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「ひつぢ」という言葉があります。昔は「ひつち」と言われていたそうです。漢字で「穭」と書きます。「稲孫」とも書くようですから、もうお分かりでしょう。秋に稲を収穫した切り株から、生出てくる「二代目」の稲のことなのです。まだ私たちが小学校に通っていた頃の通学路の脇には、水田が広がっていました。都内に通勤している人のベッドタウンになる前の都下の街の「原風景」です。この時期、稲の切り株が、ちょっと邪魔でしたが、稲刈りを終えた田の中で、追いかけっこをしたり、遊びながら下校をしたのです。その枯れた切り株から、青々として出ているものを見て知っていましたが、「ひつぢ」という名だったのを知ったのは、大人になってからでした。

「草」にちがいないのですが、「ひつち」と呼んだことに、農耕民族の先人たちは、自分たちの命を支える、重要な食物としての「米」や「麦」などを、どんなにか愛でていたことかが分かります。そう言った先人たちの感性に、今更ながら驚かされるのです。悪戯小僧が、田の中に入るからでしょうか、いつの頃からか、耕耘機で田おこしをするようになって、遊べなくなってしまいました。「え、いじわるっ!」と思ったのは昨日のことのようです。

長く仕事をしていた中部地方の内陸の街から、郊外に抜けて行くと、茅などが生えた、かつての田んぼが散在していました。「減反政策」で米を作らなくなってしまったからです。「再び、米作りをするには、大変な苦労をして、田んぼ作りをしなければならないいのです!」と、お百姓さんが嘆いていました。

最近のニュースですと、休耕地で米作りを再開するようです。原野を切り開いて、並大抵ではない努力をして、新田の開墾をした時代がありました。そう言った田んぼには石ころ一つ見つけることができないほどに、米作りのために最適な環境を備え、整えててあったのです。知り合いの方の田植えをしたことがありました。雨降りでしたので、カッパを着て、腰を屈めながら、見よう見まねで手伝いをしたのです。やはり、大変な労働でした。その労を感謝されて、農家の食事をご馳走になったのですが、本当に美味しかったのです。

米で年貢を払っていたほどに、貴重な穀物の「米」には、農耕民族の末裔の私たちには、特別な肝入りがあるようです。春から夏にかけて、青田の苗が青々としている 風景が、日本の津々浦々に見られる日も近いのではないでしょうか。今、娘が買ってくれた「お米」を食べていますが、日本の高級銘柄と遜色がないほどに美味しいのです。第一次産業が脚光を浴びたら、日本は元気を取り戻すのではないでしょうか。

(写真は、盛夏の頃の「稲田」です)

ハイジャンプ

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古代イスラエル民族には、人の価値を「金銭」で量ることが、伝統的に読み継がれている書の中に記されてあります。この「人身評価」には、次のように書かれてあります。

「その評価は、次のとおりにする。二十歳から六十歳までの男なら、その評価は聖所のシェケルで銀五十シェケル。女なら、その評価は三十シェケル。五歳から二十歳までなら、その男の評価は二十シェケル、女は十シェケル。一か月から五歳までなら、その男の評価は銀五シェケル、女の評価は銀三シェケル。六十歳以上なら、男の評価は十五シェケル、女は十シェケル。」とです。孫たちのうち、男の子たちは、もうすでに5歳を越えていますから、60歳をはるかに過ぎた私よりも、「5シェケル」も高価だということになります。女の子も、二十歳を過ぎますと、母親よりに評価が高くなるのです。

私たち男は、61歳になると、3分の1以下の価値に激減するわけです。日本の公務員や企業人の「定年」、つまり「退職年齢」は、2013年から、「65歳」に引き上げられたようです。私たちの時代は、「60歳定年」でしたが、労働人口が少なくなってきたからでしょうか、変えられてきています。ここ中国では、男性が60歳、女性が55歳が、「定年」ですが、引き上げが検討されているそうです。まあ、「後進に道を譲る」ことは、理にかなったことなのではないでしょうか。がっかりすることはやめにしましょう。

