.
.
最初の職場の直属の上司は、長崎県の島嶼部の「壱岐(島)」の出身でした。浦和高校を経て東大に学んだ方で、父より若い方でした。とても賢い方で、お酒が好きで、よく連れ歩かれたのです。
自分の生活圏からは、ずいぶんと遠い「壱岐」が、どんな島だったのか、中国大陸、朝鮮半島との船の航路の中継地であったわけです。「魏志倭人伝」や「日本書紀」にも登場する島で、有史以前の弥生時代から、海上交通の要衝であったのです。
そう言った歴史的な背景から、「国境の島 壱岐・対馬・五島~古代からの架け橋~」世の名称で、平成27年に「日本遺産」とされています。「壱岐市」は、弥生時代から長年にわたって海上交通の要衝となった歴史があります。この歴史的特徴から、「国境の島 壱岐・対馬・五島~古代からの架け橋~」として平成27年に日本遺産に認定されました。
特に、「原の辻遺跡」は、国内最大級の「環濠集落(かんごう/防衛上周囲を堀で巡らせた集落)」と呼ばれ、弥生時代にあった集落としては、国内3ヶ所目となる特別史跡なのです。これも大陸中国に真似たものだと言われているそうです。
ここは、気候的には、暖流の対馬海流が流れて、温暖な気候をもたらしているのです。暖流の影響で、日本海側の一帯には、水蒸気が多く発生し、冬場に降った雪が溶けて流れ下り、米作農業のためには好条件で、日本海側の田圃で収穫されるお米は美味しいのです。壱岐にも、けっこう広い平野があって、農業も盛んに行われ続けてきています。
新鮮なウニ・サザエやマグロ・ブリなどの海の幸に恵まれていて、水産業が伝統的に盛んに行われています。そして米の他には、いちご・アスパラガス・葉たばこ・肉用牛などの豊かな農産物も生産されていて、漁業と農業が大変盛んな島、市なのです。
『魏志倭人伝』には、現在用いられている漢字ではなく、「一支国(いきのくに)」、「伊伎島」と記されていました。この国の主都の遺跡なのです。時期的には、紀元前2~3世紀から紀元3~4世紀(弥生時代~古墳時代初め)にかけて作られ、住まれていた集落で、東西、南北ともに約1km四方にも及んでいたのです。
.
.
世界制覇を目論んでいた「元(蒙古族の国)」が、鎌倉時代に、大艦隊を率いて日本に攻めてきた時に、対馬(つしま)と共に、初期に攻撃されたのが、この壱岐だったようです。その戦いを、「元寇(げんこう)」と言って、弘安の役、文永の役で二度攻められた経緯がありましたが、けっきょく台風の影響でしょうか、船団は大被害を被って、撤退してしまったと伝えられています。
この壱岐市の市歌があります。
春一番(はるいちばん)に さそわれて
花咲(はなさ)き海(うみ)の 碧(あお)が増(ま)す
いとなみ刻(きざ)む 手(て)をつなぎ
明(あか)るい希望(のぞみ) 奏(かな)でよう
はばたく壱岐(いき)の 空映(そらは)ゆる
はばたく壱岐(いき)の 空映(そらは)ゆる
海(うみ)とみどりに 育(はぐく)まれ
ゆたかな恵(めぐ)み わかち合(あ)う
心(こころ)ひとつに ときめいて
新(あら)たな息吹(いぶき) 生(う)み出(だ)そう
きらめく壱岐(いき)の 島萌(しまも)ゆる
きらめく壱岐(いき)の 島萌(しまも)ゆる(3番省略)
美しい自然と人情にあふれた歌詞で、壱岐市が紹介されています。こんな島で育った上司は、杉並の家の庭に咲くタイサンボクを手折って、春になると職場に持ってこられた人でした。老後を過ごすには住みよい街のように思うのですが、私の26回目の引っ越しができるでしょうか。終の住処にはならずとも、一度は旅をしてみたい思いに駆られております。
(ウイキペディアによる「壱岐」の島の一部、元寇で戦う「元軍」です)
.