なにやら厄介なもの

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 『劣等感は厄介者だ!』、長く生きてきて、多くの人と出会ってきたからなのでしょうか、または人を見る目が厳しいのか、もしかしたら意地が悪いのか、人の心の底に隠れているものに気づくのかも知れません。きっと自分が、劣等意識に苛まれているから、同じような人のことが分かるのだろうと思うのでしょう。

 『何かをやり残したい!』と言う欲求が、人にはあるのかも知れません。通学駅の下車駅名の表示板に、仲の良かった友人と一緒に、〈落書き〉をしたことがあります。隅っこに、名前の一部分ずつをアルファベットで遠慮がちに書き込んでしまったのです。今だと、「器物破損罪」になってしまうのだそうです。それを、見つけたのが、「奥の細道」を教えてくれていた、高等部の国語教師でした。『ああ言うことをしちゃあいけない。帰りに、消しておきなさい!』と、二人を教室に残して、授業の後に言ってくれたのです。

 この先生は、駅名の表示板の隅っこの小文字のアルファベットの文字を見て、誰だか分かったのには、驚きました。中1120人ほどいたでしょうか、教えておいでの高校生だって数百人はいたのに、ショウちゃんと準だと見破ったのです。それには驚きました。校名を汚していないか、自分の名を刻みたい思春期の誘惑で、それでも分からないように、小文字にアルファベットで書く心理を見抜いて、『あの中一だ!』と思いついたわけです。

 高額の参加費を出してのヨーロッパ旅行をした若者が、有名な観光地の記念的建造物に〈落書き〉をして、顰蹙(ひんしゅく)を買った事件がありました。自分の訪問や旅行の記念、さらには青春の証で、何か残したくって、名を刻んでおきたい誘惑に負けたのでしょう。

 私たちは下校時に、ついででしたが、彼らは、高い航空運賃を払って、消しに行かされ、双方、恥を被ったのです。平凡で、つまらない一生を、劣等感を持ったまま終わりたくない思いが、実はとてつもないことを起こさせてしまうのです。前にも、触れたのですが、良きにつけ悪につけ、〈世界を動かした人物〉には、そう言った、心や生き方の背景が見られます。人は、何かの劣等意識と少なからず戦って生きてるのでしょうか。

 もちろん、その〈劣等感〉をバネにして、社会貢献をした人物が大勢います。でもその反対の事例が多いのも事実です。アヒルのヒナは、自分の目に初めて入った大きな存在を、親だと思うのだそうです。実験的に、産んでくれた母鳥ではなく、母鳥でない人と出会わすと、この「人」を親だと認知するのだと、動物学者の実験で知りました。これを、「刷り替え」とか「倒錯」と、心理学者は言うそうです。

 三島由紀夫と言う小説家がいました。極めて頭脳明晰な人で、名門コースをたどって、将来を嘱望された人でした。この人の5歳の時の経験が、彼の作品の中で述懐されています。

 坂道の上の方から、汚れた手拭いで鉢巻きをし、ももひきを履き、地下足袋を履いて、肥桶を担いで降りてくる、血色も目の輝きも頬の輝きの美し若者と出会ったのです。その出会いは衝撃的で、彼は、『あの人のようになりたい!』と願うほどだったと告白しています。少なからず、多くの人が、印象の強い、映画スターや歌手や物語の主人公に「憧れ」る時期があります。

 また、男だけの学習院に学んだ三島は、クラスの演劇でクレオパトラ、「女」役を演じたりしています。さらに中等部で、落第してきた年長の同級生の「男」らしさに惹きつけられ、恋をするのです。

 鶴田浩二(予科練や学徒特攻兵に憧れていた自分だったからでしょう)、木村功(軍隊の内務班の不条理を演じていたからでしょう)、ジェームス・ディーン(母を失い父に厳しく取り扱われたギャルを演じ、反抗期のアメリカ少年を演じ、使用人から幾万長者になっていくジェットを演じたからでしょう)、思春期真っ只中で、単純に私が憧れた、スクリーンのなかの登場人物を演じた俳優たちでした。

 何か影のある感じが、良かったのでしょうか。思春期の一つの心理って、そう言った面もあるのでしょう。でも自分を発見していく上で、そんな憧れも一過的には意味があったのでしょう。俳優にも石油王にもなれませんでしたが。

