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7月に、大雨の被害を受けた広島県呉市、その市内にある「灰ケ峰」に咲く花が、昨日、送信されてまいりました。「ヤマシロギク」です。初秋を告げる花で、里山には、一歩一歩と、秋が近づいて来ているのですね。ここ華南の灼熱の街では、まだ思うことも、感じることもできない秋が、故国の里山には来てる知らせに、心なしか喜びを感じます(HP「里山を歩こう」からの配信です)。
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イタリヤ人やスペイン人の気質を、“ラテン気質”と言うのでしょうか 、実に開放的で明るいのです。それに比べて日本人は、ネクラ(根暗)で、感傷的だと言われています。それで、かつての日本の農村は貧しくて、閉鎖的で、暗い雰囲気が強かったと、歴史で学びました。教科書や文学が、そう言った様子を強調したからなのでしょうか。
そう聞いていて、「阿波踊り」の様子を映像でみると、実に躍動的で、ユーモラスで、開放的なのに驚かされてしまうのです。暑さを吹き飛ばそうと、夏の行事が行われてきたのでしょう。普通、秋の収穫を祝う行事が多いのに、暑気払いのために、踊り狂っている様子に驚かされてきました。今では全国区で、東京の阿佐ヶ谷でも踊られている様です。
農村に住む人たちが、鬱憤やしがらみや貧しさや恥ずかしさを追い払おうとする、強烈な息吹が感じられて仕方がないのです。土佐の高知の「よさこい踊り」を踊る子どもたちを撮った写真を見た時も驚いたのです。“はにかみ屋”の日本人が、あんなに喜び踊るのは意外でならないのです。
そうしますと、普段は、恥ずかしがり屋で自己表現が上手でないのに、そう言った引っ込み思案の気質から解放されれる時や場面を、実は日本人は持っていて、それを全身で表現できる、しかも美しく演じられる民族なのだと、改めて感心するのです。
大阪府立の登美丘高校が演じた、話題の“バブリー・ダンス”を、動画サイトで、どんなものか興味津々で観たことがありました。“ブロードウエイ”の劇場で演じられるダンス以上に溌溂で、躍動的な踊りに、これもびっくり仰天してしまったのです。自分たちの高校時代に比べて、信じられないような全身を使った演舞には、”ラテン系日本人“を感じて、度肝を抜かれてしまいました。
そのダンスを、世界が注目したのです。そして、「阿波踊り」や「よさこい踊り」も、強い関心を、欧米人が示しているそうです。日本人の血の中に、そういった恥ずかしがらない開放的な素質があるのを知って、きっと東アジアのみなさんは、羨ましく感じておいででしょう。抑圧や規則やしがらみに縛られていない日本人の生き方に、拍手と喝采を、私は送りたいのです。
何時でしたか、スペインかポルトガルで、トマトの収穫期に、トマトを投げ合って、町中が真っ赤になる映像を観たことがありました。大好きで、毎日、トマトを欠かさずに食べ続けている私は、“モッタイナイ”と観て思ったのです。でも嬉々として、溌溂として、喜びに溢れて、“モッタイナイ”をしている顔を見て、やって見たくなってしまいました。
暑さを吹き飛ばすには、空調の中にいるよりは、全身で心を露出して、注ぎ出したほうが健康的で好いのでしょう。イスラエル人は、収穫されたブドウを踏んで、ぶどう酒作りをするのですが、娘たちは、その酒舟の中で、喜び踊ると聴いたことがあります。夕刻になると、この街の辻々で、音楽を流しながら、ご婦人たちがチームでダンスに興じています。まるで娘の様に、すまし顔になっておいでです。
(「よさこい踊」を舞う子どもたちです)
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「戦災孤児」が、日本には12・3万人もいたと言われています。大陸には、「残留孤児」がいて、戦争と戦災によって、様々な理由で両親をなくした子が、戦後を生き抜いて来ています。私は終戦の時には、前年の年末に生まれていたので、まだ歩けない8ヶ月でした。兄たちは、戦災孤児にも残留孤児にもなり得た世代でした。
父は、奉天(今の瀋陽です)や京城(今のソウルです)で、仕事をしていましたが、軍務で呼び戻されて、中部山岳にあった、軍用飛行機の防弾ガラスの原料になる「石英」を採掘する軍需工場に勤務中に、終戦を迎えています。ですから、大陸で終戦を迎えることがありませんでした。
日本全体が、“一億総ひもじい時代”でした。そんな中、父は、私たち四人の子どもを飢えさせずに育ててくれたのです。1950年代の初めに、四人の将来を考えた父は、東京に家を買って、自分の育った東京に戻ったのです。私の世代には、戦争で父親を亡くした、母子家庭の同級生がクラスの中に、何人もいました。恵まれた子もいれば、ごく貧しい同級生もいました。
戦災によって、焼き出され、親と死に別れたた孤児は、新宿でも上野でも、よく見かけました。自分だって、そうなり得たと思うと、恵まれた自分が、こそば痒く感じたのを覚えています。そんな孤児が、逞しく生きていたのです。有名なのは、「火垂るの墓」の野坂昭如氏、落語家に三平の奥さんの海老名香葉子さんですが、無名の12万もの孤児がいたわけです。