ところが、その書の中には、「老人の前では起立せよ」、「白髪は光栄の冠である」とも書かれてあるのです。深沢七郎の小説「楢山節考」に出てきます、「姥捨山(うばすてやま)」の伝説に比べて、老いた者に対する「敬意」がることに、何となくほっとさせられます。まだ溌剌としていた壮年期に、あるお婆さんにお会いしたー時に、彼女は、『こんな汚いばばあになってしまって・・・・』と言っていたのを聞いて、悲しかったのです。誰かに、そう言われたのでしょうか。または、才色が衰えてしまった悲しさでそう言ったのでしょうか。老人は、もっと輝いて好いし、感謝されて好いのではないでしょうか。その書の勧めは、「もっと誇らしく生きるように!」との激励に違いありません。

誰でしたか、正月になると腰に髑髏(しゃれこうべ)を下げて、「正月や 冥土の旅の 一里塚・・・」と詠んで出歩いた人がいたようです。私は、「15シェケル」を満額受け入れて、こう詠みましょう。「人生の 仕上げのための ハイジャンプ」と。

(写真は、「血圧計」です)

慈母と厳父

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明日から十二月、最後の月を迎えます。どなたも、この2013年を、感慨深く思い返しているのではないでしょうか。毎年、その年を、「漢字」の一字で表すのですが、「暑」が選ばれても好いほどの猛暑、酷暑の夏を思い出します。豪雨、ゲリラ豪雨などと呼ばれた、異常な降雨量の年でしたから、「豪」も好いかも知れません。ということは異常気象の年でしたから、「異」はどうでしょうか。

小説家で、物理学者の寺田寅彦が、こんなことを言っています。『日本人は自然の「慈母」としての愛に甘えながら、「厳父」の恐ろしさが身にしみている。予想しがたい地震台風にむち打たれ、災害を軽減し回避する策に知恵を絞ってきたところが西洋と違う。』とです。日本のように、こんなに自然の恵みをいただく国は、めずらしいのではないでしょうか。でも、時としては、「雷親爺」のように、自然界が牙をむき襲ってもくる国でもあります。ビクビクしたと思ったら、満開の桜や山を萌えさせる紅葉に慰められたりされて、私たちは生きてきたのです。

二人の兄と一人の弟、四人兄弟の私たちも、母の「優しさ」と父の「厳しさ」とで育て上げてくれたことも思い出されます。そんな母に、一度だけですが、叱られたこともあります。また、あの父に、褒められたり、煽(おだ)てられたり、抱きすくめられたこともありました。剛柔、織り交ぜて両親の子育てがあったのです。

不思議な思いがするのは、父が六十一の誕生日の直後に亡くなり、父よりも長生きしている自分が、父を思い返している今、年上の感じがしないのが、なんとなくすぐったいのです。やはり、父は記憶の中にある父だからなのでしょう。もう少し長生きして、親孝行をさせて欲しかった父に比べて、長寿を全うした母の晩年の穏やかな表情が思い出されます。

今月は、二人の孫と私の誕生月なのです。みんなバラバラに別れ住んでいますから、一緒に誕生祝いをしたいのにできないのが残念です。これからの孫たちと、年々老いていくジイジの私ですが、その年齢差に、人生の面白さがあるのに気づくのです。中国語の「老」は、「老いていく」という意味だけではなく、「経験豊か」とか「箔(はく)のついた(値打ちがあって貫禄があると言ったことでしょうか)」との意味があるのです。それで、奥さんのことを「老婆(laopo)」と言います。これは、「老いてしまっておバアになってしまった妻」ではなく、「愛妻」のことです(夫のことは「老公(laogong」)。