 『あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。(イザヤ4817節)』

 そう言われる、神さまに導かれて、学校の教師、キリスト教会の伝道者になりました。それは、自分の願いを遥かに越えた「導き」があったからです。そして一人の妻を得て、四人の子を与えられ、家庭を持ちました。悪戯小僧で、喧嘩好きで、短気で、コソ泥だったのに。

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 『私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。 (哀歌322節)』

 『イエス・キリストのしもべであり、ヤコブの兄弟であるユダから、父なる神にあって愛され、イエス・キリストのために守られている、召された方々へ。 (ユダ11節)』

 「憐れみ」によって、「守られ」て今があります。優等生などには遥かに及ばず、滅ぶのが当然のようで、少々異常でおかしいのですが、「虐殺者」にも、「軍国主義者」にも、「詐欺師」にも、「倒錯」にも陥らないで、ここまで生きて来れたのを思い返しています。

 それにしても、三島は、倒錯の中を生きて、最期は、市ヶ谷の自衛隊駐屯地で、自衛隊の蜂起を願って、「檄(げき)」を飛ばして、日本を変えようとしたのですが、叶えられず、庁舎内で割腹自殺をして、45歳で果てたのです。私は、自分が弱いので、どんなに立派な業績や社会的な評価を受けていても、倒錯者、自殺者、偽善者、高慢な人、家族を顧みない者からの影響を受けまいとして生きてきました。

 三島は、自分の幼い日、子どもの頃を、次のように書き残しています。

 「祖母が私の病弱をいたわるために、また、私が悪いことをおぼえないようにとの顧慮から、近所の男の子と遊ぶことを禁じたので、私の遊び相手は女中や看護婦を除けば、祖母が近所の女の子のうちから私のために選んでくれた三人の女の子だけだった。」

 両親よりからも、祖母の影響が強くて、〈両親のイメージの不在〉があったようです。お父さんは、優秀な高級官吏でしたが、分裂気質が強かった人だったようです。祖母は、幼い恋人のようにしていた、幼い三島をお母さんから遠ざけ、「しじゅう閉め切った、病気と老いのむせかえる祖母の病室で」育てていたのだそうです。それで三島の作品には、母親の描写が少ないと言われています。

 何かがかけている自分に気付いたのでしょうか、男っぽい軍人スタイルに身を包んだ〈楯の会〉をつくり、若者を集め、武闘訓練を行い、body building で筋骨隆々たる体になるために、肉体改造に、反動的に励んだのでしょうか。劣等意識の裏面に、さまざまなことが見え隠れします。北の方の国の指導者は、短躯の自分を跳ね返して、大きく強く見せるためにでしょうか、筋肉を身につけた裸を見せつけ、それ以上に強い指導者である印として、軍備で隣国を侵犯しています。そんなことよりも、この人に必要なのは、脳や心を嫌えて、花を育て、小ペットを飼い、隣人などを愛する優しさを鍛えて欲しいと思っています。劣等感が、どれほどの厄介なことをしてきているか、そう思うと複雑です。

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[旅に行く] マルコの三千里

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 イタリアのジェノバから、お母さんのいる南米アルゼンチンのブエノスアイレスへと、マルコが旅をする物語、「母をたずねて三千里」を、最近読み返しました。マンガや時代劇ばかり読んでいて、幼児への絵本や物語に興味を示さなかった反動で、最近、このように絵本づいているのです。

 いわゆるお母さんの出稼ぎで、出先のブエノスアイレスからの便りが途絶えたので、心を痛めた息子のマルコが、船に乗って大西洋を渡るのです。ビン洗いの仕事で、アルゼンチン行きの船の船賃を稼ぐうちに、船員になって船に乗る機会が、マルコに与えられるのです。移民船の船員の仕事を手伝いながら、移民たちの貧しさや辛さを垣間見ます。嵐にあいながら、ブエノスアイレスに着くのです。

 親戚を頼って、その街に着くのですが、おじさんは事業に失敗し、お母さんも行方不明になってしまっていたのです。アンデス山脈の麓の村、コルドバにいるという情報を得たマルコは、パンパ平原を超えて長旅をします。さまざまな困難を通り、親切にもあうのです。そこにいた母は、マルコが訪ねた時には、またトウクマンという村に移っていたのです。世話をしてくれた少年の妹の病気の医者代のために、もらったお金を使い果たしてしまいます。けっきょく無賃乗車をして、トウクマンに着くのです。

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 マルコのお母さんは病気をしていました。でも息子に会えた喜びで、体が回復していくのです。そして、ジェノバに帰ることができます。その頃には、お父さんの事業も良くなっていて、長い旅の後に、素敵な家庭が再建されていく、そんな物語です。

