人様々

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「人様々」、世の中は多様です。驚いたのは、下着を裏返しに着る人がいることです。誰にも見えないのですが、普通の人は、縫い目が見えない様に、表向きにして着ます。ところが、縫い目や縫いひろが、体に触るのが不快だとして、裏返しに着るのだそうです。敏感過ぎるのでしょうか。

また、人に見えないのだからと言って、下着に気を使わない人もいます。破れていても、シミがついていても、どうでもいいのです。でも、怪我をして、服を脱がなければならない時に、恥ずかしい思いをしたくなくて、まさかの時を想定しつつ、身嗜み(みだしなみ)に、下着まで注意深く気配りをする人もいます。人様々なのです。

私の父は、下着も靴下もワイシャツも靴も背広も、自分で買い、自分で管理していました。恰幅(かっぷく)が良かったので、体に合う様に、ある物は注文して、誂(あつら)えで作ってもらっていました。着終えると、きちっと母に洗濯させて畳ませ、ある物はクリーニングに出させて、タンスに整頓して入れていました。靴も三足ほどで、いつもピカピカに磨き上げて履いていました。無精髭などを生やしていたのを見たことがありません。

タンスや引き出しは、上下をはっきりして、着る順序も決めていました。多く持っていませんでした。そんな父は、ワイシャツの襟や袖口が薄くなると、襟や袖を外して、生地を裏返しにして着られる様に、母に繕わせていました。母も器用でした。ですから実に、物を大切にし、几帳面(きちょうめん)な父でした。ずいぶん厳しく躾けられたと、父が言っていましたから、そのせいでしょう。軍人の家庭でした。

でも自分の几帳面さを、子どもたちに要求しませんでした。この私は、思い立つと整理整頓するのですが、本でも下着でも、所定の場所に納めずに、時折、積んで置くままにしてしまうのです。それでも引き出しやタンスの中は、きちんと整理してあり、どこに何があるかが分かる様にしてあります。父の物入れが、そうだったからです。父に比べると、ずいぶん杜撰(ずさん)で、乱雑な自分を恥じます。人様々なのです。

今住んでいる小区は、実にきちんと整備されています。インドネシアの華僑の方が社長で、売り出した、数千所帯の規模のマンション群で、一人の資産としては驚くほどのものです。その管理のさせ方が、厳しく決められていて、夕方には、音楽が流れ、以前は、“ベッサメムーチョ”が聞こえたりしていました。社長さんは、先月高齢で召されたそうです。

ですから、ここは、この省で、管理の評価が、第2位なのだそうです。こんな高級住宅に中に、留学中の大家さんの留守を、私たちは住まわせてもらっているのです。ここにも様々な生き方、在り方、付き合い方があって興味津々です。これまでの様に、近所の付き合いが近しくなく、ほとんど言葉を交わすこともないのです。前の小区は、庶民的でしたので、物のやり取りもあったりでしたから、今は、ちょっと寂しい感じです。

まあ「住めば都」、酷暑の華南の街を、汗を流しながら過ごしております。それにしても、夏休み、子どもの声がしないのです。両親の故郷に帰っているのか、旅行をしているのか、はたまた暑過ぎるから、家の中にいるのでょうか。これも、それも、あれも人様々なのです。

肥後

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阿蘇山の近くに住む友人を訪ねた時、そこに滞在していたある夜、『今晩咲きますから、ぜひ観に来てください!』と、ある方が迎えに来てくださって、出掛けたことがありました。十数年前のこの時季だったのです。年に一度(ある花は3〜4度ほど咲くそうです)、しかも夜九時過ぎに開き、午前零時にはしぼんでしまうのだそうす。その花が、「月下美人」でした。

そんな花の神秘さに触れて、その夜、私は大いに興奮してしまいました。この様な花の一つほど飾ることのできない私なのに、花を見て感動することができるのは、生かされている人の特権だと思ったのです。これこそ、「目の喜び」と言うのでしょうか。また、阿蘇の外輪の美しさにも魅了され、本州の山の様に、急峻でないなだらかさが新鮮でした。肥後を唄った童謡があります。

あんたがたどこさ 肥後(ひご)さ
肥後どこさ 熊本さ 
熊本どこさ せんばさ
せんば山には たぬきがおってさ
それをりょうしが 鉄砲(てっぽ)で打ってさ
にてさ 焼いてさ 食ってさ
それを木の葉で チョッとかぶせ

