Nagasaki, Kysuhu, Japan

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 最初の職場の直属の上司は、長崎県の島嶼部の「壱岐(島)」の出身でした。浦和高校を経て東大に学んだ方で、父より若い方でした。とても賢い方で、お酒が好きで、よく連れ歩かれたのです。

 自分の生活圏からは、ずいぶんと遠い「壱岐」が、どんな島だったのか、中国大陸、朝鮮半島との船の航路の中継地であったわけです。「魏志倭人伝」や「日本書紀」にも登場する島で、有史以前の弥生時代から、海上交通の要衝であったのです。

 そう言った歴史的な背景から、「国境の島 壱岐・対馬・五島~古代からの架け橋~」世の名称で、平成27年に「日本遺産」とされています。「壱岐市」は、弥生時代から長年にわたって海上交通の要衝となった歴史があります。この歴史的特徴から、「国境の島 壱岐・対馬・五島~古代からの架け橋~」として平成27年に日本遺産に認定されました。

 特に、「原の辻遺跡」は、国内最大級の「環濠集落(かんごう/防衛上周囲を堀で巡らせた集落)」と呼ばれ、弥生時代にあった集落としては、国内3ヶ所目となる特別史跡なのです。これも大陸中国に真似たものだと言われているそうです。

 ここは、気候的には、暖流の対馬海流が流れて、温暖な気候をもたらしているのです。暖流の影響で、日本海側の一帯には、水蒸気が多く発生し、冬場に降った雪が溶けて流れ下り、米作農業のためには好条件で、日本海側の田圃で収穫されるお米は美味しいのです。壱岐にも、けっこう広い平野があって、農業も盛んに行われ続けてきています。

 新鮮なウニ・サザエやマグロ・ブリなどの海の幸に恵まれていて、水産業が伝統的に盛んに行われています。そして米の他には、いちご・アスパラガス・葉たばこ・肉用牛などの豊かな農産物も生産されていて、漁業と農業が大変盛んな島、市なのです。

 『魏志倭人伝』には、現在用いられている漢字ではなく、「一支国(いきのくに)」、「伊伎島」と記されていました。この国の主都の遺跡なのです。時期的には、紀元前23世紀から紀元34世紀(弥生時代~古墳時代初め)にかけて作られ、住まれていた集落で、東西、南北ともに約1km四方にも及んでいたのです。

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 世界制覇を目論んでいた「元(蒙古族の国)」が、鎌倉時代に、大艦隊を率いて日本に攻めてきた時に、対馬(つしま)と共に、初期に攻撃されたのが、この壱岐だったようです。その戦いを、「元寇(げんこう)」と言って、弘安の役、文永の役で二度攻められた経緯がありましたが、けっきょく台風の影響でしょうか、船団は大被害を被って、撤退してしまったと伝えられています。

 この壱岐市の市歌があります。

春一番(はるいちばん)に さそわれて

花咲(はなさ)き海(うみ)の 碧(あお)が増(ま)す

いとなみ刻(きざ)む 手(て)をつなぎ

明(あか)るい希望(のぞみ) 奏(かな)でよう

はばたく壱岐(いき)の 空映(そらは)ゆる

はばたく壱岐(いき)の 空映(そらは)ゆる

 

海(うみ)とみどりに 育(はぐく)まれ

ゆたかな恵(めぐ)み わかち合(あ)う

心(こころ)ひとつに ときめいて

新(あら)たな息吹(いぶき) 生(う)み出(だ)そう

きらめく壱岐(いき)の 島萌(しまも)ゆる

きらめく壱岐(いき)の 島萌(しまも)ゆる(3番省略)

 美しい自然と人情にあふれた歌詞で、壱岐市が紹介されています。こんな島で育った上司は、杉並の家の庭に咲くタイサンボクを手折って、春になると職場に持ってこられた人でした。老後を過ごすには住みよい街のように思うのですが、私の26回目の引っ越しができるでしょうか。終の住処にはならずとも、一度は旅をしてみたい思いに駆られております。