としますと、「完成」に向かっているのでしょう。明日からの新しい月に、心を弾ませてくれることが起こることを願いたいものです。そして「箔」をつけるために、輝いた「2014年」を迎えたいですね。

(写真の花は、「水仙」です)

知情意

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夏目漱石の「草枕」の初めに、「智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」とあって、とても有名な一文です。これは、「道理を振りかざして、人と関わると、どうしても悶着や摩擦を起こしてしまう」、「情に動かされると自分を見失ってしまう」、「意地を張っていると諍(いさか)が起こってしまう」と言ってるのでしょうか。どうも漱石は、人間関係や社会生活で、だいぶ難儀したのではないのでしょうか。

近代日本が形成されて行く上で、「欧化政策」を忘れることはできませんが、「近代日本語」が作られて行く上で、漱石の果たした役割は大きかったのです。というのは、彼の作品が好まれて多くの人に読まれたからです。どうしてかというと、彼は、「江戸っ子(「江戸市民」と言えるでしょうか)」で、「落語」をこよなく愛した人で、庶民の言葉を駆使して、小説を書いたからです。三代目の「小さん」の高座を特愛したそうです。あの「坊っちゃん」の喋り言葉が歯切れがいいのは、そのせいです。

この漱石の作品から影響を受けた人に、あの魯迅もいたのではないでしょうか。魯迅の作品の中には、多くの「日本語表現」が見受けられるのです。彼は、中国の近代化に文学の面で寄与していますから、「近代中国語」に強く影響を残した人でもあるのです。先週、「馬尾」という街にある、「海軍博物館」を見学しました。そこには多くの写真が掲出されてあり、日本の初代の総理大臣・伊藤博文に写真も見つけたのです。その中に、将来の海軍軍人を養成するために選ばれたのでしょうか、百人以上の少年たちの集合写真がありました。イギリスに留学させて語学習得をさせたかったようです。やはり、中国もヨーロッパ諸国に学ぼうとしていたのです。

和気藹々とした交流のあった時代があって、「今」があるのです。私たち日本は、かつて隋や唐の時代に、多くの留学生が東シナ海を渡って行き、旺盛な知識欲で、中華文化を学んだのです。明治期には、反対に、多くの中国の 青年たちが、日本にやって来て学んだのです。私も「一学徒」として、やって来ました。こちらの方に、学びたい思いは、まだまだ尽きません。今日は、冷たい北風が吹いていましたが、陽がさしてきたら、若者たちは半袖になっていた人もいました。やはり「華南の晩秋」です。

(写真は、「山茶花」です)

娘の来訪

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先週、シンガポールで働いている長女が遊びに来てくれました。両親が仲良く暮らしているか、その様子を見にきたのでしょう。清朝からの伝統的な街並みをそぞろ歩いて、お土産屋を覗いては買い物をしたり、コーヒーショップに入ったりして、久しぶりの休暇を楽しんでいたようです。また、家内と連れ立って、近くのスーパーのウインドウ・ショッピングにもでかけたようです。かつてこの街にいた外国人たちの別荘があった山里を、友人に案内していただきました。観光開発で整備された遊歩道を、秋の空気を思いっ切り吸いながら、森林浴を楽しむことができたようです。シンガポールには山がないとのことで、私の真似をして、向こうに見える山や谷間に向かって大きな声をあげていました。

山行きの昼には、地鶏のスープや地産の野菜を使った料理を、友人がご馳走してくれたのです。観光シーズンではない週日でしたから、人もまばらで、ゆったりした時を過ごせました。日本でも、軽井沢とか清里、さらには上高地などは、日本に滞在していた外国人によって見つけられ、開発された歴史があります。私たちが訪ねた山里も、欧米人、特にイギリス人たちが開発したそうです。山村には珍しかったプールやテニスコートも作っています。彼らの「休暇村」での様子を、掲出されてある古写真で知ることができました。仕事と休暇、公と私をはっきりとする欧米人の生き方は、東アジアの私たちのアイデアとは違い、なかなか真似ができません。

