山と海

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2001年に、「21世紀に残したい海の歌」というアンケート調査を、「海洋政策研究財団」が行っています。その1位が『うみ』で、2位は『我は海の子』、4位『浜辺の歌』だったそうです。

『うみ』は、林柳波が作曲し、井上武士が作曲した小学校唱歌でした。

1 うみはひろいな 大きいな
月がのぼるし 日がしずむ

2 うみは大なみ あおいなみ
ゆれてどこまで つづくやら

3 うみにおふねを うかばして
いってみたいな よそのくに

私は、中部山岳の山の中で生まれ育ち、その後、35年間、その生まれ故郷に戻って、アメリカ人の事業を受け継いで過ごしました。父は、日本の良港の一つ、横須賀の港を眺める高台で生まれ育った人でした。潮騒を遠くに聞きながら、東京湾の入り口の海で、よく泳ぎ、遠泳もしたと言っていました。父の血でしょうか、山育ちながら、それで海が大好きなのです。

それでも不思議なのは、巡りが山で育ったせいで、関東平野の真ん中に立つと、落ち着かないのです。山々に抱かれて保護されている感覚を身につけてしまったからでしょうか 、山のそばにいると、"つっかえ棒"の様で落ち着くのです。でも、それだけでは、私の血と魂は満足しないで、フト海が見 たくなり、後先を考えずに、海に向かって車を走らせたことが何度かありました。

四方を海に囲まれた日本列島は、屋台骨に山脈が連なり、そこから流れ下る急流が、平野でなだらかになって、海に注ぐという地形で、山海の景観と幸に恵まれた国を形成したわけです。その川は、滋養溢れる成分を海に運ぶので、近海では魚介類が豊かに育まれているのです。そういった立地が独特なので、独特な国民性、精神性を培ってきたのかも知れません。

創造の業の中で育まれた、木や草や藁、そこから作られた紙が、日本の文化を形作ってきているのです。一時帰国の友人の会社の宿舎は、畳と床板で、それらに触れる裸足の感触が懐かしいのです。畳は、ちょっと古いので、あの井草の香りはしませんが、直接寝そべる感触は、実に好いものです。

一昨日(5月7日)の午後に、弟の家を訪ねました。先ず、日本の「ほうじ茶」を淹れてくれて(緑茶と共に、このお茶を父がよく飲んでいました)、「柏餅」を弟が出してくれました。次に、『お湯が沸いたのでお風呂に入って!』と言うので、風呂の蓋を開けると、何と「菖蒲湯」でした。やがて、人生に「勝負」をする男の子たちが、逞しく育つように願って、古来日本人は、「菖蒲湯」に、子どもを浸させ、湯浴みさせてきたのです。その伝統と季節の湯を用意してくれたわけです。

この季節に訪ねてきた兄を、受け継がれてきた伝統の味を、舌と肌で味合わせてくれたのです。子どもの頃に、意地悪をした兄なのに、遠い国から帰って来たからと、この様に、精一杯の歓待をしてくれたのです。向こうで、来客に振る舞うために、持ち帰る"カレールウ"などを小一万円買ったですが、彼が、カードで払ってくれくれました。いや、好い弟を持ったものだと、感謝しているのです。本来なら、逆で弟を世話をすべきなのにです。作ってくれた 夕食も朝食も、美味しかった!

(「菖蒲湯」です)

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中国の大学の「日本語学科」で、「特別講義」を頼まれた事がありました。何をしようか考えていた時に、NHKで、ハーバード大学のサンデル教授の「白熱教室」が、東大の講堂であり、それを放映していたのです。その講義のDVDを買い求めて、学んでいた時期でした。それで、講義に出席する学生のみなさんに、「故障した路面電車」の話で、授業を始め、どちらかを選んでもらって、賛否両論の論戦をして欲しかったのです。その提題としたのは、次の様な事件でした。

『君は路面電車の運転手で、時速100kmの猛スピードで走っている。君は行く手に5人の労働者がいることに気付いて、電車を止めようとするが、ブレーキが効かない。君は絶望する。このまま進んで5人の労働者に突っ込めば、5人とも死んでしまうからだ。ここでは、それは確実なことだと仮定しよう。君は、何もできないと諦めかける。が、その時、脇にそれる線路、『待避線』があることに気づく。しかしそこにも、働いている人が一人いる。ブレーキは効かないがハンドルは効くので、ハンドルを切ってわきの線路に入れば、1人は殺してしまうけれども、5人は助けることができる。ここで最初の質問だ。正しい行いはどちらか?』