(ウイキペディアによる「壱岐」の島の一部、元寇で戦う「元軍」です)

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ため息ではなく感謝で

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 一昨日、shopping mall(ショッピングモール)に、訪問中の娘親子と、市の巡回バスに乗って出掛けたのです。歩き回るのが大変なほど大きく広い floor の店で、家内は車椅子を借りて、それを押したり乗ったりしたのでした。

 娘たちは一階の店にいて、家内と私は二階の店にエレベーターで上がったのです。買い回っていると、館内放送で、私の名前を呼んでいるではありませんか。小さな声のアナウンスでしたので、もしかしたら娘が呼んでいるのかと思って、一階の店に行ったのです。彼女は『呼んでないよ!』と言うではありませんか。

 何だろうと思って、ポケットとポシェットを調べると、物入れの財布がないのです。その中には、マイナンバーカード、クレジットカード、現金数万円が入っているので、大慌てしてしまいました。

 その一階の店の前で、買おうとした物の支払いを、娘に頼もうとして、ポケットに結んでいたフックを外して、財布を渡したと思っていたのです。ところが、手から落ちていたのに気付かないままでいたようです。

 よくニュースや YouTube  で、日本人が財布や持ち物を拾って届ける番組があります。ある時、外国人の観光客が、諦めていたのに、それでも、お父さんからもらった大事なものでだったので、警察に届け出たのです。『私の国ではあり得ない!』と驚いて、それを取り戻して、とても喜び驚いている番組がありました。小学生の女子が、『困っているだろう!』と思って届けたのだそうです。

 その番組の自分版に、年の暮れ、生き馬の目を抜くような人の多い雑踏のような大型店の中で、物入れをサーヴィスカウンターに届けてくださった方がいたのです。暗い午後を過ごさなければならなかったのに、感謝して、うどん店で、お昼をすることができたのです。

 勤勉さだけではなく、正直な日本人に驚いた、あの大森貝塚を発見したエドワード・モース(Edward Sylvester Morse)が、旅館に小銭を落としたのでも、試そうとしたのでもなく、部屋に残して、数日経って戻った時に、畳の上に置きっぱなしにしていたものが、そのまま残っていたそうです。あちこちと旅行し、騙されることの多かったモースが、日本人の道徳心に驚いたのです。貝塚発見以上に、日本人の正直さや明朗さを発信した、滞在記の「日本その日その日」の記事を読んだのを思い出したのです。

 シンガポールに旅行した時に、家内が具合悪くなって、救急車を要請して病院に搬送していただいたことがありました。上の娘が同乗してくれていたのです。診察と治療を受けて精算しようとしましたら、市立病院は、「請求額0」の医療経費を渡したのです。それには驚き、シンガポールへの感謝を覚えたことがありました。戻ってきた財布とは繋がらない出来事も、なぜか思い出したのです

 驚く体験が多くあっての今、世知辛く、物騒で、嘘や欺瞞が多く、人心が荒れているような日本の中で、こんな親切さと正直さに、捨てたものではない日本社会や日本人、そういった心情を育ててきた躾や教育に感謝をも、改めて感じたのです。今頃、ため息を吐き続けているのに、その届けていただいた物入れを持って、今日は、近くのスーパーに、感謝して買い物に出掛けました。

(“ Christian clip arts ” の「いなくなっていた一匹の羊」のイラストです)

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舞い落ちる枯葉

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君にはどうか思い出して欲しいんだ
ぼくらが恋人同士だった日のことを
あのころは毎日が美しく過ぎ
太陽の光も今より輝いていた

