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作詞が嶋田 磬也、作曲が大久保 徳二郎で、D.ミネが歌った「夜霧のブルース」が発表されたのは、戦争が終わった直後の1947年でした。映画の主題歌として歌われた歌謡曲で、1930年代の中国の上海の街を懐かしそうに謳っています。
青い夜霧に 灯影が紅い
どうせおいらは ひとり者
夢の四馬路か 虹口の街か
ああ 波の音にも 血が騒ぐ
可愛いあの娘が 夜霧の中へ
投げた涙の リラの花
何も言わぬが 笑ってみせる
ああ これが男と 言うものさ
花のホールで 踊っちゃいても
春を持たない エトランゼ
男同志の 合々傘で
ああ 嵐呼ぶよな 夜が更ける
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私の教え子のご両親が、この上海でホテルを経営していて、上海から大阪まで船で帰ろうとした時に、彼女と友人が、この街を案内してくれたのです。私が泊まるとために予約していたのは、youth hostel で、 “ Captain Hostel (船長旅館) ” と言う、上海の外灘waitan と呼ばれる、旧市街が今も残っている地域にあったのです。教え子のお父さんのホテルでは、『無料で泊まってください!』と言われるのを避けたいため、自分で予約していたのです。
中国新幹線で、虹橋という駅に、もう春節の休暇の間近で、親元へ帰省していた彼女たちが出迎えてくれたのです。ちょうど、そのHostel は、この歌の四馬路や虹口(小東京と呼ばれていたようです)の近くで、かつて日本人街があったところにあったのです。どうも、戦前からの煉瓦造りの建物で、経営者が日本人から中国の人に移っていたような雰囲気でした。
外灘は、かつての上海港があった所で、世界中から、この港に、人々が事業や観光の目的で行き来していたのです。私の父の青年期に、きっと訪ねていたのだろうと思うのです。私が、この国に初めて行き、北京、呼和浩特(フフホト)、広州と、この上海に行った時には、もう父は召されていましたから、もっと父の若い日のことを詳しく聞きたかったのですが、叶えられなかったのは残念なことでした。
そんなことで、親近感が上海にはあって、初めて訪ねた時も、初めてのような気がしなかったのは、父のことを思っていたからなのでしょう。戦後は、ハワイやロサンゼルスやパリなどが、観光名所になっていたのですが、戦前は、「東洋の魔都(大都市すぎて本体が掴めなかったりして呼ばれた街を言ったのでしょう)」、一度入り込んだら厄介な場所もあったのかも知れません。
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対岸に、この街のシンボルの大きなテレビタワーがあって、东方明珠广播电视塔と呼ばれています。東京の顔のような東京タワーやスカイ・ツリーに匹敵するような、上海の顔とでも言えそうです。最初に訪ねた時に、このタワーの展望台に登って、みたのです。この街には、中華民国の文学者の魯迅や郭沫若という方々と親交のあった内山完造(岡山県出身)の経営する書店が、かつてありました。東京と上海で、文化の発信をしていたのです。この内山はクリスチャンで、日中友好に尽力した人でした。
市内の街路には、城市や人の名が付けられていて、福州路、中山路、愛迪生路(エジソン)、延安路などがあり、かつては「租界(そかい/ 各国の治外法権の地で、外国扱いされた地域のことです)」があり、実に無礼なことに、日本租界には、『犬と中国人、入るべからず!』と、立て札があったほどだったそうです。
アジア最大の街であって、東京に匹敵する大都市です。親しくしている、華南の町で製パン会社を経営している方は、この上海で修行をして、ご自分の出身した省た街に多くのパン店を展開しておいです。製パン機やパンの原材料の卸などをされていて、今東京に住んで、行き来をしておられます。何年か前から神奈川県下に工場を作る準備中なのです。
長江の下流、上海の街中を通って、東シナ海に流れ込む黄浦江に流れの脇に、外灘があって、戦争が終わり、中国の革命運動も終わっても、この街は、かつての様相を残したままのようでした。周辺の省や内陸からの出稼ぎの人たちの多い街ですし、学生たち学びの府でもあったのです。文化的で、古い中国が残る、混ぜ合わされたような街ではないでしょうか。
食べ物も美味しかったですし、この上海の波止場(港)は、欧米や日本への通路でもあり続け、大きな国際空港も整備された街なのです。日中関係が、不安定であっても、日本の商社も工場も多くあって、今も日本街は元気なようです。
(新旧の上海の外灘、紅焼肉はホンシャオロウ、テレビ塔、内山書店です)
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