博多でなくだれを待つのか

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 「待合室」、昔々の物語で、大陸に渡るために、博多の駅で、連れの男性を待っていた婦人が、そこにいました。やり直しの人生を海を越えた地で始めようとしていた様です。ところが最終列車が着いても、待ち人は、そこにやって来る様子がありません。駅長さんが来て彼女に何か話しかけていました。不安の中で、木製の長椅子に座って待ち侘びる顔が大写しにされて、その映画は終わろうとしていました。

 実は、そこに来ようとする直前に、その男性は殺されてしまっていたのです。期待が裏切られ、大陸への夢敗れ、実に悲しいエンディングの場面のセピア色の待合室が、とても印象的でした。悲喜交交(ひきこもごも)、喜怒哀楽、さまざまな人生の場面があるのが、この待合室なのでしょう。

 これまで駅やバス停や港や空港や船着場のベンチに、私も座っていたことが、何度も何度もありました。出雲市駅、高尾駅、上野の何十倍もの広い上海紅橋駅、サンパウロの空港、アモイの港などなどの待合室で、一人ポツンと座っていた自分の姿が思い出されるのです。

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 もしかすると、人生の旅路のターミナル駅の待合室で、だれを、何を、何時かを座って待っているのが、自分の今なのかも知れません。今や乗換を待っている状況にあるに違いありません。どこから来て、どこにいくのでしょうか。

♬ 福音の汽車に乗ってる 天国行きにー(ポッポー)
罪の駅から出ーて もう戻らない

切符はいらない 主の救いがある それでただ行く(ポッポー)
福音の汽車に乗ってる 天国行きにー 🎶

 子育て中、教会学校で、私たちの子どもたちが思いっきり賛美していたのが、この歌でした。出発は「罪の駅」、行き先は「天国」、列車名は「福音」だとあります。罪が赦されて、神の子の身分をいただくと、この始発駅から乗車できるのです。乗車賃は「無料」なのです。先払い、代理払いと言った方が正しいでしょうか。親がではなく、救い主イエスさまが、十字架の上で払ってくださった、《血の代価》によって、その切符を握って、人は赦されるのです。

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 私たちの一番下の子が、『イエスさま、ありがとう!』と泣きながら祈った日がありました。もう今や四十代半ばで、体調不良の親父を気遣って、この日曜日の昼過ぎにやって来てくれたのです。新宿で、お菓子や干し芋をたくさん買って、それを手にぶら下げながらです。もう一つ、医療用ウオッチを持ってでした。いつもは、浅草名物の「草餅」持参なのです。父親同様に親を泣かせた子でしたが、彼の帰っていく姿を眺めながら、この歌を歌っていた日々を思い出したのです。

 二時間ほどいたでしょうか、「赦されること」とか、主の再臨が近い世界情勢とか、日本の罪の根源、日本政治の問題などを話していました。もう、この汽車に乗る準備ができている様です。新幹線やリニヤモーターカーではないのがいいですね。乗車準備は、「罪の悔い改め」のみです。それで、切符が発券されるのです。もう遠くから、汽笛が聞こえて来そうです。東武の新宿行き特急に乗るために帰って行く息子を、ベランダで、彼の母親がジッと見送っていました。

(ウイキペディアの待合所、D51機関車、Christian clip artsのイラストです)

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