加藤清正が築城した熊本城も、巨石が美しく堅固に積み重ねられ、その城壁の石の曲線が、何とも言えず美しいのです。昨年、この同じ友人を訪ねて、地震後の熊本城に連れて行ってもらいました。地震の爪痕は、城壁にも見られ、復元工事が丁寧に行われていました。前の様な雄姿を再び見たいものです。被災された多くの方々の精神的な痛手は、まだ大きなものが残っておいでだそうです。その恢復も求められています。

この肥後熊本は、海の中に点在する天草諸島も、実に美しいのです。私の恩師が、半年ほど、熊本においでになっていたことがありました。そこを家内と友人夫妻とで訪ねたことがあったのです。まだ四十代の恩師でした。清い白川の流れの渓谷に足を浸して、真夏の岩陰で、涼を楽しんだことも、恩師との語らいも思い出されます。もう45、6年も前になります。

また、「だご汁」と言う、伝統の郷土料理、水団(すいとん)が美味しかったのです。狸は食べませんでしたが、ここのもう一つの名物は、「馬刺し」で、これも美味しいのです。あの時、最初の訪問で出会った中学生、高校生の若者たちも、今や、退職年齢に達していると、昨年の訪問時に聞いて、驚いてしまいました。歳月の過ぎ行く早さに、自分の年を重ねてみました。

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冷やし中華

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おはようございます。今朝のベランダは、28℃、暑い一日が予想されますが、このところ朝は、ちょっと涼しさを感じられています。伊豆諸島をを北上している台風13号は、やがて熱帯低気圧になりそうですが、大雨の被害をもたらしそうです。昨夕は、お母さんと、この秋から、日本の大学院で学ぼうとしている青年が来られました。『先日、ご馳走になった"冷やし中華"を、また食べたくなったので、お邪魔していいですか?』とのことで、来宅されたのです。

お母さんと息子と家内で、いつもの食材で、一緒に作っていました。お母様は、ご自分の故郷で、彼のおじいちゃんが、引き潮の時に、やって来た孫兵衛に食べさせようと、朝早く獲った、小粒の巻貝を調理して持ってきてくれました。夏場だけの故郷の味覚何だそうで、これが美味しいのです。楊枝で上手に巻き取って、話をしながら食べるにが好いのだそうです。

私の父の故郷も、海浜でしたが、漁村から軍港に変わってしまいましたし、父は孫兵衛の私たちを連れて、帰郷することがなかったのです。夏休みに田舎に帰る、という経験がありませんでした。当時の日本は、そんな時間的、経済的ゆとりのある時代ではなかったのですが。

ですから三浦半島突端の海の味覚が、何か知らないのです。きっと、鯵の小魚や貝などが、ちょっと軍港から外れると、穫れたに違いありません。父の青年期に亡くなった祖父を知らないのですが、もし元気だったら、四人の男の子を連れて行ってくれたかも知れません。

かくいう私も、孫兵衛が遊びに行けない、大陸にいますので、母方の故郷に帰っている様です。"実家"がないのは、子どもたちにも、孫たちにも物足りないことでしょう。今朝は、朝顔が、今季最高数の6個咲いています。一本の蔓に大賑わいです。好い一日をお過ごしください。"冷やし中華"と呼ばれながらも、こちらにない中華料理に、舌鼓を美味しそうに打っていました。

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女医

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『もし医者がいなかったら?』、と想定しますと、今、私は生きていないのです。そうでなければ、ずいぶん不自由な体になっていることでしょう。もし、あの肺炎が奇跡的に治っていても、両腕の肩の鍵盤を断裂してますので、手を挙げることができずに、ぶらりと下げているだけで、かろうじて、振り子の様にするなら、挙げられことができるだけでしょう。中耳炎で、切開手術をしなかったら、耳は聞こえなくなっていたでしょうし、鼓膜も破れてしまったので、聴力が劣ろえていたことでしょう。

医学の力によって、この年まで生きてこれたのを実感しています。昔、《医は仁術》と言われ、憐れみが社会の中に満ち溢れていたそうです。私は医者に助けられて生きてきた割りには、医者になりたいと思ったことがありません。でも、心の医術ならしてみたいと思ったのです。自分に術があるのではないですが、《善き医者》を紹介することならできます。

日本に近代西洋医学をもたらした人に、シーボルトというドイツの医師がいました。1822年に来日し、長崎の出島に「鳴龍塾」を開き、多くの日本人に、医学を教えた功績は実に大きなものがありました。教え子に、高野長英、二宮敬作、伊東玄朴らいがいます。伊藤の養子は、明治天皇の侍医、その孫は、昭和天皇の最後を看取った侍医でした。

このシーボルトは、来日初期に、楠本滝と結婚し、イネと言う娘がいました。イネは、日独混血でしたので、偏見からいじめを受けます。それにめげず、医学を学び、日本最初の西洋医学医、産科医となって、明治期に医学会で活躍した、誇り高き才女・女性医師でした。