枯葉が風で吹きだまってたのを
ぼくは覚えているよ
枯葉が風に吹かれて舞ってた
思い出も そして後悔も

北風が吹きすさぶ
忘却の冷たい夜に
ぼくは忘れはしない
君の歌ったシャンソン

その歌は ぼくらを歌う
二人の愛の日々を
二人で暮らした日々
愛しあい 愛されあい

でもその愛を時が引き裂く
ゆるやかに 音もたてずに
砂浜についた足跡を
波が消してしまうように

 イヴ・モンタンが歌ったシャンソンの「枯葉」です。木枯らしが吹き、水が冷たく感じ、霜が降りて秋が深まり、冬になりましたが、この晩秋から冬の名物誌に、「落ち葉」があります。葉が枯れて落ちていくさまは、物悲しさを伝えてくれます。

 このアパートの玄関に、この枯葉が吹かれて入り込み、一塊になって、出入りの足に絡まって来ていました。しばらく寒さが続きましたが、この数日は暖かな日が続いていますが、また寒さがぶり返してくるようで、襟を立てて寒風の中に出て行くのでしょうか。

 『枯葉は地面に、裏を上にして落ちるのです!』とお聞きして、家内は、出先からの帰りに、紅葉の木の葉を確かめるように地面に落ちている枯葉を見ていたら、みごとに裏返って落ちていたのだそうです。すごい観察眼だなと感心してしまいました。

 その裏返った葉に水が溜まって、地の中で腐葉土に帰していくのです。それを吸収して木は成長し、枝を広げて葉をつけ、実のなる木でしたら、美味しい果実を実らせるのです。この自然のサイクルの不可思議さに、人に知恵を超えた、神の知恵と優しさが溢れています。

(イラストACによる「カエデの枯葉」です)

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 「面壁九年」、一つのことに忍耐強く、専念して、やり遂げることの譬えとして、このように言い表します。長い修行によって、一芸に秀でることですが、その反面、生まれながらに身につけた才能を持っていて、それほどの努力なしで一流になって活躍する人もいます。

 なかなか芽が出ないで、壁に向かって演説の練習をし、ボール撃ちをするテニス選手のなどがおいでですが、自分も、ラケットを引っ張り出して、運動公園の壁打ちをしたりしたのですが、寄る歳なみで、もう続かなくなってしまいました。

 iPadのキーボードに向かって、ブログ作成を始めて、だいぶ年が経ちます。自分の過去の思いや、まだある将来の夢や、叶えれれなかった願いや、出会った人や思想や出来事を、機械に向かって打ち込む作業も、何となく「壁打ち」に似ているように思うのです。

 冬場、炬燵に入って横になり、腕を組んで目を瞑り、寝ているのではなく、何かを思っていた父の姿が思い出されます。亡くなる少し前の父の姿です。父よりも二十年ほど多く生きて来て、自分を重ねながら父のことを思い出して考えています。

 親は、自分の果たせなかった夢や願いを、子に託すことが多くありそうです。長男の兄には大きな期待を向けていたのでしょう。次男の兄は実業界に早く送り出し、三男の私には好きなように生きさせてくれ、末っ子の弟には、教師になりたい希望を叶えようとしたのだと思います。四人四様に自立して、これからの活躍を目にしたかったのに、還暦過ぎの父は六十一で亡くなってしまいました。

 父の前に立ちはだかり、このお自分の前にもある「壁」、今のそれは無言の石やコンクリート作りではない、有言無言の「壁のようなもの」を感じるのです。生き終えた人が、直面していた「老い」や「死」の到来なのかも知れません。もうそれを払い切れない現実の中にあります。

 病んで、入院して、老いを見せている私たちを、心配して、息子や娘たちや孫たちが、訪ねて来ます。『一緒に暮らそ!』と、この暮れに、2週間の予定で、孫娘と一緒に訪ねてくれた娘が、一言言ってくれました。その気持ちが嬉しかったのです。海の向こうに住みながら、そんな気持ちを向けてくれたのです。

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 「進撃の巨人」だったら、高い強固の壁を打ち破って前進できるのでしょうけど、強がって生きて来て、父の老いを理解して上げられないまま、父が帰天してしまい、温泉にも連れていきたい、好きなきんつばを思いっきり食べさせて上げたかった思いだけが残っています。