 十七の時に、アルゼンチンへの移民を真剣に、私は考えていました、「日本アルゼンチン協会(亜爾然丁)」が東京にあって、資料を取り寄せて、スペイン語の学習書を買って、その準備をしたのです。ところが学校に合格してしまって、二者択一で、楽な道を選んでしまい、その夢は儚くも消えてしまいました。

 あれから何年も何年もたってから、ブエノスアイレスの教会訪問で訪ねたのです。空港に着いた時、もし十七、八の時に移民していたら、どんな生活をしていたのだろうかという、光景がパノラマのように閃いたのです。人生の岐路での選択に、主の導き、『あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く。(イザヤ3021節)』を認め得たのです。

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 移民された方の家も訪問し、ご馳走になりました。洗濯屋さんをしておいでで、沖縄からの移民のみなさんとお会いできたのです。「三線(さんしん/沖縄の三味線です)を演奏してくれました。その訪問の後、サンパウロに行き、近郊の街に住む義兄を訪ねました。大きな池のある家に住み、農業移民から、手先の器用さを利して時計修理や販売、宝石などを商いながら生活をし、子育てを終えていました。

 和歌山から母子で移民された方が、街一のレストランに招待してくれ、大ご馳走に預かりました。リンゴ栽培(ふじりんご)で成功し、手広く事業をされておいででした。移民の母子家庭の逆境を乗り越えておいででした。成功も失敗もさまざまな物語があったようです。

 マルコのような物語も、日本人版であったかも知れませんね。イタリア人の店では、ピザが売られていました。アルゼンチンも、ブラジルも、ヨーロッパ系のみなさんの移民の地でした。

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復興を祈ります

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 使徒パウロは、小アジアのピシデアのアンテオケに宣教しています。この街はトルコを横断するアナトリア高原にあるそうです。そこはローマ帝国の植民都市で、ローマに通じる「ローマ街道」の拠点でもありました。パウロはこのローマ街道の近辺に宣教を展開し、いくつもの教会を建て上げたのです。

 アンテオケは丘の上に建てられた、ロ-マ風の街であったそうです。ローマと結ぶ「ローマ街道」は、石畳の道で作られてあり、パウロの伝道一行は、福音を携えて、この道を辿ったのです。アナトリアの高原が広がり、その街があったそうです。その街で、パウロがした、とても印象的な説教があります。下記してみます。

『しかし彼らは、ペルガから進んでピシデヤのアンテオケに行き、安息日に会堂に入って席に着いた。
律法と預言者の朗読があって後、会堂の管理者たちが、彼らのところに人をやってこう言わせた。「兄弟たち。あなたがたのうちどなたか、この人たちのために奨励のことばがあったら、どうぞお話しください。」
そこでパウロが立ち上がり、手を振りながら言った。「イスラエルの人たち、ならびに神を恐れかしこむ方々。よく聞いてください。
この民イスラエルの神は、私たちの父祖たちを選び、民がエジプトの地に滞在していた間にこれを強大にし、御腕を高く上げて、彼らをその地から導き出してくださいました。
そして約四十年間、荒野で彼らを耐え忍ばれました。
それからカナンの地で、七つの民を滅ぼし、その地を相続財産として分配されました。これが、約四百五十年間のことです。
その後、預言者サムエルの時代までは、さばき人たちをお遣わしになりました。
それから彼らが王をほしがったので、神はベニヤミン族の人、キスの子サウロを四十年間お与えになりました。
それから、彼を退けて、ダビデを立てて王とされましたが、このダビデについてあかしして、こう言われました。『わたしはエッサイの子ダビデを見いだした。彼はわたしの心にかなった者で、わたしのこころを余すところなく実行する。』
神は、このダビデの子孫から、約束に従って、イスラエルに救い主イエスをお送りになりました。
この方がおいでになる前に、ヨハネがイスラエルのすべての民に、前もって悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていました。
ヨハネは、その一生を終えようとするころ、こう言いました。『あなたがたは、私をだれと思うのですか。私はその方ではありません。ご覧なさい。その方は私のあとからおいでになります。私は、その方のくつのひもを解く値うちもありません。』
兄弟の方々、アブラハムの子孫の方々、ならびに皆さんの中で神を恐れかしこむ方々。この救いのことばは、私たちに送られているのです。
エルサレムに住む人々とその指導者たちは、このイエスを認めず、また安息日ごとに読まれる預言者のことばを理解せず、イエスを罪に定めて、その預言を成就させてしまいました。
そして、死罪に当たる何の理由も見いだせなかったのに、イエスを殺すことをピラトに強要したのです。
こうして、イエスについて書いてあることを全部成し終えて後、イエスを十字架から取り降ろして墓の中に納めました。
しかし、神はこの方を死者の中からよみがえらせたのです。
イエスは幾日にもわたり、ご自分といっしょにガリラヤからエルサレムに上った人たちに、現れました。きょう、その人たちがこの民に対してイエスの証人となっています。
私たちは、神が父祖たちに対してなされた約束について、あなたがたに良い知らせをしているのです。
神は、イエスをよみがえらせ、それによって、私たち子孫にその約束を果たされました。詩篇の第二篇に、『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ』と書いてあるとおりです。
神がイエスを死者の中からよみがえらせて、もはや朽ちることのない方とされたことについては、『わたしはダビデに約束した聖なる確かな祝福を、あなたがたに与える』というように言われていました。
ですから、ほかの所でこう言っておられます。『あなたは、あなたの聖者を朽ち果てるままにはしておかれない。』
ダビデは、その生きていた時代において神のみこころに仕えて後、死んで父祖たちの仲間に加えられ、ついに朽ち果てました。
しかし、神がよみがえらせた方は、朽ちることがありませんでした。
ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。
モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。
ですから、預言者に言われているような事が、あなたがたの上に起こらないように気をつけなさい。
『見よ。あざける者たち。驚け。そして滅びよ。わたしはおまえたちの時代に一つのことをする。それは、おまえたちに、どんなに説明しても、とうてい信じられないほどのことである。』」(使徒13章14~41節)』