人間の「命の重さ」について論戦して欲しかったのです。<5人の命>を犠牲にするか、<一人の命>を犠牲にするか、中国で、日本語を学ぶ学生たちが、どんな結論を下さすか期待したのです。やはり、<5人の犠牲>よりも、<1人の犠牲>を選ぶ学生が、圧倒的に多かったのです。しかし、私の思惑と違って、両者による論争をして欲しかったのですが、期待した結果にはなりませんでした。きっと、母国語ではできたのでしょうが、3年ほど学んできた日本語の語学力では、無理でした。「哲学科」の授業になるでしょうか。

小学校から高校まで、中国の教育を学び、大学でも学んできた学生のみなさんの考え方を知りたかった事もあってでした。結果は、日本やアメリカの大半の学生は、<一人の犠牲>を選んだ様に、中国のみなさんも同じでした。ただ、私の期待は、自分の選んだ事と、他者の選んだ事で、活発な意見の交換や論争を聞いてみたかったわけです。『どんな基準での選択か?』、『命とは何か?』などを聞きたかったのです。

こう言った選択の機会は、もしかしたら、誰にでもあるかも知れないのです。とっさに、どちらにするか迫られる時、短時間で判断を下さなければならない事態が、やってくるかも知れないのです。自分の命と他者の命、1人の命と多数の命、近い関係の人の命と見知らぬ人の命、そう言った様に区分できるのでしょうか。

自分の命を永らえるためには、どんな手段でも選んで良いのでしょうか。人の命はどうなのでしょうか。昔、「塩狩峠」で、長野さんという国鉄職員が、非番で列車に乗っていた時に列車事故が起きて、自らの命を投げ出して、暴走列車を止めて、乗客を救った事故があったのを、三浦綾子の小説で知りました(実話を小説にしたのです)。長野さんには、家族がいたのです。この犠牲を、どう理解するか、これも一人一人に問われている事なのかも知れません。
(映画の一場面、JR北海道の「塩狩駅」付近の近影です)

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野生のフジ

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広島県呉市の「灰ケ峰」に咲く、「フジ」、「キンラン」、「ゴガクウズキ」です。「里山を歩こう」が送って楽しませてくださる様に、こんなに多くの種類の野生の草花があるのには、驚かされます。枯葉を踏んで山道を歩くのが大好きだった私には、花を見て山道を歩くことはありませんでした。もちろん奥多摩の山道の花に目をやったことはありました。

"フラワー・ウオッチング"をしながら、山道を歩きたくなりました。今回は、難しいかな・・・・。来年は、そんな願いを叶えたいと思っています。

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交流会

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今朝、送信ししてきた、次女の家の花壇の花の写真です。昔、「テキサスの黄色いバラ」という題の映画を観ていて、サウンドトラックで流れていたのを聞いたのだと思います。いわゆる"country songs"で、1930年代に、アメリカで流行ったそうです。だからでしょうか、カリフォルニアの出身の次女の婿のおジイちゃんが、育てていた"ROSE"だそうです。愛でた花は、おジイちゃんが召された後も、株分けしたのを植えた庭で、咲き続けているのです。

下の写真は、「いちご」の花で、間も無く実をつけて、食卓に上ることでしょう。いつでしたか、次女を尋ねた時に、郊外にある「ブルーベリー」や「ラズベリー」などの果樹園に連れて行ってもらって、実を摘んだことがありました。多くの種類の「ベリー」の畑がある地方です。多くの家が、瓶詰保存をして、楽しむのだそうです。

昨日は、二人の兄と下の弟と、4人の兄弟の「交流会」があって、1年ぶりで懐かしい話に花を咲かせていました。あいにく次兄は、その日の朝一で、診察を受けていて、即刻都内の病院に入院になってしまいました。念のための入院だそうです。それで、3人の集いになってしまいました。サラダと果物を兄嫁が、煮物と味噌汁を次兄の姉嫁が、寿司を弟が用意してくれました。

そんなこんなで、診察後帰って来て、一緒に食事会をする予定でしたが、次兄の食べ物は、みんなで分け合ってしまったのです。ケンカばかりの兄弟でしたが、今は仲良く、こう言った交わりを、私の一時帰国に合わせて持ってくれているのです。