また、傷痍軍人(しょうい)が、駅頭や電車の車内で、白い小箱を前に出して、募金をしている光景も覚えています。アコーデオンを弾いたり、義手や義足で傷害を負われたのを訴えたりしながら、戦後、生きる努力をされていました。大陸の大連に、残留孤児に施設があって、その当時撮影した写真を見たことがあります。
その他にも、占領軍の兵士によって生まれ、捨てられた私生児のお世話を、沢田美喜さんがしておられたと、新聞のニュースで読んだことがありました。家庭が壊れ、食料と肉親の愛に飢えた世代があったことを、「終戦の日」の朝、私たちは覚えておきたいのです。素晴らしいのは、どんな境遇の中でも、人は逞しく生きられるように、造られていることです。
(戦後間もない頃の街中を移した写真です)
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石川啄木は、自分の故郷である、岩手県の渋民村(現在の盛岡市)を思いながら、
「ふるさとの山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」と詠みました。
室生犀星は、複雑な家庭の事情で故郷を後にして上京し、久々に故郷金沢に帰った時に、
「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの よしや うらぶれて異土の乞食となるとても 帰るところにあるまじや」と詠みました。故郷を思う想いも様々なようです。
作詞が伊野上のぼる、作曲がキダ・タロー、歌が北原謙二で、「ふるさとのはなしをしよう」がありました。1965年に発表された、「昭和の歌」です。
砂山に さわぐ潮風
かつお舟 はいる浜辺の
夕焼けが 海をいろどる
きみの知らない ぼくのふるさと
ふるさとの はなしをしよう
鳴る花火 ならぶ夜店に
縁日の まちのともしび
下町の 夜が匂うよ
きみが生まれた きみのふるさと
ふるさとの はなしをしよう
今頃は 丘の畑に
桃の実が 赤くなるころ
遠い日の 夢の数々
ぼくは知りたい きみのふるさと
ふるさとの はなしをしよう
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海辺の村、下町、桃畑の丘のある村を歌って、望郷の思いが駆り立てられた歌で、よく聴いた歌です。自分の山の中の村、夏の日が強く照りつけていたのを、まざまざと思い出させてくれる 歌です。誰にも、「原風景」があり、『ここが俺の故郷だ!』と思う村や街があるのでしょう。胸がキューンとするのが、「故郷」です。
”ペペ・ル・モコ”と言う主人公の「望郷」と言う、戦前のフランス映画がありました。パリから北アフリカの街、アルジェ(アルジェリアの首都)に逃亡した犯罪者を、ジャン・ギャバンが演じていました。何度も何度も観た映画でした。アメリカ映画とは違ったものが、フランスの映画にはあって新鮮でした。この名優ジャン・ギャバンよりも長く生きている異国の異時代の自分を思うと、映画と言う創作の世界の出来事や望郷の思いが、現実のように思い出されてまいります。
帰りたいのに、帰れない事情があったりで、悲喜交々(ひきこもごも)、故郷には、様々なことがあるのでしょう。この街にも、電車もバスもない時代、遠い村から、学びや働きにやって来られた方、一旗上げたくて住み始めた方たちの様々な思いが積まれた街なのです。アモイも、海外に職を求めて出掛けた数限りない「華僑」の故郷の街であることを、ホテルの窓から海や島影を眺めて感じていました。
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帰国時も、こちらで生活していても、観ることがないのはテレビです。そんな私ですが、泊まったホテルのテレビ案内に、<NHK視聴可>とありました。それで、スイッチを入れたのです。同時刻放映ではなのでしょうけど、「10代の君へ(広島放送局政策)」が放映されていました。きっと、原爆投下記念日に放映されたものではないでしょうか。
その番組で、被爆体験をされた4人の方の「手紙」や手記をもとに、大学生グループなどのアニメーション作品が、紹介されていました。ほのかな恋心を覚えていた級友が、亡くなっていく様子を、一人のおじいちゃんが回顧したり、また東北大震災の被災者で、愛する家族を亡くされた方の体験と重ねたものなどがありました。
色褪せることのない生々しい体験に、被爆後の日本を生きてきた方が、それぞれに語り、記していました。私は、山梨県の山岳地帯で生まれたのですが、甲府も原爆投下の候補地であったと聞いたことがあります。また、広島に投下される前に、どういう情報入手経路があったのか、『広島を離れる様に!』との勧告が伝えられていたという話も聞いたことがありました。
『戦争を止めさせるのに、やむなく投下した!』と言う、投下決断を下したのが、時のアメリカ合衆国の大統領のトルーマンだったのです。原爆投下反対の立場をとっていた、極東の最高司令官であったマッカーサーへの打診や相談なしに決断した様です。後に大統領になるアイゼンハウアーも投下に反対でした。
結局、長崎と広島に原爆が投下され、被爆死者と、後遺症を負われる被爆者が出たのです。広島市内の小学校(市立大芝小学校でしょうか)に、樹齢九十年の柳の木があります。この柳が、番組で紹介されていたのですが、今も青々と葉をつけている映像が見られました。焦土と化した土地から、生命の再生はないと思われていたのですが、翌春、柳の枝に芽が出て、葉をつけ、今日に至るまで命を輝かし続けているのです。