 

 

 この説教は、イスラエル民族の「救いの歴史」が紐解かれ、イエスさまの十字架の死と復活に至ることを語っています。それは、罪に苦しむ私たちが、その罪から離れて、輝いて生きていくための「罪からの解放」、「救い」の基点だからです。実に重い説教を語って、パウロは、アンテオケ在住のユダヤ人に迫ったのです。

 この説教が語られたのが、この26日に起こった、「トルコ・シリア大地震」で壊滅的な被害にあったトルコ、聖書時代の古代都市のピシデヤのアンテオケ、現在のアンタキア(写真参照)です。トルコは、イスラム教の国ですが、クリスチャンもおいでです。

 地震の被害にあわれた人たちは、数えきれないほど大勢だそうです。家族を亡くされた遺家族の上に平安を祈り、まだまだ寒い地で、復興が急がれますようにと願います。ただ主の恵みを祈ります。

(アンタキアの街、パウロの伝道旅行の街のアンテオケです)

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ご心配なく

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 この29日の夕刻、近くの薬屋の駐車場から車が出て来ようとして、それを交わそうと思う間に追突され、自転車もろとも左に倒され、左足のふくらはぎとお尻を、道路に痛打しました。立てない程度の痛さがあったのです。追突後、車を降りて近づいて来た運転手が、「大丈夫ですか?」と言うのですが、大丈夫ではなかったのです。

 食事に呼んだ知人夫妻とお母さまに、食材を買い忘れていたので、それを買って準備しようとしていたのです。[事故後は警察を呼ぶ]と言う鉄則を守らず、運転者から名刺をもらい、個人の携帯番号を聞き、何かあったら連絡するとのことで別れたのです。  

 家に帰って、足を引きずっている私を見て、家内が、医者に行く様に勧めたので、整形外科に行こうとタクシーを呼んだのです。折悪く近所の2軒の整形外科医が休みで、タクシーの運転手さんが紹介してくれた整形外科に行きました。 

 にこやかな医師が、怪我の様子をエコーで見せてくれ、左足のふくらはぎの筋肉が断裂していました。湿布とバンテージをしてもらい、1週間後に再診とのことで帰ったのです。家に帰ってしばらくして、その運転手から電話で、警察に届けたとのことでした。『現場検証があるので、2130に、現場に来て欲しい!』との連絡を受けたのです   

 再度連絡があって2100頃に、足を引きずって現場に行きますと、栃木警察署から2名の係官が来て、現場検証を30分ほどして帰宅したのです。週明けに、相手の保険会社から連絡がありました。

 寒空に、この歳で、道路に転ばされると言うのは、嫌なものです。子育ての街の端の袂で、右折の車が待っていたので、直進で通り抜けようとしましたら、車の陰から、自転車に乗った女子学生さんが現れ、車で突いてしまったことを思い出したのです。