会のはねた後、義姉と弟と3人で、入院の必要品を持って、見舞いに出かけたのです。"念のため入院"ですので、一週間とのことでした。今は、北半球では、どこでも"百花繚乱"の季節の到来ですが、《平和の花》が、地球上に乱れるほどに咲くのを、心から願っています。花を咲かせる自然界も、花好きな人が丹精しながら咲かせる花も、《平和》への願いが込められているのでしょう。昨日今日と、東京は寒く、寒が戻ってきた様です。

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春望

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「杜甫」の詠んだ詩に、「春望」があります。

国破山河在 城春草木深
感時花濺涙 恨別鳥驚心
烽火連三月 家書抵萬金
白頭掻更短 渾欲不勝簪

✳︎読み下し文
国破れて 山河在り (くにやぶれて さんがあり)
城春にして 草木深し (しろはるにして そうもくふかし)
時に感じて 花にも涙を濺ぎ (ときにかんじて はなにもなみだをそそぎ )
別れを恨んで 鳥にも心を驚かす (わかれをうらんで とりにもこころをおどろかす)
烽火 三月に連なり (ほうか さんげつにつらなり)
家書 万金に抵る (かしょ ばんきんにあたる)
白頭掻いて 更に短かし (はくとうかいて さらにみじかく)
渾べて簪に 勝えざらんと欲す (すべてしんに たえざらんとほっす)

✳︎訳文
国都長安は破壊され、ただ山と河ばかりになってしまった。
春が来て城郭の内には草木がぼうぼうと生い茂っている。
この乱れた時代を思うと花を見ても涙が出てくる。
家族と別れた悲しみに、鳥の声を聞いても心が痛む。
戦乱は長期間にわたって続き、家族からの便りは
滅多に届かないため万金に値するほど尊く思える。
白髪頭をかくと心労のため髪が短くなっており、
冠をとめるカンザシが結べないほどだ。

「詩聖」と言われた「杜甫」でしたが、優秀な人のわりには、恵まれない一生を送っています。なかなか任官が叶わない時を過ごし、安禄山らによる反乱、戦乱の中にあった時に、祖国の実情、長安の都の荒廃を嘆いて、この「春望」を、杜甫が詠みました。芭蕉が共鳴する様な、唐代版の「わび」とか「さび」を感じさせるものを詠み込んでいたのでしょうか。

江戸の喧騒を離れて、深川に居を移した芭蕉に、四川省の成都に、草堂を構えて詩作に耽った「杜甫」の生き方が感じられます。何年も前に、その成都を訪ねた事がありました。訪ねた時の成都は、先週、隅田の流れの河畔の深川の「芭蕉庵」を訪ねた時と同じく、大都市の風情がして、「鄙(ひな)びた」風情などありませんでした。

「杜甫」は、唐の時代、芭蕉は、江戸初期の人で、千年ほどの時の隔たりがあるのですが、何か共通したものが、この両人にはありそうです。「詩」や「俳句」を詠み、その作品が人の心を打ち、今日でも愛誦されているのです。私にとって最も身近な中国の人は、この「杜甫」であり、中学生になったばかりに、初めて触れた大陸の文化は「春望」でした。また江戸文化を身近に触れたのは、中学1年で学んだ、芭蕉の「奥の細道」でした。

搔くほどの毛がなくなってしまいましたし、「杜甫」や芭蕉よりも長生きできている私には、彼らの感じた「悲哀」がないとの違いを感じています。隅田に架かった橋を渡り、河岸を歩いて、「芭蕉庵」に行ける距離にいながら、ちょっとばかり芭蕉や「杜甫」の心の動きに、思いを向けてみたい心境の"連休明け"であります。

(成都にある「草堂」に近くに竹の生い茂った道です)

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鉛筆

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去年、今年と2年連続で、"春のゴールデンウイーク"を、日本で過ごしています。去年は、札幌で、術後のリハビリをしていました。今年は、次男の婚礼で、四月中旬に帰国して、品川の式場で、門出をする二人を祝福する事ができ、そのまま居残っています。五月の中旬には、戻ろうと計画しているところです。

一昨日は「憲法記念日」、今日は「子どもの日」です。ネットで記事を読んでいましたら、一昨々日の「5月2日」は、"えんぴつ記念日"だったそうです。何にも、記念日になる傾向があるのですが、高校までは、筆記には、この<鉛筆>を使っていました。12年間も、あの縦長の<六角錐>を握りしめて、教師の板書を帳面に書き、四百字詰の<原稿用紙>に作文をし、手紙やハガキも、その鉛筆を使っていました。

