「私たちは、貧弱という門を通って神の国に入らなければならない。」
「いと高き方のもとに(いのちのことば社刊)」にあった一節です。この本は、オズワルド・チェンバースの説教や聖書学校の講義で語られたものを、夫人が速記されていたものを編集して、刊行された黙想書です。「百万人の福音」誌に、湖浜馨牧師が翻訳され、1971〜1972年に掲載されていたものを、1990年の秋に、いのちのことば社から、手を加えて刊行されたものです。
名文、名翻訳文で、毎年毎年繰り返し繰り返し、家内と読み続けてきたのです。このような黙想書は、多く刊行されてきていて、内村鑑三の「一日一生」、スポルジョンの「朝ごとに」、榎本保郎の「旧約聖書一日一章」、金田福一の黙想書も素晴らしいものでしたが、私には、一番教えられ、迫られたのが、この書なのです。
力強さとか、速さ、豊かさが求められる繁栄の時代、「貧弱」とか、「弱さ」とかは流行らないに違いありません。価値観の転倒だからでしょうか。この流行りこそが、価値観の転倒なのにです。
救われるために、高慢で、言い訳ばかりする人は、創造者の前に、自らの弱さを曝け出さない限りは、神の国に入国できないというのは、その通りなのです。イエスさまは、「山上の説教」で、
『心の貧しき者・・哀しむ者は福なり(明治元訳聖書 馬太伝5章4、5節)』とあります。それはただの貧しさというよりは、何も持たないほどの困窮状態を言っていて、また単なる悲しみよりも、悲嘆のどん底で感じる思いに違いありません。そこから「神の国」に入るのだと言っているのです。繁栄の教えの対極にある在り方でしょうか。
(“ウイキペディア”による十七世紀頃の「London bridge」です)
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