 私は、この方を医者に連れて行き、診察してもらったのです。幸い、打撲傷で済んだのです。自転車を家に届け、何度かお見舞いに行き、この方の両親と話し合いの過去があったのです。加害者も被害者も、やっぱり事故は起こさないのがいいのですが、不測の事故は、いつでも、どこでもありそうです。

 数日後に、近所の自転車屋さんに、事故車をみてもらったら、四年前に買ったものの後輪が曲がっていて、交換の必要があるとのことです。保険でみてもらえるようです。自転車の便利さを考えると、まだまだ卒業はできそうにありません。そこは、三代目の自転車屋さんだそうで、いろいろ教えていただきました。

 自分で転んだのを含めて、こちらに住み始めて、車から自転車に乗り換えて、実は四度めの同じ自転車からの転倒事故でした。今は、折りたたみの小径自転車がを、自転車屋さんが用意してくれています。

これって、事故とは無関係と思いますが、

 『ブンブンブン、虫が飛ぶ、クレムリンの周りに、ブンブンブン虫が飛ぶ 

と、替え歌を歌っていて、人の不幸を願ってしまったからかな、と自分を責めて、それから反省しているこの頃です。ご心配なく。

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もうすぐ三月ですね!

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 もし200年後があったとして、その頃のみなさんが、200年前の古写真を見て、『この口のまわりの白や黒や花柄の布は何なんだろう?』と不思議がることでしょうか。その頃は、みなさんが防毒マスクをかぶっていて、『こんな簡単なもので、ビールスや毒素を防げたのだろうか?』と、きっと訝(いぶか)しく思うのではないでしょうか。

 父の戦時中に撮った写真が、次兄の家に残っていると思います。東京の都心を歩いている父が、黒いマスクをつけている姿です。マフィ屋の親分のようにも見えないでもないのですが、風邪を引いた後のマスクで、人に移さないような配慮があったのではないかと思えてきます。今で言う「流行性感冒(インフルエンザ)」が流行していたのでしょうか。

 この313日からは、3年ほどの歴史のある「マスク着用」は個人の判断に任されられるようですが、気になるのは、つけるべきか、外していていいいのか、『他の人はどうするかな?』、なのでしょうか。「世間」は、どう判断し、どう決めているかが気になる日本人は、きっと迷うに違いありません。「他人の目」でしょうか。

 前からくる人が、どうしても避けているように、進路を変えているのに出会(でくわ)して、何とも言えない「疎外感」、「仲間外れ感」の思いに駆られるのは、私だけではなさそうです。聖書の中に、ライに冒された人が、道を行く様子が記されています。

 『患部のあるそのツァラアトの者(昭和46年版の新改訳聖書では「らい病人」と訳されてあります)は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、『汚れている、汚れている』と叫ばなければならない。 (レビ1345節)』

 ユダヤ人の旧約時代の世界では、「汚れ」に対する厳格な規定があったのです。聖なる創造者なる神さまは、異邦の民のさまざまな汚れに対して、ご自分の民が、その汚れに汚されないように、「聖さ」を求められたのです。それは差別とは違い、「区別」でした。ライに冒されたら、その人が回復することを願い、社会復帰できるような願いが込められていました。

 ですから、その感染の他者への拡散を防ぐために、つまり、その社会で共同生活をする人々を守るための決まりでした。この3年間のマスクは、感染を防ぎ、保菌者からの拡散を防ぐためになされてきたものでした。それでも、『コロナだ、コロナだ!』と叫んでいる人とは出くわさなかったと思います。

 私の信じてきた神さまは、汚れをきよめる(聖める)お方です。どんな汚れだって、「十字架の血(1ヨハネ1:7、ヘブル9:4)」、「聖霊(ロマ15:16)」、「みことば(ヨハネ15:3)」、「信仰(使徒15:9)」、「懲らしめ(ヘブル12:10)」によって聖めてくださいます。聖別会でではなく、信じた瞬間に、救いの一面としてです。そして漸進的にです。その途上に私はあり、感謝でいっぱいなのです。

 うっとおしいマスクですが、寒い日には、口元が暖かくて良かったのです。髭剃りを気にせずに、忘れたふりをしても、見咎められずに済んだのです。いったん慣れ親しんだものから、離れるには、けっこう難しいかも知れませんね。それにしても、『クソジジイ!」と言った、あのおばさんは、感染しないで済んだのか、ちょっと気にしてみたい、《もうすぐ三月ですね》であります。

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春の兆し


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 『春よ来い来い!』、陽の強さが増し加わってきて、もう隣村には春が来ているように感じられます。馬の背にのって、野を越え、川を越えて間もなく到来でしょうか。今日は、孫娘の公立高校の受験日です。受験準備で蓄えたものが発揮されますように!