いつ頃からでしょうか、<ボールペン>が登場し、書き損じたら消せないのですが、瞬く間に、筆記用具の主流になってしまいました。ところが、<ワープロ>が登場し、そして<PC>が登場すると、その画面上に書くという筆記方法が、これまた主流になってしまい、ボールペンは脇役になり、鉛筆は、ほとんど使わなくなってきています。

今や、音声を文字化する事が主流になりつつあるのでしょうか。『近くのパン屋さん?』という私の声を聞き取って、画面に店の名前と地図が出てくる時代になりました。もう少しすると、思ったり考えたりした事が、文字化したり音声化したりする時代がきてしまうのではないでしょうか。ちょっと怖い感じがしてきています。

それでも、私の机の上の<ペン入れ>には、六角錐の鉛筆と、丸型の2色ほどの色鉛筆があります。時には使うことがあるからです。見たり、聞いたり、書いたりした学校時代が懐かしくなってきました。出さなかった、初めて書いた「恋文」も、鉛筆書きだったのです。コーリンとか三菱のメカーの名前も覚えています。

鉛筆に必要なものがありました。鉄製の小刀の"肥後守(ひごのかみ)"で、鉛筆削りをしたのですが、折りたたみ式のナイフが出てきて、そして手動の鉛筆削り機、電動の鉛筆削機で削ったのです。紙で巻いてあって、それをむくアメリカの鉛筆ももらったことがありました。そう言えば、その"肥後守"で、チャンバラの木製の刀を作ったのです。その時の刀傷が指や手のひらに、幾つも残っています。(5月5日記)

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予定

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もう、南の方からは、「入梅」の便りが聞こえてきました。めぐる季節の移り変わりの早さに、驚かされます。この花は、「レンゲソウ」です(「里山を歩こう」の最新レポートです)。実に鮮やかで美しいです。昨夕から、雨が断続的に降っていて、前線が広がっている様です。これが、もう少し日が経つと、梅雨前線になるのでしょうか。

一時帰国の終盤になりました。まだ人を訪ねなければなりませんが、帰国前に予定した計画を、全部果たせない様で、言い訳はしませんが、申し訳ないなと思わされています。家内の叔母は、102才になるでしょうか、どうしても、この方は訪ねなければなりません。午後、出掛ける予定でおります。予定をこなせないのは辛いものです。

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オッペケペー節

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『散切り頭(ざんぎりあたま)を叩いてみれば、文明開化の音がする!』、こんな歌が流行った時代があります。鎖国で出遅れた日本が、明治の御維新で、<欧化政策>を打ち出して、草履から靴に、袴からズボンに、そしてチョンマゲから欧風頭髪にしたのが、<散切り頭>でした。急速な変化の嵐に翻弄された時代だったのです。フランスなどは、<市民革命>で長く戦って獲得したのですが、日本では、その動きに乗じて、急速に変化させたわけです。

日本人は、「進取の精神」に富んでいて、躊躇せずに、《新らしいもの》を受け入れられる国民なのでしょうか。"近代デモクラシー"を叫んだのが、土佐藩士であった、板垣退助でした。この人は、維新政府の要人でしたが、西郷隆盛とともに下野(政府に要職を捨てて野に下ることを言っています)しています。それから、「自由民権運動」をくりひろげ、「自由党」という政党の責任を取り、内閣の大臣に就任するのですが、再び野に下るのです。

昔使われていた「百円札」の肖像が板垣退助でした。本当に立派な人だった様です。この「自由民権運動」に加わった人に、川上音二郎がいました。この人は、「オッペケペー節」の作者で、福岡県博多出身でした。家出同然に14歳で上京します。初め福沢諭吉の書生、警視庁巡査などを経て、十代後半に、自由民権運動に加わって、街頭や芝居小屋で政治演説を行うのです。

この演説内容が理由で、官憲に180回以上も逮捕されてしまいます。音二郎は、逮捕されずに自分の主義主張を訴える方法を考え、「芸」を利用することを思いつきます。26歳の音二郎は、「オッペケページ節」を作曲し、「ヘラヘラ節」の曲に合わせて歌い始めるのです。《非暴力》で、政治の問題点を歌い上げて、正す様に要求したわけです。その歌詞は次のようです。