 あの時、腕組みで目をつぶっていた父の思いが、何となく分かるような思いにされている「今」なのです。果たせなかった夢もあったのでしょう。辛い経験もあったことでしょう。育った家庭のこともあったのでしょう。両親や友人や同僚との出来事もあったのでしょう。青春の蹉跌や挫折、戦時下の苦悩、物不足の戦後のこと、子育てのことなどなどです。そして「老いていく自分」がいたのでしょう。

 二十代半ばの私が感じた、父が面壁していた「壁」が何だったのか、思ってしまうのは、自分も直面している「壁」があるからなのでしょう。あんなに盛んに咲き誇っていたベランダの花が、寒さの中で、徐々に咲き終わって、春の到来を待っているように、私には、「永世の望み」、「救いの完成」、「天国への帰還」、「救い主との直面」の時が迫っています。

 「壁」の向こうに、そんな素敵な「憧れ」の時が待っていてくれます。家内が呼んでくれた救急車に乗って、人生の終点を感じた先月、それでも退院後、初の温泉行きをした昨日、温泉に浸かって感じた温もりが、実に快適でした。家内はデーケアに行き、娘と孫娘を誘ったのです。一緒に昼食を摂り、談笑し、再び温泉に浸かりました。

 帰り道に、皇帝ダリアが綺麗に咲き誇っているのが見られました。孫娘が、珍しい景色に、スマホをかざして写真庫に収めていました。帰りにシジミと蓮根とを買って帰ったのです。雨も上がり、青空が広がって来ていました。

( ウイキペディアによる「皇帝ダリア」、「カレーうどん」です)

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メディカル・カフェ

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 この日曜日の午後、県都・宇都宮で、「メディカル・カフェ」があり、来訪中の次女と孫娘と私たちで参加したのです。この会は、順天堂大学の医学部の医師をしておいでの樋野興夫(ひのおきお)氏が、呼びかけて始まった、おもにガン患者を中心に、医療関係者とボランテアと家族の交流を目的としたもので、宇都宮では十周年を迎えています。

 樋野興夫氏の担当の「ガン哲学外来」の医療現場から、そもそも「ガン哲学外来」とは、どんなことを目的とした医療なのかについて、つぎのように述べられています。

 『多くの人は、自分自身または家族など身近な人ががんにかかったときに初めて死というものを意識し、それと同時に、自分がこれまでいかに生きてきたか、これからどう生きるべきか、死ぬまでに何をなすべきかを真剣に考えます。一方、医療現場は患者の治療をすることに手いっぱいで、患者やその家族の精神的苦痛まで軽減させることはできないのが現状です。
 そういった医療現場と患者の間にある隙間を埋めるべく、「がん哲学外来」が生まれました。科学としてのがんを学びながら、がんに哲学的な思考を取り入れていくという立場です。そこで、隙間を埋めるために、病院や医療機関のみならず、集まりやすい場所で、立場を越えて集う交流の場をつくることから活動を始めました。
 2009年、この活動を全国へ展開をしていくことを目指し、樋野興夫を理事長に「特定非営利活動法人(NPO法人)がん哲学外来」を設立しました。2011年には、隙間を埋める活動を担う人材の育成と活動を推進するために「がん哲学外来市民学会」が市民によって設立されるとともに、「がん哲学外来コーディネーター」養成講座も始まりました。
 こうして、がん哲学外来が対話の場であるメディカルカフェという形で全国に広がり、現在ではメディアで取り上げられるほど注目されるようになりました。また、地域の有志による運営、病院での常設などのほか、さまざまな形で協力してくださる企業も増えてきました。
  これらの活動をしっかり支援し、がん患者が安心して参加できる場をもっと提供していこうと、NPO法人がん哲学外来を201373日「一般社団法人がん哲学外来」とし、一組織として強固な体制を整えていくことになりました。
  「がんであっても尊厳をもって人生を生き切ることのできる社会」の実現を目指し、より多くのがん患者が、垣根を越えた様々な方との対話により、「病気であっても、病人ではない」という、安心した人生を送れるように、私たちは寄り添っていきたいと思っています。』