 Reluxだね。  ジジババ応援団より

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「見よ。それは非常に良かった。」

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 『神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。そのようになった。 神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。 神は仰せられた。「天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」そのようになった。 神はかわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを見て良しとされた。 神は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。(創世記1711節) 神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。(同31節)』

 年度替わりの頃でしょうか、毎年、長く住み、子育てをした街で、「側溝掃除」があって、町内会総出で行ったのです。公共の場を保全するというのは、住民の責任ですから、側溝のコンクリート製の蓋を上げて、汚泥などを取り除きました。

 『空と海と地、そして人を汚すなかれ!』、宇宙も、海洋も、今や〈ゴミ〉であふれるほどにされています。この連日のニュースで、北朝鮮から発射した飛翔物が、日本海に落下したと伝えていました。大地震、津波、嵐、竜巻などによって、海に流入する生活物資は、驚くべき量に加えてなのです。

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 そればかりではなく、宇宙空間には、2年前の調べで、4400基もの宇宙船があるそうです。打ち上げられたロケットの破片などの残骸が、おびただしくあります。その数は、JAXAの報告ですと、一億個にも上ると言われています。

 そうしますと、宇宙や海洋の残留物の回収を行う国や会社や個人は、宇宙清掃社や海洋清掃事業を起こして、回収をする責任を負うべきです。子どもの頃、ゴミは隅っこに放置したり、近所の小川に流したり、埋めたりしていました。それではいけないとのことで、今や市町村の事業の一環として、ゴミの収集事業が行われて来ています。

 悲劇なのは、福島原発で流出した放射線で汚染された土です。その地域を訪ねた時、青いシートで覆われて、行き場がなくまだ放置されたままでした。そんなことで飛散はないのでしょうか、地に染み込んだり、飛んで行く成分はどうなのでしょうか。

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 さらに、流出し続けてるのは〈汚染水〉です。それを希釈して、海洋に流そうとしていることです。放射能で汚染されたものを薄めたって、気休めや言い訳なのかと持ってしまいます。その中を遊泳する魚や貝などへの影響はないと言えるのでしょうか。食の危険がでもありそうです。

 ものすごい出力を生み出すものには、そんな risk のあることが分かりながらも、その十分な対策が講じられずに、原子炉の利用が始まったことに問題があります。しかも私たちの国は、地震頻発国なのにです。やはり対策は後手後手です。

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 創造主から委託された天や地や空への責任を欠いた時代のツケが、返ってきているのでしょう。子どもたちの通った幼稚園で、「サツマイモ農園」に、サツマイモの苗を植える作業に駆り出されたことがありました。土いじりというのは楽しかったのです。そうして、鍬やシャベルなどの農具を、近くの小川からバケツに汲んだ水で洗ったのです。一人の若い先生が、その水を川に戻さず、農地に注いだのです。お百姓さんのお嬢さんなのでしょうか、水の大切さを知っておられて、感心したのです。

 もう、ずいぶん前になりますが、近い交わりの教会の宣教師や牧師の交流会、勉強会がありました。20人ほどいたでしょうか。みんなで食事を作って、後片付けをしていた時です。話に夢中で、水道の栓は、温水を流しっぱなしにしていた方の後ろに回った一人の老宣教師さんが、手を伸ばして、栓をひねって、無駄に流れる温水を止めていたのです。

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 水が豊かで、その有難さを感謝しないと、無駄がわからないのでしょうか。水の貴重さを知っている外国の方は、無為に水を流しっぱなしにできなかったのです。華南の街でも、お勝手で使った濯ぎの水を、流してしまわないで、大きなポリバケツに溜めていました。掃除やトイレの水に再利用されていたのです。神からの自然の恩恵に対する《感謝》が、無駄を省くこととなっているのだと学んだのです。

 測り知れない大空に煌めく星々、古代人は、さまざまに星にまつわる話を紡ぎました。地球に程よく位置する太陽もは、その距離、熱量、引力など、それを傾斜して受け止める地球も、誰が設計配置されたのでしょうか。romantic な気分にしてくれる月は、その引力で潮の干潮を生み出しています。地球も程よく傾斜軸があって自転して、季節季節を楽しませてくれ、太陽の回りを公転しています。