二つの家族に食事に招待され、家内と私と三人で一緒に預かることができました。珍しい物まで食べることができたのです。また、高級な外資系ホテルのレストランで韓国料理を、娘が私たちにご馳走してくれたりしました。今回で五度目の訪問だそうで、数えてみたことがありませんので、ちょっと驚いたりしました。ここが気に入っているからこそ、なんども訪問してくれるのでしょうか。いいえ本当は、だんだんと年を重ねている親を心配しての訪問だということが分かっていますから、とても嬉しかったのです。私の仕事机の椅子が、街の食堂のプラスチック製の簡易椅子と同じであり、私が腰痛で時々苦しむのを知っている彼女は、高級な事務用の椅子、そして腰部を保護するクッションまで買ってくれました。今も、座り心地よく、iPadに向かっています。

友人が、『空港まで送りましょう!』という言葉に甘えて、昨日の朝、私たちのアパートの門口で待っていました。やってきた車は、私が乗っていたカローラやマークⅡ級ではなく、ベンツの最高級のグレードでした。素晴らしい乗り心地に満足して、朝の便で、娘が帰って行きました。多くの若い友人たちに囲まれ、世話されている両親の様子を確認し終えて、安心したようです。こちらの名産の「お茶」を土産に持って行ったそうです。『来年は、新しい歩みを採りたいの!』と娘が言っていました。全てを委ねて、しっかりと最終決定をするように願って、手を振りました。

(写真は、70年以前に利用されていた「別荘」です)

「故郷」

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日本と関わりのある中国の文人は、何人もおいでです。児童文学者の「謝氷心」、日本語が堪能であった「周作人」、この周作人の兄で、中国では著名な作家の「魯迅」などの名を上げることができます。とくに魯迅は、「近代中国の文学の父」と呼ばれた逸材でした。この彼の作品に、「故郷」があります。短編ですが、彼の生まれ育った「紹興」についての思いを記しています。

その冒頭に、「わたしは厳寒を冒して、二千余里を隔て二十余年も別れていた故郷に帰って来た。時はもう冬の最中(さなか)で故郷に近づくに従って天気は小闇(おぐら)くなり、身を切るような風が船室に吹き込んでびゅうびゅうと鳴る。苫の隙間から外を見ると、蒼黄いろい空の下にしめやかな荒村(あれむら)があちこちに横たわっていささかの活気もない。わたしはうら悲しき心の動きが抑え切れなくなった。おお! これこそ二十年来ときどき想い出す我が故郷ではないか。」とあるのは、「紹興」の街なのです。浙江省の古都で、そこは、長江のデルタ地帯に位置しているようです。まだ行ったことがありませんが、いつか訪ねて見たいと思っております。

前にも、魯迅の「藤野先生」について書きましたが、医者志望の彼が、魯迅は、医学の道を断念し、文筆の道に進路を転換していますが、そのきっかけとなったのが、藤野源九郎が見せた「幻燈(スライド)」でした。ある時、授業が早めに終わったのでしょうか、残りの時間に、日露戦争の様子を写したスライドが映写されたのです。魯迅は、この中で、スパイを働いたとして、日本軍に処刑される中国人と、それを、ぼんやりと見ている周囲の中国人の様子を見ました。魯迅は、この時の衝撃を、『愚弱な国民は、たとい体格がどんなに健全で、どんなに長生きしようとも、せいぜい無意味な見せしめの材料 と、その見物人になるだけはないか!』と、「吶喊(とっかん)」という作品の中で書き残しているのです。魯迅が感じたのは、医療よりも、まず同胞・中国人の「精神の改造」こそが最重要なことだと心に決めます。それで、医学校を退学し、帰国して文学の道に分け入るのです。

