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中国の大学の「日本語学科」で、「特別講義」を頼まれた事がありました。何をしようか考えていた時に、NHKで、ハーバード大学のサンデル教授の「白熱教室」が、東大の講堂であり、それを放映していたのです。その講義のDVDを買い求めて、学んでいた時期でした。それで、講義に出席する学生のみなさんに、「故障した路面電車」の話で、授業を始め、どちらかを選んでもらって、賛否両論の論戦をして欲しかったのです。その提題としたのは、次の様な事件でした。

『君は路面電車の運転手で、時速100kmの猛スピードで走っている。君は行く手に5人の労働者がいることに気付いて、電車を止めようとするが、ブレーキが効かない。君は絶望する。このまま進んで5人の労働者に突っ込めば、5人とも死んでしまうからだ。ここでは、それは確実なことだと仮定しよう。君は、何もできないと諦めかける。が、その時、脇にそれる線路、『待避線』があることに気づく。しかしそこにも、働いている人が一人いる。ブレーキは効かないがハンドルは効くので、ハンドルを切ってわきの線路に入れば、1人は殺してしまうけれども、5人は助けることができる。ここで最初の質問だ。正しい行いはどちらか?』

人間の「命の重さ」について論戦して欲しかったのです。<5人の命>を犠牲にするか、<一人の命>を犠牲にするか、中国で、日本語を学ぶ学生たちが、どんな結論を下さすか期待したのです。やはり、<5人の犠牲>よりも、<1人の犠牲>を選ぶ学生が、圧倒的に多かったのです。しかし、私の思惑と違って、両者による論争をして欲しかったのですが、期待した結果にはなりませんでした。きっと、母国語ではできたのでしょうが、3年ほど学んできた日本語の語学力では、無理でした。「哲学科」の授業になるでしょうか。

小学校から高校まで、中国の教育を学び、大学でも学んできた学生のみなさんの考え方を知りたかった事もあってでした。結果は、日本やアメリカの大半の学生は、<一人の犠牲>を選んだ様に、中国のみなさんも同じでした。ただ、私の期待は、自分の選んだ事と、他者の選んだ事で、活発な意見の交換や論争を聞いてみたかったわけです。『どんな基準での選択か?』、『命とは何か?』などを聞きたかったのです。

こう言った選択の機会は、もしかしたら、誰にでもあるかも知れないのです。とっさに、どちらにするか迫られる時、短時間で判断を下さなければならない事態が、やってくるかも知れないのです。自分の命と他者の命、1人の命と多数の命、近い関係の人の命と見知らぬ人の命、そう言った様に区分できるのでしょうか。

自分の命を永らえるためには、どんな手段でも選んで良いのでしょうか。人の命はどうなのでしょうか。昔、「塩狩峠」で、長野さんという国鉄職員が、非番で列車に乗っていた時に列車事故が起きて、自らの命を投げ出して、暴走列車を止めて、乗客を救った事故があったのを、三浦綾子の小説で知りました(実話を小説にしたのです)。長野さんには、家族がいたのです。この犠牲を、どう理解するか、これも一人一人に問われている事なのかも知れません。
(映画の一場面、JR北海道の「塩狩駅」付近の近影です)

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