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東京を取り上げる上で、どうしても記しておきたいのは、江戸城を築城した太田道灌です。室町時代末期、足利氏の出の優れた武将でした。有名な話は、狩の時に、にわか雨を避けるためにでしょうか、しばしの休息をとった農家の娘に、雨をしのぐ蓑(みの)を借りようとするのですが、この娘が、「山吹」の花を、道灌に差し出したのです。
その意味が理解できない道灌は、怒ってしまうのですが、部下が解説するのです。
七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞかなしき
八重山吹の花は、綺麗な花をつけるのですが、実りをつけないのです。彼女の家には、貧しさのためか、お貸しする蓑でさえ、一つもなかったのを、歌に呼んだと言う顛末を語るのです。恥入った道灌は、それ以後、和歌を熱心に学んだのだそうです。この故事にちなんで、「山吹町」と言う地名が、新宿や葛飾や埼玉県下の越生(おごせ)にあるそうです。
アメリカ合衆国の首都のワシントンのポトマック河畔に、桜が植えられてあります。それは、タフト大統領夫人の発案で、首都ワシントンに、日本の桜の樹を移植しようというプランから始まったのです。それを聞いた尾崎行雄は、『絶好の機会であるから、先方には買わせずに、東京市からワシントン市に寄贈しよう!』と思って、市会にかけて、寄贈が決まったのです。それで春が訪れると、ワシントンの桜は、今でもきれいに咲くのです。
東京の基盤をすえた人で、けっして忘れてはいけいのが、この東京市長を務めた、尾崎行雄です。明治36年(1903年)、45歳の時に市長になり、同45年(1912年)までの九年の間、市長として、その辣腕を振るったのです。「ワシントンの桜」には、そういった経緯があるのです。市の行政の多岐にわたって、尾崎行雄は現場に赴いて、東京の街づくりに専心、奔走します。道路整備、上下水道敷設、市電、ガス電気事業と多岐にわたったのです。
神奈川県又野村(現在の相模原市の北部になります)で生まれ、慶應義塾に学ぶのですが、塾頭の福沢諭吉に認めれるほどだったそうです。1875年、カナダ人宣教師から洗礼を受けています。「憲政の神様」、「議会政治の父」の威名を受けるほどの秀逸な人でした。そのような人材が、心血を注いだ街が、この東京です。
これを遡る、徳川期以前の江戸は、広大な武蔵野の一画に位置した小さな村だったのが、「八百八町」と謳われ、徳川権勢のお膝元として、文化も商業も経済にも栄えた、世界に誇りうる街となったわけです。維新後は、京の都から遷都されて、国都となったわけです。
「江戸参府旅行日記(ドイツ人医師のケンペルの書いたものです)」には、江戸の街の様子が、次のように述べられています。
『幕府直轄の五つの自由商業都市のうち、江戸は第一の都市で、将軍の住居地である。大規模な御殿があり、また諸国の大名の家族が住んでいるので、全国で最大かつ最重要の都市である。この都市は武蔵国の、(私の観測の結果では)北緯三五度五三分〈英訳本では三二分〉の広大で果てしもない平野にある。町に続いている長い海湾には魚介類がたくさんいる。その海湾の右手には鎌倉や伊豆の国が、左手には、上総と安房があり、海底が沼土のようで非常に浅いから、荷物を運ぶ船は、町から一、二時間も沖で荷を下ろし、錨を入れなければならない。町のくぼんだ海岸線は半月形になっていて、日本人の語るところによると、この湾は長さが七里、幅が五里、周囲は二〇里である。』、ケッペルの滞在期間が、元禄年間でしたから、長崎から陸路で二度ほど江戸に参府(オランダ人に課せられた大名のような参勤交代と言えます)の経験を綴ったわけです。
江戸は、当時のロンドンやパリよりも文化的であったと言われています。徳川幕府の統治が優れていたと言うことになります。幕末から明治期に、日本を訪ねた外国人も、おしなべて好印象、驚きを書き残しています。鎖国国家なのに、長崎を通じて、幕府に益するものは受け入れ、そうでないものは排除したから、二百六十年も統治が続いたのでしょう。
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太宰治の「東京だより」に、1944年ごろの東京の街の様子を、次のように記されています。
『東京は、いま、働く少女で一ぱいです。朝夕、工場の行き帰り、少女たちは二列縦隊に並んで産業戦士の歌を合唱しながら東京の街を行進します。ほとんどもう、男の子と同じ服装をしています。でも、下駄の鼻緒が赤くて、その一点にだけ、女の子の匂いを残しています。どの子もみんな、同じ様な顔をしています。年の頃さえ、はっきり見当がつきません。全部をおかみに捧げ切ると、人間は、顔の特徴も年恰好も綺麗に失ってしまうものかも知れません。東京の街を行進している時だけでなく、この女の子たちの作業中あるいは執務中の姿を見ると、なお一層、ひとりひとりの特徴を失い、所謂「個人事情」も何も忘れて、お国のために精出しているのが、よくわかるような気がします。』
