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イスラエルの国に伝わる故事に、王である父親に、弓を引いて、謀反を起こした息子の物語が残されています。息子が自分の野心を成就するためにしたことを、国民の「心を盗んだ」と、そこに記されています。
父親に相談を求めて、訪ねて来る者を、父の家の門に通じる道のそばに立って、その一人一人の訪問客を、その息子は呼ぶのです。そして、『お前はどこの町の者か?』と問い掛けます。どこの部族かを聞き出すと、今度は、『お前の訴えようとしていることは好くて、正しい。でも、王の配下には、お前の訴えを聞いてくれる能力のある器はいない!』と言って、暗に、自分には、その能力があり、その器であることを示すのです。
自分に挨拶をして、近づく者全てに、この息子は、手を差し伸べて、抱いて、口付けまでするのです。人を、<手懐ける術>に長けていた息子は、そのようにして、人の心を盗んで、自分に靡(なび)かせていったのです。どうも、そのような術策を、彼に勧めた腹心の部下がいた様です。人は、どんな人格、どんな価値観、どんな計画を持つ者を、自分の「相談者」にするかによって、成功と失敗の違いをもたらすのです。
父親は、そんな巧みな方法で、野心を遂げる息子に手出しをしませんでした。自分の街や国に混乱が起こるのを避けて、泣きながら都落ちをします。その時、父親は、かつて自分の優秀な議官であった者が、息子の<メンター/ mentor /助言者>になったことを、部下から聞くのです。この息子の助言者は、驚くほどの知恵者であったのです。父親は、『もう駄目だ!』と思ったのでしょう。でも、息子をなじることはしませんでしたが、『この助言者の語る言葉が、愚かなものになる様に!』と叫ぶのでした。
その叫びが叶うのです。息子の助言者になっていたのが、もう一人の自分の部下でした。父親は、この部下に、『あなたのお父上の議官をした方の今回の謀(はかりごと)は良くありません!』と言わせるのです。息子は、その助言を聞いてしまうのです。結局、この策謀が成功してしまいます。自分の進言が取り上げられないことを知った、智者は、家を整理し、故郷に帰って、自殺をしてしまったのです。
正しくない心を持つ助言者の末路は哀れです。結局、父は、息子を討ち取ることになります。その死んでしまった息子の亡骸を抱いた父親の嘆きは、人並みではなかったのです。戦乱の世とは、実に大変な時であるのですね。この父親のことが、次の様に書き残されています。『すべての国民を、あたかも一人の人の心の様に、自分に靡かせた!』とです。
私たちの国の政治指導者が、どんな助言者をもっていたのか、また、どんな財政的な援助者がいたのかが露呈して、この「故事」を思い出しました。指導的な立場の人が、どんな助言者、メンターを持ち、どんな進言や助言、試案に耳を傾けるのか、興味津々で見守っていきたいと、思わされています。願わくば、人や祖国への愛とか優しさとか、公正さとか正直さを持つ助言者を、持たれるように、心から願うものです。そして、わたしたちも、どのようなメンター(忠告者)を持ち、どんな忠告や進言や術策に耳を傾けるかは、とても大切なことであります。そして、「良き友」を持つことです。彼こそはメンターとなりうる人だからです。
( “ キリスト教クリップアート“ のイラストです)
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