 宇都宮でもたれている、この交流会について、医師をしておられ、ご自身もがんの闘病中で、会の責任をお持ちの方は、次ように語っておいですす。

 『がんの診断にたずさわる医師たちやがんを経験した人たちが「まちなか」へ出ることにしました。がんなどを患う方たちと話すために。がんなどを患う方たちの家族と話すために。白衣を脱いで、立場を超えて経験をふまえ、同じ立場でまちなかでみなさんと癒しの場をつくっていきたい。
 まちなかでコーヒー片手に、話しましょう。』

 家内の退院後に、以前教会に来ておられ、ご主人に転勤で東京近辺に在住の一人の姉妹が、この会の存在を教えてくれたのです。ネットで検索しましたら、宇都宮でも開催されていて、そこに集うようになったのです。

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 昨日の会には、実家に帰って来た次女と孫娘が、私たちに同行してくれ、一緒に家族として、この会に参加したのです。心うちのことを何でも話をし、一歩会場を後にしたら、語られ聞いたことは、会場に置き残して、それぞの生活の場に帰っていく、これを旨としていて、自由な語り合いが行われ、看護師や医師のみなさんに相談したり、苦しみを分かち合ったりするのです。

 互いに認め合い、励まし合い、話すこと、書くことに励んでいくような勧めもなされています。この会は、全国に展開していて、引っ込み思案の患者を外に誘って、話したり書いたりするような勧めまでしてくれています。「ことば」は、話されても、書かれても、keyboardで打たれても、大切な交流の resource なのでしょう。

 臨時参加の孫娘は、司会者に請われて、交流会の最後に「クリスマス会」が持たれ、「聖しこの夜」を英語で賛美していました。

(” Wikipedia “ による「宇都宮市」、「ベツレヘム」です)

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貧弱という門を通って

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 「私たちは、貧弱という門を通って神の国に入らなければならない。」

 「いと高き方のもとに(いのちのことば社刊)」にあった一節です。この本は、オズワルド・チェンバースの説教や聖書学校の講義で語られたものを、夫人が速記されていたものを編集して、刊行された黙想書です。「百万人の福音」誌に、湖浜馨牧師が翻訳され、19711972年に掲載されていたものを、1990年の秋に、いのちのことば社から、手を加えて刊行されたものです。

 名文、名翻訳文で、毎年毎年繰り返し繰り返し、家内と読み続けてきたのです。このような黙想書は、多く刊行されてきていて、内村鑑三の「一日一生」、スポルジョンの「朝ごとに」、榎本保郎の「旧約聖書一日一章」、金田福一の黙想書も素晴らしいものでしたが、私には、一番教えられ、迫られたのが、この書なのです。

 力強さとか、速さ、豊かさが求められる繁栄の時代、「貧弱」とか、「弱さ」とかは流行らないに違いありません。価値観の転倒だからでしょうか。この流行りこそが、価値観の転倒なのにです。

 救われるために、高慢で、言い訳ばかりする人は、創造者の前に、自らの弱さを曝け出さない限りは、神の国に入国できないというのは、その通りなのです。イエスさまは、「山上の説教」で、

 『心の貧しき者・・哀しむ者は福なり(明治元訳聖書 馬太伝545節)』とあります。それはただの貧しさというよりは、何も持たないほどの困窮状態を言っていて、また単なる悲しみよりも、悲嘆のどん底で感じる思いに違いありません。そこから「神の国」に入るのだと言っているのです。繁栄の教えの対極にある在り方でしょうか。

(“ウイキペディア”による十七世紀頃の「London bridge」です)

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渡り鳥の習性に


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 上海の外灘にある港と大阪南港を結ぶ海路の船旅を、何度もしたことがありました。大阪南港を出て、瀬戸内海を関門海峡を出て、玄界灘沖、対馬の北を経て東シナ海を、約二日間を費やしての船の旅は、悠々として、素敵な時でした。

