春の背筋

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「春の背筋と歩幅」と、ある新聞が、昨年の今頃、記していました。とても素晴らしい表現だと感心してしまったのです。と言うのは、真冬に、道行く人の背筋は丸く縮まり、歩幅は小さいのですが、どんなに寒さがぶり返してきても、春の声を聞くと、道行く人の背筋はピンと伸び、歩幅も大きくなるのでしょうか。『春だ!』との思いが、冬の防御的な生き方を終わらせ、期待感や喜びをもたらす生き方に変わっていくからでしょうか。

これを書いた新聞記者の方が、「米原駅」での経験を添えて記していました。この駅は、在来の東海道本線と東海道新幹線、そして北陸本線の乗り継ぎ駅で、太平洋側に出掛けた方が、北陸の街に帰って行くために乗り換える駅なのです。人生の<交差点>とも言えるでしょうか。この方は、金沢に帰ろうとして、北陸本線に乗り込む前に、駅弁を買ったのです。その様子を見ていた、ある人が、『北陸の人だね。』と声をかけたのだそうです。雪国の人は、雪が少ない米原の駅でも、背筋を丸め、狭い歩幅で歩くといった特徴を見破られたのです。

私の最初の職場に、九州の熊本から出て来て、東京の警視庁で警察官をしながら、夜間の大学で法学を学んだ方がいました。警察学校で、警察官の基礎を学んだ事を、話してくれた事がありました。例えば、「犯罪者の特徴」についてですが、挙動、立ち居振る舞い、目の動きなどによって、犯罪性や疚(やま)しさを見破るのだそうです。

熟練した刑事が、東京や大阪の繁華街で、道行く人を、そんな眼で眺めているのです。時々、指名手配中の容疑者を、群衆の中に見つけたりすると聞いた事があります。また職務質問をして、返ってくる言葉の訛りなどから、どこの出身かが分かったりもするのです。もしかしたら、防犯カメラの映像よりも、人の目や耳での感じ方の方が、研ぎ澄まされているかも知れません。

長く人を見続けてきた人や、ある電気製品や音響製品を作り続けた技術者は、長い経験の中で培った、目や耳の感覚で検査したり、識別できるのだそうです。『コンピューターよりも正確なのです!』と聞いた事があります。人の長い経験で培われた能力とは、それほど凄いもので、熟練の域に達している職人の持っているものには、驚くべきものがある様です。

長く、数多くの学生を教えてきた教師には、新しく出会う子どもたちの過去、現在、未来の姿が、何となく見えてきて、その経験から、新入生を一瞥しただけで、何かが分かるのだそうです。これも教育熟練者の特殊能力なのでしょう。よく思うのですが、そう言った大人が、自分の未来について不安を覚えている子どもたちに、その適性などを見抜いて、適切にアドバイスできたら、大きな助けになると思うのです。

でも、人生というのは、過ぎ去ってしまった日々を、今の時点から思い返す事で、ある理解や納得がやってきたり、神秘的な導きがあったことを知るのも、意味がありそうですね。人や思想や機会など、様々な出会いや別れがあったのを、私も思い返して、それが人生なのだと、今になって承知するのでしょうか。人生とは不思議なもので、また楽しいものでもあり、また冒険に満ちたものであります。

(「里山を歩こう」から、呉市灰ケ峰に咲く「やまざくら」です)

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浄さ

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私は、青年期に、「浄(きよ)い生活」に憧れていたのです。自分が、随分汚れていると感じていたからです。でも、実現できずに、悶々としていました。そんな私に、衝撃を与える人物を知ったのです。よく"アッシジのフランチェスコ"と呼ばれている、中世のイタリア人です。青年期に放蕩三昧に生きていた彼は、ある時、劇的な《回心》を経験して、在り方や生き方を全く変えてしまうのです。そして同じ様に変えられた若者たちと、女に触れない独身者の集団生活(「小さき兄弟団」です)を結成します。人々を助け、世の中の必要に届こうとして、生きていくのです。しかし独身生活をする事で物欲、性欲、名誉欲を抑え込む事など、誰もができるものではなかった様です。