やはり、近代中国の文学界に綺羅星のように輝く魯迅の作品は、日本人の共感を得て、大変好まれています。この「故郷」は、中学三年の「国語」で取り上げられて、学ばれているほどの作品です。自分の故郷を思うのに、良い参考になるのではないでしょうか。魯迅の弟の周作人も優れた人物なのです。隣国中国の文学作品に触れるのも、友好の前進のために必要かと思う、「読書の秋」であります。

(写真は、「紹興」の一風景です)

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今朝、買い物当番で、無料送迎バスに乗って台湾系のスーパーマーケットに行ってきました。このバスは、店までの間の路肩で、手を上げて乗車の意思を示すと、止まって乗せてくれるのです。いつも満員なのですが、今朝は5人ほどしか乗客がいませんでいた。他のスーパーが特売でもしてるのでしょうか。この地域には、フランス系、イギリス系、アメリカ系と、国際色が豊かで、さながら激戦区の様相です。日系がないのが少々寂しいのですが。

買物を済ませて、外のベンチに座って、第二便の到着(このバスが帰りの便になるのです)を待っていました。朝の8時半過ぎでしたから、清掃をしている時間帯で、何人もの方がそれぞれに、担当の場所を掃除をしていました。若い男性が、コンクリートの三和土(たたき)になっているところに、掃除に使った汚水をまいていました。向こうの方では、五十前後の婦人従業員が、同じように汚水の入ったバケツを下げてきました。三和土に流すのかと思ったら、そうではなく、植木のところに行って、「水遣(みずや)り」をしたのです。さすが、若い男性と違って、水の再利用を賢くしていたわけです。

長女が幼稚園に行っていた時、五月頃だったでしょうか、農家の休耕地を借りて、サツマイモの苗を、お父さんやお母さんが助けながら、園児たちが植えたのです。田舎のおじいちゃんは農業をしているかも知れませんが、お父さんやお母さんは勤め人が多かったので、みんなは初めての経験だったようです。土をいじりたがらない子もいましたが、わが家は、家の近くに畑を借りて、「家庭菜園」をしてましたので、長女は慣れていたようです。あのような経験は好いことですね。人が、だんだん土に触れなくなってきているからです。

その時一人の若い先生が、側溝の流れから水をバケツに汲んで、鍬などの農具を洗っていました。そうしたら、その水を、先ほど植えたサツマイモの苗に、やさしく「水遣り」をしたのです。そうしましたら、一人の若いお父さんが、『さすが百姓の娘だ!』とからかい気味に言ったのです。それを聞いて、『そういうもんなのか!』と納得したのです。水を無駄に使ってきた私は、農家が、どんなに「水」を大切にするものなのだということを教えられたのです。

こちらでも、台所の水をバケツにとっておき、それをトイレに流したり、掃除に使ったりしておいでです。何となく、人の行動を眺めていて、昔のことを思い出した次第です。学問の中には、「行動学」というのがあるようですが、『人間って面白い、』と、つくづく思わされています。

(写真は、台湾系スーパーの店頭風景<台湾>です)

『何の肉だかわからねーぞ!』

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「場末」と呼ばれるのようなところ、例えば、東京の「山谷」、大阪の「釜ヶ崎」、横浜の「真金町」など、昼間は決して足を入れたくないような界隈(かいわい)ですが、薄暗くなった夕刻には、提灯に灯が灯って、怪しげな匂いがしてくるのです。小汚い食堂があって、お金の乏しかった学生の私は、そう言ったところで食事をしたことがあります。安くて、量も多くて、満腹できたのです。足繁く行った、いいえ連れて行か れたのが、新宿の西口の線路際にあった食堂街でした。中学生など、他には誰一人見当たらなかったのですが、大学生や高校生のあとについて行き、暖簾をくぐって、隣にちょこんと座って、おごってもらう機会が多くありました。