『権利(けんり)幸福(こうふく)きらいな人に。自由湯をば飲(の)ましたい。
オツペケペ。オツペケペツポー。ペツポーポー。
堅(かた)い上下角(かど)とれて「マンテル」「ヅボン」に人力車意気な束髪(そくはつ)ポン子ツト。貴女(きぢよ)に伸士(しんし)のいでたちで。
外部(うはべ)の飾(かざり)はよいけれど政治の思想(しそう)が欠乏だ。天地の真理(しんり)が解(わか)らない。心に自由の種(たね)を蒔(ま)け。
オツペケペ。オツペケペツポペッポーポー
米價(べいか)騰貴(とうき)の今日に。細民(さいみん)困窮(こんきう)省(みかへ)らす目深(まぶか)に被(あ)ふた高帽子(たかほうし)。
。。金の指輪(ゆびわ)に金時計。権門(けんもん)貴顕(きけん)に膝(ひざ)を曲け。藝者(げいしや)たいこに金を蒔(ま)き。内には米を倉(くら)に積(つ)み。同胞(どうほう)兄弟見殺(みごろし)か。
幾等(いくら)慈悲(じひ)なき慾心(よくしん)も。餘り非道(ひどう)な薄情(はくじやう)な但し冥土(めいと)の御土産か。
地獄(ぢごく)でゑんまに面會し。
わいろ遣ふて極楽へ。行けるかへゆけないよ。
オツペケペ。オツペケペツポーペツポーポー(後略)』

まだ、好い時代だったのでしょうか。

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芭蕉

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「月日(つきひ)は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行(ゆ)きかふ年もまた旅人(たびびと)なり。舟の上に生涯(しょうがい)をうかべ、馬の口とらえて老(おい)をむかふるものは、日々(ひび)旅(たび)にして旅(たび)を栖(すみか)とす。古人(こじん)も多く旅(たび)に死(し)せるあり。よもいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風にさそはれて、漂泊(ひょうはく)の思ひやまず、海浜(かいひん)にさすらへ、去年(こぞ)の秋江上(こうしょう)の破屋(はおく)にくもの古巣(ふるす)をはらひて、やや年も暮(くれ)、春立てる霞(かすみ)の空に白河(しらかわ)の関こえんと、そぞろ神(がみ)の物につきて心をくるはせ、道祖神(どうそじん)のまねきにあひて、取(と)るもの手につかず・・・」

これは、「奥の細道」の冒頭の個所です。「古人」である中国の"漂白の詩人"の「杜甫(とほ)」に強く影響された芭蕉が、「漂白の思い」に駆られて、自分を慕って学んだ俳句の門人たちを訪ねるために、水盃を交わして、長い旅にでかけるのですが、その紀行文です。

古池や 蛙飛びこむ 去年(こぞ)の秋 芭蕉

「子どもの日」の今日、家内を誘って、「江上の破屋」と芭蕉が記した、隅田川の岸の万年橋のたもとにある「芭蕉庵」の跡地と、「芭蕉記念館」を訪ねてみました。芭蕉が住んだ頃の深川は、葦が茫々と生い茂った片田舎でしたが、今では、住宅や工場や倉庫の密集した地で、全く想像するに難く、俳聖の住処の趣がありませんでした。でも五月晴れの見上げる空は、当時と全く変わらなかったのだろうと、空を仰いでみたりしてみました。

草の戸も 住替(すみかわる)る代(よ)ぞ ひなの家 芭蕉

ここから小舟に乗って、千住に行き、そこから陸奥への旅に、芭蕉は立ったのです。634mの "スカイツリー"などなかった昔、西には富士が眺められたことでしょう。曽良という弟子を連れての旅立ちでした。舟を漕ぐ「艪(ろ)」の"ギッチラギッチラ"という音が川面を伝わっていったことでしょうか。

芭蕉に、門人が多かったというのは、多くの人に慕われ、愛され、尊敬された人で、人徳のあった人だったことが分かります。詠んだ俳句には、豊かな感性が溢れていています。12才で、「奥の細道」を教わり、暗記させられた私は、1644年に生まれて、51年の生涯を終えた芭蕉の巧みな言葉の表現が強烈でした。いまだに諳(そら)んじることができるのには、我ながら驚くところです。(5月5日記)

(広重による「江戸百景 隅田川」です)

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