このフランチェスコを主人公にした、映画ありました。その中に、次の様な場面があったのです。きっと事実に基づいた出来事だったのでしょう。ある時、「小さき兄弟団」が、道を歩いていました。その内の一人が、洗濯をしていた女性を、凝視していたのです。乳房を露わにした胸に見惚(みと)れていたのです。"フランチェスコ"は、その様子を見て、彼を咎めませんでした。

この青年に、集団から離れ、「聖なる結婚」をする様に、彼に勧めたのです。<禁欲>と言う戒律で、人を縛り付けずに、一人一人の心の動きが違う事を認め、生まれ持った欲望を、健全に正しく消化する方法を勧めたわけです。この様に、独身主義に、耐えられない人の情動を許容し、《結婚の健全性》を勧めた"フランチェスコ"に、私は親近感を覚え、感動したのです。

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生まれつきの人がどういう者で、どうあるべきかを教えられた私は、ありのままで自分を認め、受け入れ、これで生きて行こうと決心したのです。そして"フランチェスコ"の様な《回心》を経験したのです。自分の内側には、マグマの様に湧き上がる誘惑に、抵抗し勝てる力がなく、全くの敗北者である事が分かった私は、《私を強くしてくださる聖なる方》と内面的に出会って、解放と安心を得たのです。

もちろん今もなお、老いた者には、老いた者への誘惑があり、戦いの渦中で、マゴマゴしています。人として、男として、老人としての内的な葛藤があるのです。生きとし生ける者が持つ葛藤です。でも自分を責めなくなったのは、よかったと思っています。<弱い自分>のままですが、《内なるお方》は、強いので、助けてくれ、励ましてくれ、また叱ってくれるのす。この方は、様々な誘惑を通られても、虚偽や偽善のない《勝利者》なのです。そう言うお方なら、付き従えそうです。

それにしても、女性が上がるだけで、「土俵」が汚れるという事が、取り沙汰されています。そうなら、相撲をとる力士は、誰もが女性のお母さんから生まれています。また、土俵が「聖域」なら、その上で、殺意を込めて相手を打ち倒そうと、禁じ手を使ったり、「八百長」を演じたり、さらには、土俵下の生活では、愛人を隠し持っている人が、その上に上がるのは大丈夫なのでしょうか。風呂に入ったり、塩を体に擦り付けたら、「浄く」なれるのでしょうか。塩をふんだんに撒くだけで、汚れた者が上がっている「聖域」が、即、浄くなるのでしょうか。矢張り、<形式主義>に過ぎないのではないでしょうか。

(イタリアのアッシジの街の風景、清楚な「むくげ」です)

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紫背菫

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野山に咲く花は、人の手が加えられていないだけに、ただ健気に、天に向かって咲くだけです。春が来る度に花開き、小声で賛美しているのでしょう。こんなキレイな「シハイスミレ(呉市倉橋島にて☜「里山を歩こう」漢字で<紫背菫>と書くそうです)」に出会えるなら、山歩きをして見たくなってしまいます。

何時でしたか、この街から車で出かけ、船に乗って、連れて行ってもらった小島に、名を知らない花を見つけて、写真を撮りました。そして、このブログに載せましたら、それをご覧になられた、植物の専門家が、名前を教えてくださった事がありました。名を知らない花ばかりです。

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BigBen

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義兄は、18歳で、横浜から船に乗って、ブラジルのサントス港に上陸し、ブラジルの大地を開拓する農業移民として出掛けました。一度も帰る事なく、ブラジルの地に没したのです。日本での契約時に交わした約束とは違った、現地の受け入れで、大変な苦労をしたそうです。同時期に一緒に移民した仲間が、寂しさに耐え切れずに自死し、その遺体を、泣きながら掘った墓に葬ったと聞きました。悲しい「移民物語」の一コマです。

結局、その農場を、義兄は秘かに脱出してしまいます。何も目当てがなかったのですが、時計の修理技術を教えてくれる人がいて、本人も手先が器用だったので、その技術を身に付けたのです。結婚し、店を経営し、広大な土地を買い、家を建てる事ができたのです。その自分の店に、"Big Ben"と名付けました。自分の修理した時計が、ロンドンのウエストミンスター宮殿の時計と同じ様に、時を刻み続けるのを願ったからでしょうか。

