お米にまつわるお話

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 今秋、まだ真夏の様な暑さの中の米騒動の頃のことです。散歩道の田んぼに、稲穂を垂れて、収穫を待っていた稲を撮ったのが、この写真です。人の思惑一つで、米価が高騰していく現実に、人の浅はかな儲け主義、便乗主義を見て悲しくなりました。  

 実って首(こうべ)を垂れる、この稲の様に、人が謙遜であり、他者を思う心があったら、我欲を張ったりなさらないのでしょう。あの騒動の時にも、きちんと米俵、いえ米袋が並んでいたお店がありました。わが家では、無くなる寸前に、新米をいただき、スーパーの棚から米がなくなったのに気づいたのは、だいぶ経ってからでした。その新米がなくなる頃に、注文しておいた5キロ袋の県内産のお米が届いたのです。

 持て余すほどには持たない、丁度の分で生きてきたので、慌てることも、不足することもありませんでした。ただ、500円ほど米価が上がっていたのです。流通上の問題が原因なのでしょうか。急激な物価高をうんでしまう世相なのです。

 子どもの頃、米は俵に入って、米屋の店頭に積まれていました。ここ栃木の出の文学者の山本有三が、昭和18年(1943年)に、「米百俵」を戯曲として書き上げ、それが何年か前に、再注目されて、学校で教えられる様になったそうです。

 長岡藩が、戊辰戦争で、幕府軍に与(くみ)した結果、長岡の城下町は、長州藩の兵士たちに焼き払われてしまいます。食べるに事欠いた時、支藩の三根山藩から、「米百俵」の寄進がありました。藩の大参事であった小林虎次郎が願ったことがありました。次の様に、長岡市のサイトにあります。

『虎三郎は「早く、米を分けろ」といきり立つ藩士たちに向かってこう語りかける。
「この米を、一日か二日で食いつぶしてあとに何が残るのだ。国がおこるのも、ほろびるのも、まちが栄えるのも、衰えるのも、ことごとく人にある。」「この百俵の米をもとにして、学校をたてたいのだ。この百俵は、今でこそただの百俵だが、後年には一万俵になるか、百万俵になるか、はかりしれないものがある。いや、米だわらなどでは、見つもれない尊いものになるのだ。その日ぐらしでは、長岡は立ちあがれないぞ。あたらしい日本はうまれないぞ。」

 教育と反戦の思想で裏打ちされた戯曲<米百俵>は大ベストセラーとなったが、時代は軍部の支配下にあり、反戦戯曲だと強い弾圧を受けて絶版となり、自主回収の憂き目を見た。

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 それから約30年後の昭和50年(1975)、長岡市が<米百俵 小林虎三郎の思想>を復刻出版すると、大きな反響を呼んだ。また、昭和54年(1979)と平成13年の2度にわたり歌舞伎座で上演され、多くの人々に感銘を与えた。』

 お米もお金も、どう用いるかによって、その結果は歴然とします。そんな長岡からは、東京帝国大学総長の小野塚喜平次、解剖学の医学博士の小金井良精、司法大臣の小原直、そして海軍の山本五十六元帥などの日本を背負った逸材が輩出されているそうです。

『わが子よ。すぐれた知性と思慮とをよく見張り、これらを見失うな。 それらは、あなたのたましいのいのちとなり、あなたの首の麗しさとなる。(新改訳聖書 箴言3章21~22節)』

『力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。(箴言4章23節)』

 知性の豊かさと思慮深さとは、「いのち」と深く関わっているので、それに磨きをかけるのを怠ってはいけないと、聖書は言います。霊的な、信仰上のことだけを求めて、知性を軽視する様には、聖書は言ってません。また感情的になってしまって、思慮に欠けてもいけません。心を、精一杯見張り、見守ることも忘れてはいけない様です。

 それに、この長岡は、花火で有名でもあります。いつか行こうと思いつつも、まだ一度も訪ねたことがありません。河井継之助という人材をうんだ街に、何か惹かれるものがあります。越後は、日本有数の米所で、美味しいご飯が食べられます。

(ウイキペディアの江戸時代の長岡を描いた錦絵です)

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