いまだに、日本の社会は、女性軽視、差別、蔑視をするのです。先進諸国の間では、女性が、どの分野でも多く登用されない稀な国です。出産するから、生理があるからでしょうか。でも、上は大臣から、下は私まで、みんな母の子宮に宿って、産道を経て産まれたではありませんか。

どうして大相撲の土俵に、女性は上がってはいけないのでしょうか。高校野球で、バッターボックスに、女性部長は立っったら、どうして叱られなければならないのでしょうか。日本神話の天照大神は、女神ではないでしょうか。大英帝国では、国民の上に、「女王」を戴いているではありませんか。威張っていたヒトラーもムッソリーニもスターリンも、みんなお母さんに頭も上がらない子どもでした。

(長崎の出島の図です)

アオノリュウゼツラン

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この「アオノリュウゼツラン」は、数十年に一度、黄色の花を咲かせるのだそうです。上の写真は、ポルトガルの海岸で咲く様子を写したものです(☞ウイキメディア)。人の一生に一度か二度しか見られないと言う花は、何とも神秘的ですね。私も、『一度は、美しく花開いて見たいものだ!』と思いながら、今日まで生きて来ました。大輪でなくとも、薔薇の様に艶やかでなくても、スミレの様に愛くるしくなくとも、そしてクチナシの様に芳香を放たなくとも好いのです。ただ、天に向かって黙々と、健気に咲く、《野の花の如く》生きたいだけです。

私の愛読書に、『明日は明日自身が思い煩うであろう!』とあるのです。「杞憂(きゆう)」と言う言葉を、中学の時に学んだことがありました。“故事成語の解説“に、次の様にあります。

『昔々中国にあった杞(き)という国がありました。紀元前の周の時代、今の河南省杞県にあった国です。この国にある男がいて、天地が崩れ落ちてきて住む場所もなくなったらどうしようとひどく心配していました。この男、心配のあまり食欲を失い不眠症になってしまいました。この男を心配する人がいて、こう言ってきかせました。

「天とは空気が集まっているところだ。空気のない場所などない。われらの動作や呼吸はまさに天において行っているものだ。天の崩壊など心配する必要はまったくない」

すると心配性の男が「天が空気でできているとしても太陽や月や星は落ちてこないだろうか?」
「太陽や月や星はその空気の積もった中で光っているだけだ。落ちてきてもそれにぶつかってケガをすることはないさ」
「では地が崩れたらどうなるんだ?」
「地は土が積み重なっているだけだ。それが四方を埋めつくし、土のないところなどない。われらは歩き回り、終日この地の上で動いている。地が崩れる心配をするなんて必要ないさ」

この話を聞いて心配性の男は心配が消え大いに喜びました。さとした男もまた心配が消え大喜びしました。」』

とあります。確かに、暑い日が続き、願っている降雨もなく、台風が次々に発生して被害を与え、地震がそこかしこで起こり、人心も乱れ、人の愛が冷えている現代、ちょっと心配なことが多いのです。でも、まだ起こりもしない先に、明日の病気、怪我、失敗、躓き、悪意などを恐れているよりも、今日を精一杯生きることが求められているのでしょう。明日のことは、明日に心配してもらうのが、好い様ですね。

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朝顔

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今朝のベランダの寒暖計は、28°Cを示しており、今日の最高気温予報は、38°Cとのことです。天気予報のイラストに、雨のマークが雲の下にありますので、雨が降るかも知れません。ただ先週金曜日あたりから、ずっと「雨」の予報があったのですが、ここでは降りませんでした。

ある予報には、「体感温度」も記されていて、今現在は、「体感温度36°C」とありますが、それほどではなく、ちょっと涼風が吹いています。高温の猛威が、世界中に荒れ狂っています。体調管理をして、過ごそうと思っております。

ベランダでは二輪の「朝顔」が咲きました。好い一日をお過ごしください。

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人類は滅びる

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”ZAKZAK“に、次の様な記事がありました。共鳴しましたので、無許可ですが転載します。
★生物学者・池田清彦さん『ほどほどのすすめ』さくら舎1400円+税
 いいことも悪いことも、ほどほどにしておくのがベターであり、なんでも大きくなりすぎるとつぶれてしまうし、強くなり過ぎれば滅びの日が近くなる…と説く生物学者。その真意を確かめようと、東京・高尾山の麓にある「TAKAO599MUSEUM」(旧・高尾自然科学博物館)で名誉館長を務める著者を訪ねた。(文・たからしげる 写真・早坂洋祐)