本場の"Big Ben"は、ロンドン中に、その時刻を知らせる時計が鳴り響いたのだそうです。私は、その時計の音が、"キーンコーンカーンコーン"の繰り返しシハイスミレであるのを知らなかったのです。これって、日本の学校の中で聞いた、授業の開始と終了を告げる、あのチャイムと同じだそうです。午前中の授業の終わりを告げるチャイムを聞いた途端、唾液腺の活動を激しくされた音です。

用務員のおじさんが、手で振って、"カラーン、カラーン”と鳴らした鐘に代わって登場したものでした。もう随分聴いてない懐かしい音です。"ウーウーウー"の空襲警報を告げる音でも、火事を知らせる半鐘の音でもない、ロンドンで鳴り響いた音を使ったのは、当時の学校が、素晴らしい選択をした事になります。

木造校舎で、廊下も教室も、”ギィーギィー"と鳴る音が懐かしく思い出されます。弁当がなかった時は、甲州街道沿いの肉屋さんに跳んで行って、コッペパンに馬鈴薯のコロッケを挟んで、ソースをかけてもらったり、コッペパンにピーナッツバターやマーガリンを塗ってもらって、昼御飯にした事がありました。美味しかったのです。そう言えば、あのコロッケを、ずいぶん食べていないのです。

豚カツとかメンチカツとかハンバーグ以上に、このコロッケの味が懐かしいのです。美味しかったのは、目の前で揚げたてだったからでしょうね。あの肉屋さんは、まだやってるのでしょうか。どこの学校の近くにも、こう言った店が、日本中にあった時代です。スーパーの透明容器に入ったものでは、代用になりそうにありません。

今度帰ったら、そう言った店を見つけて、子どもたちの後に並んで、『おばちゃん、コロッケいっこちょうだい!』と、もう一度言ってみたいなと思っています。今では、どこも綺麗にまとまり過ぎて、ああ言った食文化や情緒が失われてしまったのは、残念至極です。あれって"Big Ben"の義兄も知っている味ではないかな、そう懐かしく思い出しています。

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昼寝

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広島県呉市の上浦刈島(芸予諸島)から眺めた、温暖で、穏やかな瀬戸内能見と島かげです。かつて「河野水軍」が、この水域を中心活躍したと、「里山を歩こう」が、伝えてくれました。こんな素敵な風景を眺めながら、《昼寝》ができたら、「春の夢」が見られるそうですね。政治醜聞、国際紛争、地震、猛烈な夏の天気予報、世の中の騒々しさや心配から離れて、国や地球の将来を、まどろみながら思いやれたらいいですね。

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むくげ

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「矛盾」には、こんな通釈と解説とがあります。

『通釈ー楚の国の人で盾と矛を売る者がいた。この人はこれを誉めて「私の盾は頑丈で、貫くことのできるものはない」と言った。また、矛を誉めて「私の矛は鋭くて、どんなものでも突き通すことができる」と言った。ある人が「あなたの矛でその盾を突き通したらどうなるのですか」といった。商人は答えることができなかった。 解説ー「何でも突き通す矛」と「どんな攻撃も防ぐ盾」の二つがあるというのはおかしい。なぜなら、「何でも突き通す矛」が本当ならば「どんな攻撃も防ぐ盾」はウソになるし、その逆の場合は矛のほうがウソになるからである。このように、つじつまの合わないことを「矛盾」と言うようになったのはこの話による。』とです。

こちらの海外教育学院で、中国語を学んでいた時に、「故事成語」という科目を学んだ中に、この「矛盾」がありました。この世の中、矛盾が多くあるようです。釜山のある施設に、日本原産の木の「カイズカイブキ」が、日本統治時代に植えられ、今まで、そのまま植えられてあったそうです。ところが日本統治時代を思い起こすような物を、植えて置くのを不快に思ったのでしょう、海浜の防風林のために、先頃、移植してしまった、そうニュースが伝えていました。

日本への憎悪が、それほど強く、長く持ち続けているのには驚かされてしまいます。日本人は、戦争後、アメリカ軍が進駐してきた時に、<昨日の敵>のマッカーサー司令官を大歓迎したのです。ここが日本人の不思議さなのでしょう。それなのに、70年も経つのに、この韓国のみなさんの憎悪を、私は理解できないでいます。