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当時の東京が、何か個性を欠いた日本人が溢れていて、戦時下の窮屈さや灰色の色彩が感じられてなりません。戦争が終わってしばらくしてからですが、山奥から東京に越すことを決めた父は、引っ越しを考えていました。当初、新宿駅の南に家を買うつもりでしたが、花園などの繁華な街での子育てはふさわしくないと決めて、大田区や三多摩地区に家を求めたのです。それで、『ベエ、ベエ!』と語尾を飾る南多摩に、家を買ったのです。そこに、私は二十歳になるまで住み、結婚して本籍をその街に置いて、宣教師さんについて離れます。
「火事と喧嘩は江戸の華」と言うのは、木造建築で、密集した町並みで、「火消し制度」が設けられましたが、猛火に襲われ、何度も大火に焼かれても、また復興をし続けた街だったのです。『江戸っ子!』と誇りをもって、「粋(いき)」であることに拘り、短気で喧嘩っ早い気質を誇示した人たちの街でした。初期には、職人や加工業者や商い人が、全国から集められたのが、江戸でした。伊勢屋、越後屋など、故郷を屋号にした商家が多くあったわけです。東洋一を誇る街としてあり続け、1962年には、〈一千万都市〉の東京となっています。
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都花は「ソメイヨシノ」、都木は「銀杏(いちょう)」、都鳥は「ユリカモメ」で、人口は1400万人です。東京都市圏の神奈川、千葉、埼玉を含めますと、3700万人も人口があるのです。大正期の関東大震災、戦時中の空襲で壊滅していますが、瞬く間に復興したのは驚くべきことでした。
1929年に発表された「東京行進曲」に、いくつかの地名が挙げられています。銀座、丸ビル(建物)、浅草、小田急(私鉄電車)、新宿、武蔵野などです。
昔恋しい 銀座の柳
仇な年増を 誰が知ろ
ジャズで踊って リキュルで更けて
明けりゃダンサーの 涙雨
恋の丸ビル あの窓あたり
泣いて文書く 人もある
ラッシュアワーに 拾った薔薇を
せめてあの娘の 思い出に
ひろい東京 恋ゆえ狭い
粋な浅草 忍び逢い
あなた地下鉄 わたしはバスよ
恋のストップ ままならぬ
シネマ見ましょか お茶のみましょか
いっそ小田急で 逃げましょか
かわる新宿 あの武蔵野の
月もデパートの 屋根に出る
この東京には、山も海も島もあります。中学の時に、誰も誘わないで、奥多摩の御前山に、一人で登ったことがありました。都有林の伐採をしていたおじさんたちにからかわれたのが思い出に残っています。一人での山行きって、けっこう楽しいのです。また知人が、伊豆豊島で教師をしていて、招かれて、家族で出掛けたことがありました。
武蔵野の一角、櫟林の中に、私が6年間学んだ母校があります。武蔵国の府中、国分寺近くにありました。江戸が中心ではなく、母校あたりが武蔵国の中心であったのです。戦国の代に、戦が行われたという分倍河原があり、その近くで高校の考古学部のお手伝いで、土起こしの発掘をしたことがありました。日本国有鉄道の研究所もありました。もう今では、その武蔵野の面影はわずかですが、あの木の葉を揺する風の音が聞こえそうですし、グランドを駆け回っていた姿も思い出せそうです。夕闇にたなびく秋刀魚を焼いた白い煙が、秋の夕べにはたなびいていました。
多摩川の流れで泳ぎ、その岸の学舎で学び、二十年ほど、この東京に住んだでしょうか。都下の多摩地域は、明治初期には神奈川県だったようですが、東京市に編入されて行きます。中央線沿いの長野や山梨の人たちは、東京でも東京駅から高尾駅の間の多摩地区に、多くが住み、東北地方の方は京浜東北線、茨城あたりは常磐線、神奈川あたりに人は横須賀線の沿線に住む傾向があるのかも知れません。
人の多い東京は、一番孤独を感じさせる街に違いありません。首都圏に人が集中し、地方がさらに過疎化していくのでしょうか。また、どなたかが、「新・列島改造論」を論じて、日本を変えて欲しいものです。これから、どんな街に変貌していくのでしょうか。
(山吹、道灌と娘、ソメイヨシノ、ポトマック川の桜、隅田川の花火、新宿御苑、江戸の火消し、神宮の銀杏並木、小田急線の古写真です)
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