でも、美味かったのです。お腹が空いていて、家に帰るまで持たないないような中で食べたのですから、なんだって美味いはずです。「丼もの」を、よく食べたと思います。大学生が、「何の肉だかわからねーぞ?」と言っていました。そんなことを意に介さずに、パクパクと食べてしまいました。身長が一年に10cm以上も伸びる伸長期でしたから、あの時の食べ物が肉になり骨になっていたに違いありません。

今、「食品偽装」が、マスコミに叩かれて、実に多くのホテルやレストラン、スーパーや食堂の責任者が、「謝罪会見」をしています。何か、異常さを感じるのですが。もちろん赦されることではないのですが。あんな風に叩かれたら、「埃り高い」私などは、次から次へと、人間性の問題や過失が暴露されそうです。この「偽装」に問題は、日本の社会にある、「弱い体質」なのではないでしょうか。それを糾弾する「マスメディア」の「これでもかこれもか!」という攻勢、「徹底的に叩き出さずにはおかない!」という在り方、姿勢も、実に日本的だと思えてなりません。マスコミって怖いものだと思います。

新宿で食べた、あの「ドンブリもの」ですが、食べちゃった後、半世紀以上も昔のことを、「猫だ犬だ鼠だ!」と騒いで見ても、みんな厠に行ってしまったのです。「美味かった!」で好いのはないでしょうか。兎角、この世は嘘がまかり通っていて、嘘のままで真実が明かされないで、満足している人を眠りから起こさない方がいいのかも知れません。あれもこれも叩き出したら、日本国は成り行かなくなるに違いありません。知らない方が、恨まないでいいかも知れません。

小学生の頃、父が渋谷で、「子牛の肉」を食べさせてくれました。合い挽き肉のハンバーグを食べるくらいの牛肉体験しかなかったのに、「ドイツ料理」をご馳走してくれたのです。アメリカでも、アルゼンチンでも、東京でも、あれほど美味しかったビーフは、それ以来一度も食べていません。疑えば、あの肉だって「子牛」ではなく、圧力鍋で柔らかくした「成牛」だったかも知れません。温かくて、今でもジーンと胸にくる父の気持ちを思い出して、「美味かった!」のままが一番です。

(写真は、1952年当時の「渋谷駅・スクランブル交差点」です)

復興を!

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「天変地異」とは、デジタル大辞泉によりますと、「天変と地異。自然界に起こる異変。台風・地震・洪水など。」とあります。この数年、今まで聞いたことのないような、「ゲリラ豪雨」とか、「風呂桶をひっくり返したような豪雨」という言葉を、天気予報やニュースで耳にするようになりました。それも日本だけの気象情報ではなく、世界中から、ハリケーンとか竜巻、異常降雨とか日照りと言ったことが伝えられてきています。先週は、フィリピンが、台風30号の襲来で、甚大な被害を蒙ったとのニュースがありました。1000万もの被災者が、レイテ島などにあり、死者も2300人もあり、今後増えそうだと言っております。

生まれてから、これまでで一番驚いたのは、「東日本大震災」の「津波」でした。映像で見ただけですが、まさに、「海と波があれどよめく」と言った自然の猛威でした。その様子を見ていた私も、その津波を高台から、驚きの声をあげて見入っている人の顔も、「不安」で一杯にさせられてしまいました。これまでの時代は、雨の降る量も風速も、気温も気圧も、「制限」されていて、その垣根を超えることは、まずほとんどと言って好いほどなかったのではないでしょうか。大きな手が、阻止していたのです。それなのに、その手が引っ込められてしまっているかのように感じてなりません。島根県の西、山口県に隣接するところに、「津和野」という町があります。「小京都」と言われる街並みで名を馳せていますが、今夏は、その豪雨のニュースで有名になった町です。ほとんどニュースになったことのない町なのですが。