大韓民国江原道華川郡の北漢江に、「華川ダム(ファチョンダム)」があります。このダムは、日本統治時代の末期に、日本の手で建設された物で、それ以来、現在に至るまで稼働し続けて、電力を供給しています。そればかりではなく、洪水被害から下流域を守る役割も果たしているのです。でも釜山の一画にある庭の「カイズカイブキ」を憎悪の対象としながら、このダムを日本統治時代の代物として、憎悪しないのは、「矛盾」ではないでしょうか。

俗に、『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い!』と言いますが、同じ血を継ぐ人は憎んでも、ダムやソウル駅や慶州駅などは、その時期に作られているのに、撤去したり、破壊したりはされていないのです。日本車を壊したり、日章旗を焼いたり、何の罪のない物品に、憎しみを向けるのも大人気ない事です。私には、素晴らしい韓国人の友人が何人かいます。人格高潔な人たちです。彼らからは、そういった憎悪の思いを感じたことはないのです。何時か、互いがハグし合えるようになりたいものです。

この朝鮮半島に咲く、「木槿(ムクゲ)」が、私は大好きです。大韓民国では、この花が「国花」だそうです。派手さや強烈さのない白い木槿を、ずっと眺めていた事が、以前、ありました。横須賀の出身で、自分は、『鎌倉武士の末裔なのだ!』と自慢していた父が、「アリラン」を歌っていたのを覚えています。

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小菊

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この数日、北側のベランダに、西日が当たる様になってきています。9階建ての棟にも、日が高くなってきて、夕方の一時、明るさが戻ってきました。そこに置いた「小菊」が咲いたのです。ちいさな花で、まさに「小さな菊花」が見られます。家内が、学生さんにプレゼントされたものです。やっと北側のベランダにも、春がやってきた様です。
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土木工事

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「丹那トンネル」、「黒部ダム」、「東海道新幹線」、「青函トンネル」などは、日本の土木事業としては、その価値、規模、技術、経費、従事者数、年月なからしますと、実に大変な難工事であったと聞いております。それらが竣工した時には、その困難を克服した事もあり、世界の注目を浴びました。《世界初》だった工事もあって、誇れるものだったのです。今もなお、運用され、利用されているのを知るにつけ、父や祖父の世代の使命感に溢れた業績には頭が下がります。

その工事の様子を調べて見ますと、東海道新幹線は、217名もの工事担当者の犠牲があったそうです。どれほどの困難な工事であったかを思い知らされます。利用する度に、重いものを感じさせられ、ただ感謝が溢れてまいります。犠牲になられた方のご遺族は、亡き夫、亡き父、亡き子の殉職の上に、今もなお運用されているのをご覧になって、悲しみと共に、貢献への誇りも覚えておられる事でしょう。

ただ犠牲者の数を取り上げるのは、ご遺族には、甚だ申し訳ないのですが、津軽海峡の海底に、トンネルを掘る工事の方が、さらに難工事だったに違いなかったのですが、新幹線に比べて、24年を費やした工事期間での犠牲者が、36名と少なかったそうです。自然相手ですから、予測できない事態に見舞われる事も多々あったわけです。最大限の注意を払いながらの工事にも、事故は避けられないで起こりうるのでしょう。

高校入学当初は、将来、「土木工学」を学んで、トンネルやダムを作って見たい願いが、私にあったのですが、根性無しで、その願いを諦めてしまいました。骨っぽくて男っぽい仕事ですよね。「海峡」という映画がありましたが、あの工事の準備段階から携わった工事関係者の様子を、映画に観ますと、台風の襲来で遭難した、青函連絡船の「洞爺丸」の事故が、工事従事者のトンネルの必要性の思いを高めていたよ様ですね。

昨年入院を終えて、札幌から東京に戻ろうとした時に、北海道新幹線の利用を考えたのですが、まだ肩が十分に動きませんでしたし、リハビリ中でしたので、空路帰京してしまいました。北海道福島町には、新幹線の工事記念館があるそうです。そこも訪ねてみたかったのですが、叶えられませんでした。

江戸時代に、ノミなどの手道具で作られた、「青の洞門(現在に大分県の耶馬渓にあります)」の話を、子どもの頃に聞いた事があります(菊池寛著「恩讐の彼方に」をご参照ください)。これは江戸時代の個人的な土木工事と言えそうです。"ウイキペディア"に次の様に、歴史が記されています。

