美の極みの神の都と華の東京と

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 作詞が西條八十、作曲が中山晋平、唄が佐藤千夜子の「東京行進曲」が、昭和初期に流行りました。近代化していく東京の変化を歌ったもので、大流行りしたと言われています。 

1 昔恋しい 銀座の柳
仇(あだ)な年増(としま)を 誰が知ろ
ジャズで踊って リキュルで更けて
明けりゃ ダンサーの涙雨

2 恋の丸ビル あの窓あたり
泣いて文(ふみ)書く 人もある
ラッシュアワーに 拾った薔薇を
せめてあの娘(こ)の 思い出に

3 ひろい東京 恋ゆえ狭い
粋な浅草 忍び逢い
あなた地下鉄 わたしはバスよ
恋のストップ ままならぬ

4 シネマ見ましょか お茶のみましょか
いっそ小田急で 逃げましょか
かわる新宿 あの武蔵野の
月もデパートの 屋根に出る

 父は、中学生の頃に、大森駅の近くにあった親戚の家から、学校に通っていたそうで、青年期を東京で過ごしています。この歌の歌詞のように、「華やかな都会」の雰囲気が溢れた銀座や渋谷や池袋や新宿、そして浅草に、その街々に憧れて、都会を求める人々を集まって来ていたようです。

  この「丸ビル」は、東洋一のビジネス・ビルでした。日本の経済界の中心地で、主要な企業の本社がビルの中に、事務所を置き、日本経済を動かしていく本拠地だったのです。若者たちは、この街で働くのをstatusにしていたようです。われわれ世代で、都会の雰囲気を知ってる者たちは、地方に目を向け、今も昔も地方の若者たちは、東京に憧れるのでしょうか。

 「銀座」は、商談や接待やショッピングや食事や喫茶のための街として拓けていき、流行の発信地だったのでしょう。学校の裏門から出ると、世田谷方面からくる都電があって、銀座にすぐに行けました。時々、私たちは、それに跳び乗って、都会の空気を吸いに行ったのです。やはり日本一の繁華街で、なんでもがあふれた街でした。

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 1923年創業の小田原急行鉄道、今の「小田急」電鉄が、東京から横浜や小田原や湘南を結んで、東京の西の郊外から東京で働いたり、買い物や娯楽に利用された鉄道会社で、その基点駅が、「新宿」でした。そこは武蔵野になるのですね。京王も小田急も西武も旧国鉄の前身の甲武鉄道も、ここを起点にしていました。もともと甲州街道の江戸の街への入り口で栄えた街だったのです。

 鉄道網が広げられていく中で、同じように、「池袋」は西武鉄道で、川越や秩父市方面の起点であり、「上野」や「浅草」は、北関東への起点でした。「渋谷」は、相模神奈川や東京都下の三多摩への起点だったでしょうか。

 忘れてはいけないのが、「品川」でした。東海道の主要な宿場で、江戸の大木戸のあった高輪からすぐの街でした。ここから三浦半島の横須賀や堂ヶ島と結んだ、1899年創業の京浜急行鉄道が敷かれました。日本の海軍の基地となった横須賀と結んでいました。今も、アメリカ軍の軍艦の寄港地で、海上自衛隊の基地でもあります。

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 時代とともに、人の移動方法が大きく変化していきました。交通手段は、歩くか籠か牛馬か舟によっていましたが、燃料革命が起こると共に、石油を用いたエンジンが発明され、木炭から石炭、そして石油が利用され、電気発電が行われてから、電動電車が誕生し、長足の進歩がありました。

 東京には、電車になる以前は、人力鉄道、馬車鉄道が敷かれます。東京の場合、市電が走る前は、馬車による路面鉄道でした。家内は東京が都になってからの都電と呼ばれるようになり、これで通学していたのです。今では一路線だけが残されていて、早稲田と荒川の三ノ輪橋を結んでいるのです。

 今では、都電の路線後の地下に、地下鉄が入っていて、東京は、地下鉄網が縦横に張り巡らされていて、乗り換えに何度も苦労して、迷子状態になったか知れません。とくに渋谷は、地下迷路のようになってしまっていて、行きたくない、乗り換えたくない駅になってしまったのです。

 この「地下鉄」の最初の路線は、1902年(昭和2年)に、「浅草」と「上野」で開業されています。日本中の地下鉄の総路線は851.5kmで、令和4年の実績で、1日あたり1454万人の利用者がいるそうです。栃木からは、東武日光線、東武伊勢崎線で、地下鉄相互乗り入れで、渋谷にも町田にも東急線乗り入れの路線で行くことができます。
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 昔、東京浅草周辺の小学校は、東武日光線に乗って、この街の大平山に遠足でやって来たそうです。そして、同じ鉄路で、沿線市民は、華のお江戸、国都・東京の「浅草」に芝居や落語やレヴューの観劇や買い物や食事に出掛けたようです。今、私にとっての都会も、この「浅草」なのですが、まだ直通電車で出かけたことがありません。いつか東武特急の「スペーシアX」に乗車して、行ってみたいものです。

 私の父にとっても、当時の若者の心が向いていたのも、御多分に洩れず、「浅草」だったのではないかと思っています。駒形の「どぜう(泥鰌)屋」に行きつけていたようですから、この街を熟知していたに違いありません。自分にとって、「新宿」が青春の時間を過ごした街だとするなら、父にとっては、「浅草」だったのでしょう。みんな自分の時代のページがあって、そこには、書き込めないようなこともあって、過ぎていったことでしょう。

『若い男よ、若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたは、自分の思う道を、また自分の目の見るとおりに歩め。しかし、神がこれらすべてのことにおいて、あなたをさばきに連れて行くことを知っておけ。・・・あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。(新改訳聖書 伝道者の書11章9節、12章1節)』

 そして、後の日になって、創造者と不思議な出会いをして、人生を締めくくるのが最善の道なのでしょう。父は、自分の腰から最初に出た子に導かれて、悔い改めて、キリストへの信仰をもって、自分の61年の旅路を終えております。やがて、美の極み「神の都」の大通りをを、二親と家内と子供たち、兄弟、そして、主にある愛兄姉のみなさんで、共に歩めるのが楽しみなのです。

(ウイキペディアの江戸期の浅草、東武浅草駅、最初の東京の地下鉄開業ポスター、東京スカイツリーです)

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