 この地球の水も土も空気も、すべて神さまが、人が生きていくために備えてくださったものなのです。進化で、ここにあるのではなく、濃度も成分も量も、『そうであれ!』と意図された神のご配慮で存在しているのです。だから《あるもの》への責務を、人は覚えなければいけないのでしょう。

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日の丸弁当とにぎり飯

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 「今日はなんの日」と言う掲示板が、私がときどき行く市立図書館の入口の壁に下げられてあります。『エッ、こんな日があるの!』と驚かされることもあります。いわゆる、「肉の日」の発想で、29日、毎月29日が、そう言われるようなダジャレや、語呂合わせのものが多いようです。

 410日が、「弁当の日」なのだそうです(「駅弁の日」だと言う人あるようです)。母親がいない時に、私は〈おやじ弁当〉を作って、子どもたちに持たせたことがありました。特別の自慢できることではないのですが、覚えているのは、食パンをトーストして、それにバターを塗って、チーズ、卵焼き、牛肉の焼いたもの、キャベツや玉ねぎやPマンなどの炒め物を挟んだsandwich で、けっこう人気があったと思います。

 『日本初の駅弁として定説となっているのは、1885年(明治18年)716日、日本鉄道から依頼を受けて「白木屋」という旅館が販売した駅弁です。 この日に開業した日本鉄道宇都宮駅で販売され、〈おにぎり二個、たくあん二切れ〉という内容でした。(全米販)』とありました。まさに東北本線の宇都宮駅が、駅弁の発祥駅なのだそうです。

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 小学校で、弁当を持ってこれない級友がいて、立たされ仲間でした。立たされ仲間でカンパして、コロッケパンをおごったこともありました。あの級友は、今どうしているでしょうか。戦後、お父さんを戦争で亡くした家庭は、今のような保障のない時代で、貧しかったのです。堂々として食べられなくて、隠して食べる子もいました。麦飯に、イカを細く切ったものを、醤油と飴のようなもので佃たものに、タクアンだけ入れてきた子もいました。

 小学校は、給食が始まる前でしたが、アメリカから贈られた〈ララ物資〉の脱脂粉乳のミルクは、みんなに配られていました。スキムミルクを飲むと、あの頃が思い出されてきます。同じ世代の願いは、〈腹一杯食えること〉で、貧しさをバネに生き抜いた時代でした。

 敗戦の惨めさを、食べられないことで味わっていた時代があったのが、嘘のような高度成長から今日までの豊かさです。この繁栄の背後に、そんな谷間があったのを、忘れてはなりません。

 父親に追い出されて、裏のお勝手のコンクリートの三和土(たたき/土間)に膝をついて、ごはんに味噌を乗せてもらって、泣きながら意地になってかき込んだ日がありました。『ごめんなさい!』が言えない、男の意地で、また寝所をさがいて、里山を歩き回ったのです。

(日本経済新聞の「日の丸弁当」、tenki.jp の「駅弁」です)

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農業の大切さの再考を

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 華南の海沿いの街に、記念館があって、見学のために訪ねたことがありました。昔の農具が展示されていて、つい先頃まで、使われていた物が置かれてありました。それは、東アジアに共通していて、子どもの頃に見て、触れたのと同じような農具が展示されてあって、興味津々でした。

 私たちの家では、父が勤め人の家庭でしたが、山奥から越してきた東京都下の街は、駅の近くなのに、まだまだ農耕地が広がり、農業が盛んで、通学路には、田んぼや畑があって、その間を歩いて学校に通っていました。

 田植え前の田んぼでキャッチボールをしたり、鬼ごっこもしたでしょうか。苗植えのための田んぼならしの農作業から、水の張られた田んぼへの田植え、田の草取り、稲刈り、稲の乾燥、脱穀、稲村積みなどの農作業を眺め、休耕の田んぼの間の登下校でした。

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 田んぼ作りに使っていたのが、「朳(えぶり)」と呼ばれていた農具だそうです。田植え前の田んぼの土をならす、T字型の道具で、野球部が練習を終えた後に、使っていたグラウンドならしのトンボと呼んでいた道具に似ています。地方地方によって、呼び方が違っていたことでしょう。