『諸国遍歴の旅の途中ここに立ち寄った禅海和尚が、断崖絶壁に鎖のみで結ばれた難所で通行人が命を落とすのを見て、ここにトンネルを掘り安全な道を作ろうと、托鉢勧進によって掘削の資金を集め、石工たちを雇ってノミと槌だけで30年かけて掘り抜いたといわれる。1750年(寛延3年)の第1期工事の完成後には、通行人から人4文、牛馬8文の通行料を徴収したという話が伝わっており、この洞門は日本最古の有料道路ともいわれている。』

禅海和尚の志は素晴らしいものがあります。同じ様な志で、そう言った工事が、よく、この日本で成されてきているのです。次回、北海道を訪ねる機会がありましたら、ぜひとも北海道新幹線を利用し、記念館を見学し、また念願の「モヨロ遺跡」にも行ってみたいな、と思ったりしております。

(歌川広重の『六十余州名所図会』には、「豊前 羅漢寺 下道」と題し、この洞門が豊前国の名所として描かれている。下は、現代の拡幅整備された「青の洞門」です)

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ユダヤ民族が受け継ぐ書に、「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。」とあります。多くの人は、《偶然》が支配していると考えているのですが、《何事にも定まった時期》があり、《すべての営みには時がある》と言っているのです。

海の向こうから、『3試合連続ホームラン!』と、今季、MLBのエンゼルスに入団した、大谷翔平選手の活躍ぶりが伝えられてきました。滝を昇ろうとする「鯉」の様に、天昇る龍の様な勢いを見せています。若干23才、並み居る大リーガーに引けを取らない体格、動じない落ち着いた性格、私たちの世代では考えられない、天賦の才能を与えられているのでしょう。

同じ様に、天賦の才能に恵まれ、MLBで、その名を馳せたイチロー選手は、今季は、古巣のマリナーズに復帰して、活躍が期待されています。大谷選手より20才の年長でありながら、その挑もうとする意欲は素晴らしいものがあります。どれほどの精進を積んできているのか、門外漢の私たちには想像できないほどです。今季の活躍を、楽しみにしています。

この二人には、職業野球選手として、「定められた時」があります。今まさに、上昇気流に乗る大谷選手に対して、現役選手でありますが、かつて驚異的な活躍を見せた、イチロー選手は下降気流の中にあるわけです。父と子ほどの年齢差を考えるなら、それは当然の《時の違い》と言えます。活躍でき、記録を作る《定められた時》が、それぞれにあるわけです。

この「ユダヤの書」には、どんな人も出来事も、生まれ起こるべくして、生まれ起こるのだと断言しています。自分の人生を顧みますと、若い日の思いや願いは、今もあります。でも、私たちの世代の社会的責務を果たすべき「定められた時」は、もう過ぎたのが分かります。後進のみなさんが、主たる立場を取り、責任をお持ちになって励んでおられるのです。順次、次の世代に時は委ねられていくのです。

これまで、《死にかけた時》が、私には、6度ほどありました。肺炎に罹った時、落雷時、台風で荒れる海での遊泳時、 高速運転時、上階の家がガス爆発した時、自転車で転倒した時です。これらの時は、「死ぬべき時」ではなかったので、 生き延びて今日を迎えられています。何か大きな力に押されたり、引かれたりしているのを感じてきています。まだ「生きるべき時」を通過中の自分を意識して、大陸の端っこにるところです。
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野の花の如く

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春が来ると、こんなにも美しい?が、山や里に咲き出すのですね。そして、こんなにも多くの種類の?があるのにも、驚かされてしまいます。さらに、色彩の豊富さには圧倒されてしまいます。昨日配信いただいた、「里山を歩こう」には、広島県三次市の高谷山に咲く、紫色が鮮やかな「コスミレ」と「センボンヤリ」と言う?の写真がありました。

きっとこちらの里や小山にも、数々の?が咲き始めていることでしょう。人に褒められたくてではなく、天に向かって咲く姿が、潔いのが素晴らしいですね。『野の花の如く!』と、色紙に書いてくださった恩師を思い出します。
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