 いつも思ったのは、遣唐使や遣隋使あの船客の思いに重なって、帆船から機関船に代わって、船旅の旅程時間は、とても短くな理、航海の危険性は少なくなったのですが、1500年の隔たりがあっても、船に乗る気分や思いは変わらないのではないかと思ったのです。

 逆の航路で、上海を出て、外洋の航路の船に乗りますと、カモメが追ってきて飛ぶ姿が見えていましたが、やがて、カモメに変わって飛魚が船とが並走して泳ぎ、飛ぶ姿が見られました。果てしない東シナ海を、ゆったりと進むのです。何度も乗ったのですが、ただ一度だけ、台風接近に中を、乗り出した船が、船頭と船尾を、縦に揺らす波に襲われたことがありました。船員さんも酔っていて、船に強い自分も酔わされたのです。そんな静まらない荒波も、やがて凪(な)いでくるのでした。

 港に帰れる所まで飛んできて、戻っていくカモメとは違って、エンジンもペロペラも持たないのに、ただ羽根の翼を駆って空を飛来する、長距離移動の「渡り鳥」には驚かされるのです。春のツバメやオオルリ、冬のオオハクチョウやマナヅルなどです。この写真にあるのが、中国大陸から冬季に飛来する「タゲリ」です。

 モンゴル周辺から飛んできて、関東以西で越冬するために飛来してきて、「田んぼの貴婦人」と呼ばれていますが、絶滅危惧種になっていうようです。広げた時に7284cmもある大きな丸い翼を持っていて、季節風に乗って飛来し、去っていくのです。フワリと飛ぶのが特徴だそうです。

 この街にも、飛ぶ鳥が見るように、上空から見る「鳥瞰図(ちょうかんず)」で描かれた図絵があります。時々掲出している、日光例幣使街道の栃木宿の街並みです。人は、鳥のように飛ぶことを夢見てきたからでしょうか。鳥のように、地の上を眺めて描くのを好んだのでしょう。

 でも、宇宙船から月に降り立った地球を眺めた、アームストロング宇宙飛行士が、『地球は青かった!』と語ったニュースを聞いて、緑色でも茶色でも灰色でもなく、「青」には、驚かされたのです。人類が見上げ続け、和歌や俳句や詩に表し続けてきた月の色だったわけです。

 そう言えば、『月がとって、青いから、遠回りして帰ろう』当たった歌謡曲がありましたが、月が青いように煮えたことはなかったのですが、地球は、きっと、青いんだろうなと納得がいったのです。

 このタゲリは、私が、宣教をしたいとの願いがあった、このモンゴルから飛んでくるのです。この渡り鳥の習性には、羨ましさも感じますが、その長距離飛行を遂げる力と飛翔の術には、驚かされるのです。餌を求め、避寒のために、どうして、それほどの距離を飛んで来て、飛んで帰るのでしょうか。天敵が少ない北で、子育てをすることを知っているからでもあるようです。ヘブル書には、信仰者たちを取り上げて、次のように記しています。

 『11:13彼等はみな信仰を懷きて死にたり、未だ約束の物を受けざりしが、遙にこれを見て迎へ、地にては旅人また寓れる者なるを言ひあらはせり。(大正訳聖書ヘブル書)』

 イスラエル人の祖、アブラハムは、その生涯を天幕で過ごし、創造者のもとに帰っていきました。それはアブラハムだけではなく、すべての人は、旅人で寄留者なのです。この地上に国籍や市民権を置いていても、それは仮の登録であって、永遠の登録は、これから、約束に従って与えられる、いえ与えられているのです。

 彼に倣って、私も、ここまで旅人で、寄留の地で、借家住まいで過ごしてきました。

(ウイキペディアの「タギリ」の幼鳥の写真、聖句は新改訳聖書です)

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