気象異常だけではなく、日本やアメリカやヨーロッパ諸国からのニュースを聞きますと、「発砲事件」、「殺人事件」が多発して、人心が乱れて、待ったり我慢したりできない現代人と特徴のように思えてなりません。「人の愛が冷えている 」のでしょうか。それが間接的な原因で、自然界の正常な運行を狂わせてしまっているようにも思えるのです。

静かな秋に、「木枯らしが吹き始めました!」とニュースを聞いた途端の「台風襲来」の衝撃のニュースでした。「最大瞬間風速105m」とは想像を絶する勢力です。ここも日本も、間もなく冬になりますが、どなたも来年が心配になってきているのではないでしょうか。ただ、受けるだけで、人間の強い願いも思いも、自然の猛威を防ぐためには、どうすることもできません。自然の力の前に平伏する以外にないのでしょうか。「恐ろしさのあまり気を失う」ようなことにならないように願う、悲しいニュースが、フィリピンから伝えられている十一月の中旬です。被災者のみなさんの健康と、被災地の復興をこの華南の空の下からお祈りいたします。

(写真は、「台風」の衛生写真です)

『ニッポンって好いなあ!』

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亡くなった父の名前が、「むねはる」でした。伊達政宗の「宗」を一字をもらています。その名前は、私たちへのメッセージでもあったのです。『男の子は<胸を張って>生きるんだぞ!』と、父のことを思う時に、そう語りかけられて育ったのです。それは、『誇りを持って生きるんだ!』 と言っているのです。『俺は金は残さないが、教育だけ受けさせてやる。あとは自分で生きていけ!』と常々言っていました。学校を出て、母校の教師の紹介で勤め始めた職場の長の家に、『一緒に挨拶に行こう!』と父が言って、一緒に出掛けたことがありました。父の力をかりずに、生き始めた私を、この方に任せたかったのです。父親って、そんなものなのかと思ったりしたのです。

関西圏の「大阪テレビ」で制作し、全国で放映されている番組に、「和風総本家」があります。日本の「誇るもの」、物や技術や精神を取材し、クイズ形式で進行して行くもので、とても興味深い番組です。番組のはじめに「豆助」という子犬の柴犬が、磨き上げた木板の廊下を滑りながらやってくる場面があります。仕草や表情が可愛くて、この豆助は人気者なのだそうです。時々、世界で使われている「日本製品」を追って、世界の街を取材のために出かけたりしていて、使い手の感謝、製作し提供する人たちの誇りと喜びの交流があって、感銘が与えられます。

また、毎回、「旬の魚」や「野菜」などが紹介され、その名の由来が語られ、国語の勉強にもなるのです。この場面が終わろうとするところで、『 ニッポンって好いなあ!』と感嘆する言葉が織り込まれています。それを聞きますと、『日本には、世界に誇るものがあるんだ!自信を持って生きて行くんだぞ!』と言われているように感じてしまうのです。もう一仕事やり終えて、第二の人生を生きている私ですが、青年たちが聞くように聞こえてくるのです。

先日、文化勲章を受けた高倉健が、『日本人に生まれて、本当によかったと、きょう思いました。』と、記者会見で語っていました。良いにつけ、そうでないにしても、この国に生まれ育ったことを感謝しているのでしょう。自分を産んでくれた父母の生まれ育った国ですし、二人の兄と一人の弟、さらに家内も、私たちに与えられた四人の子どもたちが生まれた国であるのです。偏屈で、独善的な愛国心は欲しくはありませんが、「母国への思い」を持つことは好いことではないでしょうか。野望が砕かれて、滅びそうになった時に、かつての敵国から多くの物資が寄贈されました。兄や弟や私も、「ララ物資」の「粉末ミルク」で育った世代です。美味しくはなかったのですが、あれで「背骨」が育ったのだと思い返しています。

決して自分だけで生きてきたのではありません。そんなことを考えながら、『日本って好いなあ!』、『日本人に生まれて好かった!』と言いたい気持ちの今朝です。

(写真は、葛飾北斎の「富嶽三十六景」です)