 --執筆の動機は
 「いまの日本は、だれかが右にいったら、みんなもドドーッと右にいき、左にいけば、だれもがドドーッと左にいくといった感じが強く、多様性がまるでないんですね。もっと余裕をもって、世界というか周りを眺めることが必要だと思ったのがきっかけです」 
 「“いい加減”や“適当”に比べると“ほどほど”っていうのはそんなに悪い言葉じゃありませんし。政治や経済のことから、あるいは身辺まわりのことまで、ほどほどというテーマに沿って、思いついたことを並べています」
 --ほどほどのよさに気がついた最初は
 「昔からぼくはいい加減で、勉強もあまりしませんでしたが、虫取りを始めて外国によく行くようになりました。特に東南アジアに行くと、日本人みたいにまじめに働いている人はあまりいないんです。それでも結構楽しそうに暮らしている。働いてお金を稼ぐばかりが幸せじゃないよねと、そのとき気がつきました。それからは、大好きな虫取りと、これはという大事な本を書くとき以外は、すべてほどほどで生きてきています」
--著書には日本が将来、クラッシュの危機に遭遇すると
 「それを避けるには人口を減らすことです。それと、安い労働力として海外から人を入れることはやめたほうがいいでしょう。フランス、ドイツ、イギリスも、移民を入れたことで国がぐちゃぐちゃになっています」
 「企業はいくら儲かっても、国民は幸福になれません。いまは少子高齢化が叫ばれていますが、あと20年もすれば高齢者はみんな死んでいなくなるわけです。その時点を見つめてのシステムを、しっかり考えておくべきでしょう」
 --このままでいけば日本は…
 「最悪の場合は、円が暴落、物価が高騰して、敗戦後の日本みたいになってしまう。金持ちはみんな海外に逃げていって、残された貧乏人ばかりの国になってしまうでしょう。独裁権力が生き残れるような憲法ができてしまうと、いまの自由主義の看板が外されて北朝鮮みたいな独裁国家にもなりかねません。法律も憲法も改正とか考えないで、ほどほどにしておいたほうがいいってことです」
 --人類は滅びると
 「人類はたぶん滅ぶだろうし、防ぐ手立てはないと思うんですけど、真面目な論者が言っているような、人間が環境を破壊して人口が爆発して、資源や食糧が枯渇して核戦争が起きて滅びるといったシナリオにはならないでしょう。そんなことで人類は滅びません。たとえ核戦争が起きても局地的なものにとどまって、人類全滅にまでは至らない。それより怖いのは、地球規模の自然災害でしょう。いちばん怖いのは火山の大噴火と隕石落下ですね。あと
--SNSのマイナス面の克服にも言及されている
 「変なジャンクの情報とか、人を中傷誹謗する配信が増えてくると、それで傷つく人がいっぱい出てくるわけです。何を言われても平気な、頭の頑丈な人になればいい。むちゃくちゃ言われても、ほどほどに聞き流すか、無視して通せばいいんです」
 --人間が昆虫の世界に学ぶものは
 「昆虫は、資源をみんなでシェアします。人間は何でもかんでも食べますが、昆虫は、たとえばモンショロチョウはアブラナ科の植物以外は食べません。ほかのものを食べれば死ぬというわけじゃないんですが、分をわきまえています。だから、チョウ全体の食糧が枯渇しないんですよ。人間も見習うべきですね」
 ■内容
 この世は「矛盾繰り込みシステム」であり、どんなに矛盾を排除しようとしても、それはできない相談だ。生きていること自体、そうした巨大な矛盾を繰り込むシステムなのだ。「この先何が起きるかわからないが、そのときはそのときだ」と腹をくくって、今日を楽しむ生き方のほうが幸福感は高くなる。生きていくことは常に危険と隣り合わせで、予測などできない。予測不可能だから面白い。そうした「この世を幸せに生きるためのほどほどの策」の集大成。
■池田清彦(いけだ・きよひこ)
 1947年、東京都生まれ。生物学者。71歳。早稲田大学名誉教授。東京教育大学理学部卒業。東京都立大学大学院生物学専攻博士課程修了。構造主義生物学の見地から科学論・社会評論の執筆。趣味は昆虫採集、カミキリムシ収集家としても著名。著書に『なぜ生物に寿命はあるのか?』『この世はウソでできている』『真面目に生きると損をする』『進化論の最前線』『ウソとマコトの自然学』など多数。

(東京の郊外・八王子にある「TAKAO599MUSEUM」です)