被爆者の子でいらっしゃる被爆二世も、大勢おいでです。プロ野球で活躍した張本勲氏も、大相撲の千代の富士も、その一人だと聞いています。平和ほど求められて、裏切られ続けた願いは他にありません。人は、過去に学ばないからでしょうか。この番組を観て、わが子、わが孫に、平和な時と国を残したいものだと、改めて願った週末でした。
(大芝小学校の生き残った柳の木です)
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昨日から、中国の南、福建省の"アモイ(厦门xiamen)"に滞在しています。ビザの滞在要求事項で、3ヶ月に一度、国外に出なければならないので、中国版の新幹線("动车donche"と呼ばれています)に乗って、ここに来ました。"五通码头wutongmatou"の港から、アモイと金門島間を就航してる「和平之星」に乗って、金門島に着いたのです。
そこで、いつもの様に昼食に、"牛肉面niuroumian"を食べて、その足で、アモイに戻り、税関手続きを終えました。今回は、家内の誕生祝いと、在華12周年を記念して、ちょっと奮発したのです。結婚式の後、すぐ上の兄が、泊まれる様にセットしてくれた、「東京ヒルトンホテル」以降、二回目の《五つ星ホテル》に投宿しました。市内の中心部の海浜に位置している日系ホテルです。
けっこう家内は満足しています。これまでの中国での生活を、様々な場面を思い出しています。来ました当初、まだまだ、ここ中国は開発途上でした。その後、目覚ましく更なる発展を見せて、それには驚くばかりです。「改革開放」を掲げた鄧小平氏が力を入れた街の一つが、このアモイでした。かつて、"コロンス島(鼓浪屿)"に、欧米諸国の領事館があった街だったのです。l"ウイキペディア"に、次の様にあります。
『福建華僑のふるさとの街としても知られ、19世紀から世界各地の華僑の増加に伴い、「アモイ (Amoy)」の名で国際的に知られた。廈門の古い地名「下門」は、閩南語の漳州方言では白話字 (POJ) ローマ字表記で Ē-mûi と書くようにエームイと発音され(廈門方言と泉州方言では Ē-mn̂g エームン)、これがアモイに転じたと思われる。』とあります。
台湾との交流が深く、台湾語は、この地域の"闽南话minnanhua"と同じで、文化的にも民族的にも同じルーツを持っています。私たちが初めて、この街にやって来たのは、2007年でした。ちょうど、マラソン世界大会が行われる時期で、その準備に余念がありませんでした。シンガポールやホノルルに、ちょっと似た感じがしたのです。
この年月は、この国にやって来て、好い人たちと出会い、多くの友人を得ることができ、この街にも、懇意にしている方たちが与えられた日々でした。もうしばらく、友人の要請に従って、こちらに滞在させてもらおうと再決心したところです。友人の会社の顧問をしながら、生活をしており、私たちにとっては、《第二のふるさと》であって、まさに"习惯了xiguanle/日本語では『慣れました』"です。感謝しつつ。
(コロンス島からのアモイの街の発展した様子です)
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酷暑のせいでしょうか、七日の「立秋」を忘れていました。日の光が、心なしか、秋めいてきているのでしょうか。きっと、秋の訪れへの願いが、そう言う風に感じさせているのかも知れません。ここは、『♭カナカナ、カナカナ♯』と“蜩(ひぐらし)“の鳴く声を聞くことがありません。
でも、何年か前に、避暑地で、今再び開発されている、街の北の山の峰に行った時、夕暮れに、蜩を聞いたのです。これを聞くと、さしもの一日の暑さが一段落した様に感じられたのです。赤とんぼも飛び始めているのでしょうか。きっと、暑くて空調の効いた室内のいる時間が多くて、外出が少ないから気付かないのかも知れません。
今日は、次男の婚礼で一時帰国して、こちらに戻ってから、3ヶ月が経ちましたので、ビサの必要条件を満たすために、金門島に出かける予定でいます。昨晩は、知人宅に招かれて、ご子息とお姉様のご子息二人の誕生会を兼ねた食事会で、共に過ごしたのです。好い時でした。
今月は、私の家族でも、3人が誕生日なのです。ずいぶんと暑い時期の生まれたわけです。母親は大変だったことでしょう。新しい台風が、またフィリピン付近で発生して北上している様です。今年は台風の当たり年になっているのでしょうか。被害の少ないことを、切に願っています。
またインドネシアで、大きな地震が発生し、多くの犠牲者があった模様です。捜索や復旧が必要です。暑さの中ですから、健康被害が少ない様に願っております。こちらに来たばかりの時に、大学の語学学院の同級生の中に、四、五人のインドネシアから来ていた方がおいででした。一緒に親睦会をしたり、食事に招いたりしました。もう帰国されて、ご活躍されておいででしょう。ご無事を願っております。
(ジャカルタの風景です)
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