「見よ。それは非常に良かった。」

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 『神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。そのようになった。 神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。 神は仰せられた。「天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。」そのようになった。 神はかわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを見て良しとされた。 神は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。(創世記1711節) 神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。(同31節)』

 年度替わりの頃でしょうか、毎年、長く住み、子育てをした街で、「側溝掃除」があって、町内会総出で行ったのです。公共の場を保全するというのは、住民の責任ですから、側溝のコンクリート製の蓋を上げて、汚泥などを取り除きました。

 『空と海と地、そして人を汚すなかれ!』、宇宙も、海洋も、今や〈ゴミ〉であふれるほどにされています。この連日のニュースで、北朝鮮から発射した飛翔物が、日本海に落下したと伝えていました。大地震、津波、嵐、竜巻などによって、海に流入する生活物資は、驚くべき量に加えてなのです。

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 そればかりではなく、宇宙空間には、2年前の調べで、4400基もの宇宙船があるそうです。打ち上げられたロケットの破片などの残骸が、おびただしくあります。その数は、JAXAの報告ですと、一億個にも上ると言われています。

 そうしますと、宇宙や海洋の残留物の回収を行う国や会社や個人は、宇宙清掃社や海洋清掃事業を起こして、回収をする責任を負うべきです。子どもの頃、ゴミは隅っこに放置したり、近所の小川に流したり、埋めたりしていました。それではいけないとのことで、今や市町村の事業の一環として、ゴミの収集事業が行われて来ています。

 悲劇なのは、福島原発で流出した放射線で汚染された土です。その地域を訪ねた時、青いシートで覆われて、行き場がなくまだ放置されたままでした。そんなことで飛散はないのでしょうか、地に染み込んだり、飛んで行く成分はどうなのでしょうか。

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 さらに、流出し続けてるのは〈汚染水〉です。それを希釈して、海洋に流そうとしていることです。放射能で汚染されたものを薄めたって、気休めや言い訳なのかと持ってしまいます。その中を遊泳する魚や貝などへの影響はないと言えるのでしょうか。食の危険がでもありそうです。

 ものすごい出力を生み出すものには、そんな risk のあることが分かりながらも、その十分な対策が講じられずに、原子炉の利用が始まったことに問題があります。しかも私たちの国は、地震頻発国なのにです。やはり対策は後手後手です。

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 創造主から委託された天や地や空への責任を欠いた時代のツケが、返ってきているのでしょう。子どもたちの通った幼稚園で、「サツマイモ農園」に、サツマイモの苗を植える作業に駆り出されたことがありました。土いじりというのは楽しかったのです。そうして、鍬やシャベルなどの農具を、近くの小川からバケツに汲んだ水で洗ったのです。一人の若い先生が、その水を川に戻さず、農地に注いだのです。お百姓さんのお嬢さんなのでしょうか、水の大切さを知っておられて、感心したのです。

 もう、ずいぶん前になりますが、近い交わりの教会の宣教師や牧師の交流会、勉強会がありました。20人ほどいたでしょうか。みんなで食事を作って、後片付けをしていた時です。話に夢中で、水道の栓は、温水を流しっぱなしにしていた方の後ろに回った一人の老宣教師さんが、手を伸ばして、栓をひねって、無駄に流れる温水を止めていたのです。

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 水が豊かで、その有難さを感謝しないと、無駄がわからないのでしょうか。水の貴重さを知っている外国の方は、無為に水を流しっぱなしにできなかったのです。華南の街でも、お勝手で使った濯ぎの水を、流してしまわないで、大きなポリバケツに溜めていました。掃除やトイレの水に再利用されていたのです。神からの自然の恩恵に対する《感謝》が、無駄を省くこととなっているのだと学んだのです。

 測り知れない大空に煌めく星々、古代人は、さまざまに星にまつわる話を紡ぎました。地球に程よく位置する太陽もは、その距離、熱量、引力など、それを傾斜して受け止める地球も、誰が設計配置されたのでしょうか。romantic な気分にしてくれる月は、その引力で潮の干潮を生み出しています。地球も程よく傾斜軸があって自転して、季節季節を楽しませてくれ、太陽の回りを公転しています。

 この地球の水も土も空気も、すべて神さまが、人が生きていくために備えてくださったものなのです。進化で、ここにあるのではなく、濃度も成分も量も、『そうであれ!』と意図された神のご配慮で存在しているのです。だから《あるもの》への責務を、人は覚えなければいけないのでしょう。

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