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母三人

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《朝顔のある風景》とは、好いものです。毎朝、ベランダに出て、いくぶん涼しさを感じられるのは、花があるせいかも知れません。北側のベランダにも、小さな花が咲いています。何という花でしょうか。これは、毎年、忘れた頃に咲き出しています。今頃は、「トルコキキョウ」が綺麗に咲き始めてるのだそうです。じょじょに自然界は、秋に移ろうとしているのでしょうか。これが、せめてもの暑さの中の慰めになっている様です。

昨日は、息子さんを連れて、再来年の大学進学のために、“オープンキャンパス”や、「進学準備ゼミ」に合わせて、東京や大阪、そしてお母様の故郷と出かけて、帰られたお母様が、午前中に見えられました。《水羊羹》をお土産に頂きました。緑茶を入れて、食べた《至福の時》でした。夕食後に、九月から“小5“になる息子さんを連れて、お母様が見えました。息子さんの『行ってみたい!』との願いを叶えて上げるために、「西安(中国史で習った<長安>です)」と、「洛陽」に、家族で旅をした旅行話をしてくれました。

《好きお母様》をなさっておいでのお二人でした。子育て終了の私たちですが、様々な昔を思い出した一日でした。

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来た道

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満天の夜空に、星が煌(きらめ)いていましたから、秋になっていたでしょうか。寒かったので、枯れ草や稲穂を集めて寝床にして、そこから星空を見上げていました。刈り入れが終わっていましたから、晩秋だったでしょうか。東京の郊外は、まだ星空を見上げられたのです。

もう一箇所は、"丸通(まだヤマトの運送会社が出来る前、運送業を一手にしていた<日本通運>"の貨物の載し下ろしをする、旧国鉄の引き込み線に停めてあった貨物車の車掌室でした。横になれる様な椅子があって、ここの方が、家出した私には、草むらの藪の中より、寝心地が遥かに好かったのです。

この二回だけ、家出した晩に、涙を流しながら過ごしたことを覚えています。その他にも、何度か家出しなければならない事情があったのですが、覚えていません。可愛がられた私にも、父の鉄拳と『出て行け!』が飛んできて、やむなく寝場所を確保したのです。何をして叱られたのか、皆目覚えていませんが、それほどの目に遭うことをしたのでしょう。

あんなに切なくて、家や布団の温もりが恋しかったことはありません。お腹は空くし、今の様にペットボトルなどない時代に、喉も渇いたのです。母も、私を探す当てもない、高台の藪や列車の中ですから、『ごめんなさい!』なんて言いたくない頑固さで、小学生の私には、家に帰れない"男の事情"があって、ちょっと辛い体験の記憶なのです。

こういう経験って、男の子に普通にはあるのでしょうか。それだけ悪戯をし、父親を怒らせたのですから、当然の報いを受けたわけです。翌朝、家に帰ると、私を見つけた父は、一瞥するだけで、怒りは昨日に置いてきていました。朝食を食べて、ランドセルを背負って、下駄を履いて学校に行ったのです。『ごめん!』って、父に言ったかどうかも覚えていません。

級友からは、家出の話を聞いたこともありませんし、自分の家出も話すことはなかったのですが、みんなは、自分の様な家出の経験があったのでしょうか。怖い拳骨親爺のいない家庭が、けっこうあったので、父親(てておや)がいて、拳骨を喰らわす父親がいた自分は、三度三度食べられて、お風呂にも入れて、布団の中で寝られたのは幸せだったわけです。

戦争で親を失って、親戚に預けられたのはいいのですが、いじめられて、差別されて、耐えられずに、妹の手を引いて家出をするのですが、妹は死んでしまい、妹の骨を「ドロップス」の缶に入れて、持ち歩く兄妹の物語は、実に悲しかったですね。兄たちの世代でしょうか。

大陸で、帰国途中にのドサクサで、親と生き別れた孤児たちが、沢山いたそうです。生き延びていたら、八十、九十才台でしょうか。拳骨を喰らわせた父も、台所の昇り口で、ご飯に味噌を載せて、そっと食べさせてくれた母も逝ってしまいました。同じ様な経験をした兄たちも弟も、"男の事情"を通せない、若者に席を譲られるジジイになってしまったわけです。今は穏やかな日々を過ごしていますが、これが来た道のヒトコマです。

(埼玉県秩父の星空です)

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月亮

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5時半過ぎ、南側のベランダから見上げる南の空に、「月亮yueliang」が見られます。やはり、今日も暑そうな感じが、朝からしております。二輪のアサガオが、月に向かっているかの様に開きました。水分と塩分の補給を怠ることなく、摂って過ごして参りましょう。今日は若い友人が訪ねて下さいます。実は昨日の約束を忘れて、買い物に出かけてしまったのです。大変失礼をしてしまいました。

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