 その田んぼに入って、一度だけ、田植えの手伝いをしたことがありました。親指と人差し指と中指で、苗をつかんで、土の中にさす作業で、どうも苗をつかみ過ぎて植えてしまったようで、きっと後で、その植え直しが大変だったのではないかと、思ったりでした。

 足踏みの脱穀機に、刈り取った稲を入れる作業も、その様子を見ていた時に、『やってみるかい!』と言われて、させてもらった覚えがあります。稲刈りもしたのです。農作業というのは、大変なもので、「米」という漢字は、「八十八」と書くので、ぞれほどの作業をして、お米が食べられるのだと教えられました。

 華南の農村に行ったときに、三階建ての立派な造りの家に泊めていただいたのです。出稼ぎからの送金で建てた家々で、目を見張るような光景でした。窓から近くにある畑を眺めていましたら、耕運機ではなく、牛に農具を引かせて耕しているのを見て、なんだかチグハグで驚いたのです。立派な輸入車に乗っているのに、農機具が前近代的な、昔ながらなのが、mismatch で興味深かったのです。

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 そう言えば、栃木に来てから、散歩の途中で、農作業を見ることがあります。農薬散布は、ドローンを使っていました。また稲刈りは、畑の面積に比べて車体が大きすぎる程の稲刈り機が作業を開いていました。高級車の座席に座って、スーツを着ていても似合いそうな雰囲気だったのです。泥田の中に、草鞋のをはいて田植えをしたり、腰を屈めて鎌を使っての収穫をした頃と、雲泥の違いでした。

 アメリカの北西部の農村を旅していて、見かけた大規模農法の機械化が、狭い日本の地でも、機械の導入で行われているのは、それほどにしなくともいいにではないか、と思いながら、昨秋は眺めていました。

 田舎から出てきたお母さんでしょうか、竹で編んだカゴの中に、座れるように作られた背負子に、子どもがいたのを見たのです。バスを何度も乗り継いで、大きな街にやって来たのでしょう。まだ車社会になる前の華南の街の光景でした。それがまた熊に近代化してしまうのを、驚きを持って眺めていた滞在期間でした。

 農村育ちのご婦人たちと、一緒に山歩きに誘われて出かけたこともありました。着飾って、ヒールの高い革靴を履いてこられたのには、驚いてしまいました。ついに彼女は、靴を脱いで、裸足で歩いていました。米俵をヒョイと担いだ農村育ちで、伝道師のご主人よりも力持ちだったのです。

 薪で炊いたご飯に、野菜を煮たおかずで、食事の招待に呼ばれたこともありました。純農村、山を越え、川を渡って2時間も車で走ったでしょうか。日本にもあるような山里で、オリーブの木に実をつけていて、その収穫への招待でもありました。近代化しても、あそこの村は、今も変わっていないのでしょう。若者は、都会に出てしまい、お年寄りの社会でした。

(華南の博物館に展示されてある農具、朳、ドローン農薬散布作業の様子です)

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[旅に行く] 芭蕉の感性の凄さ

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 荒海や 佐渡に横たう 天の川

 芭蕉の作です。越後国の出雲崎の浜に立って、天空と海の彼方にとに目をやっています。海の向こうに「佐渡」を見て、見上げると、高遠な「天の川」が視界に入ったのでしょう。

 古人も、天空の不思議に心躍らせたのです。江戸時代、工場の煙突はなく、竈(かまど)や焚き火の煙が立つくらいで、空は澄み渡って綺麗だったに違いありません。夜空を散りばめる星々を眺めている芭蕉の感性には驚かされます。齢四十六の芭蕉は、現実ばかりを見る人ではなく、大自然に目を向けて感動しているのです。

 伊賀国上野に、寛永二十一年に生まれ、俳句を学ぶのですが、二十七歳の時に、江戸に出て行きます。俳人として生きていく芭蕉は、多くの弟子を持ち、彼らに慕われた人でした。

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 「旅を栖(すみか)とす」、李白のように「漂白の思いに駆られ」、「三里に灸すゆる」によって、陸奥(みちのく)に向かって、「過客」となって、深川の庵を出立するのです。芭蕉が使った「ことば」が素敵ですね。李白や杜甫の詩作に学んで、豊かな語彙を蓄えた人だったわけです。

 この人は旅好きだったのです。「奥の細道」の紀行を終えた後に、「野ざらし紀行」を著すのですが、江戸に帰って、また旅に出ています。ゆっくりとした時を過ごしていて、その好きな旅(お弟子さんを訪問の時です)の途上で、享年五十で亡くなっています。

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