秋よ来いの心境です

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 咲いても、一輪車か二輪だった朝顔が、少し気温が低めになってきたからでしょうか、十輪以上も開くようになりました。

 8月7日が立秋でしたから、それから2週かも経って、八月下旬、甲子園の高校野球も、明日は決勝を迎えます。石橋高校、大社高校の活躍を、「バーチャル高校野球」のサイトで観戦し、甲子園に行って観たいと思ったほどの今夏でした。
 
 天気の長期予報は、
十月頃まで、この暑さは残ると言っていましたが、もうおごっそさんで、十分です。まだ赤とんぼの舞う姿を見かけませんが。満を持している感じがして、『秋よ来い🍂』の心境です♪

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やっと、でしょうか

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 さしもの猛暑も、昨夜は涼しくなって来たようです。虫の音が聞こえ、秋を告げ🍂、やっと一息つけそうです。

 iPad が、雷様(雷様)の大暴れで、落雷や停電の影響でしょうか、Wi-Fi をcatch できなくなってしまいました。昨日は、息子が診断してくれ、iPhone で操作を指示してくれましたが、要を得ず、週末に駆け付けてくれるようです。

 今日は、最高気温予報は32℃で、午後は雨のようです☂️。降り方が半端ではありません。文句なし、生きていますのでご安心ください。

(5点セットのベランダと室内の花々です)

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男のけじめ

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 父が、『急に老けてしまった!』のを感じた時がありました。父が34歳の時に、三男として生まれた自分でしたが、この自慢の父親は、男五尺強、十六貫で、dandy だったのです。

 背丈はありませんでしたが、明治男の標準で、恰幅は良かったのではないでしょうか。東京圏の出身で、都会的な sense を持ち合わせていたのです。身の回りには、日本橋の三越で、誂(あつら)えた背広、Yシャツ、黒川靴、ネクタイ姿で、お洒落に颯爽と電車通勤をしていました。

 また持ち物は少なかったのですが、それを大事にする人でした。子ども心に驚いたのは、Yシャツの襟や袖口が擦れてくると、裏返しに出して使い続けていました。しかもクリーニングに出したYシャツに、母にピカピカに磨かせた靴を履いていたのです。

 病んで伏せている父を見たことがありませんでした。熱があると、熱いお風呂に入って、鉢巻をして、『ウーン!』と唸りながら寝ると、翌朝は定刻に起きて、朝餉を終えると、着替えて通勤してしまうのです。医者とは縁のない様に見えたのです。

 ところが、通勤の小田急電車が急ブレーキをした時に、くも膜下出血を起こしたのです。丈夫だったと自負していたので、自分では軽いと思っていたのでしょう。しばらく放っておいたのですが、けっきょく地元の市立病院に入院してしまったのです。

 その頃は、すぐ上の兄のジャンバーを羽織り、運動靴を履いて、退職後の第二の職場に通勤ていたのです。自分の会社をいくつか持っていたのに、それを畳んだか、人に譲ったのか、洒落(しゃれ)男が変わっていく様子に、驚いたのです。もう構わなくなってしまっていました。六十前でしたが、父の変化に驚いていたら、退院する朝に、脳溢血を起こして、そのまま亡くなってしまったのです。それは衝撃的でした。

 父が六十一で召されて、父よりも二十近く長生きをしている今の自分を、ちょっと距離を置いて眺めてみると、ずいぶん構わなくなってきたのに気づくのです。着なければならない時のための背広もYシャツもネクタイも残してありますが、着る機会がありません。

 この人生の cycle の変化を、しっかりと受け止めなくてはいけないのかも知れません。『もういいよ!』と言わないための努力が必要になってきている様です。ちょっと出かける時も、『好きな娘(こ)に会ってしまう時のために!』と、気配りを怠らなかった頃の思いを忘れずに、世間に対しても、みすぼらしくない様にする努力が必要なのです。

 「笑」が何十個もプリントされた物、賛美チームの物、シンガポールの名所をプリントした物、もう何年も何年も着古して、Tシャツは色褪せ、生地が薄くなり、襟元が破れてきています。そんな着古した物を着ている自分も、もう十分に、草臥(くたび)れてきているのです。

 ところが、ユダ族のカレブは、モーセに次ぐ指導者とされたヨシュアに、次の様に言っています。

『今、ご覧のとおり、主がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。
しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。(新改訳聖書 ヨシュア記 14章10~11節)』

 彼は、八十五歳になる自分が、四十歳の時と同じ様に『今も壮健です。』と、カレブは言ました。自分の氏族の受けるべき相続分を、そう言って願い出たのです。人は外観だけでなく、やはり内面なのでしょう。ボロをまとえども、心は輝かせているべきです。
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 信長は、「人間(じんかん)五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり、一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」と、「敦盛 幸若舞(こうわかまい)」を舞ったのですが、私は、26の時に、人生に永遠の希望を持たせていただいて、半世紀強を生きてきました。恥多いこれまでですが、悔いなし、罪を赦され、死を恐れずに、明日への望みを得て、今を生きられて溢れる感謝でおります。

(ウイキペディアによる父の生まれた街の市章、織田信長像です)

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当たりなのか外れなのか

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 「親ガチャ」と言う言葉がある様です。おもに若者が、自分の親を評して、そう言うのだそうです。この「ガチャ」は、スーパーの入り口でしょうか出口に、子ども相手に、100玉を入れて、ガチャガチャとノブを回すと、何が出てくるか分からない、プラスチックの入れ物に入った、人形などが出てくる、あれです。

 百円の価値などない物に、出たとこ勝負、運などによって手に入れ様とする、賭け勝負の遊びの子ども版だと言えそうです。けっこう、あの機械の前にしゃがみこんで、誘惑されている子どもたちを多く見かけたものです。でも、そう言った光景を、最近はあまり見かけません。

 ガチャガチャの機械は、今は廃れて、入り口にロープで閉鎖され、閑古鳥が鳴いていて、いつもの散歩コースにある大駐車場を持った、大人版のパチンコ屋と同じなのでしょうか。〈何が出るか?〉、〈どれだけ出るか?〉で誘っている点で、似ています。儲かるとか、得をすると言った、努力や研鑽や克己などとは全く違った思いを、幼い子どもたちに植え付けてしまっていたのです。

 わが家は、ガチャをさせないで、けっこう厳しく、尻叩き(英語ではスパンクspank と言います)までされた子どもたちなのです。そろそろ五十代になっている今、ほんとうは、「親ガチャ」なのに、『よく育ててくれた!』と、とくに娘たちが、lip service をしてくれています。彼らには、《当たり🎯》だったのでしょうか、〈ハズレ!〉だったのでしょうか、今や親が、歳を重ね、しかも病気がちで、気の毒で励まそうとして、そう言うのでしょうか。

 でも「スポ少」と言う、家に籠りがちの子どもたちに、強くなって欲しくて、スポーツをさせようとする願いからでしょうか、野球やバスケットボールやサッカーなどが盛んに行われていて、それはさせてあげたのです。今頃の季節には海水浴にだって、よく連れ出しました。あの高額な入場料のディズニー・ランドにだって何度も連れて行ったのです。

 賭け事の子ども版に踊らされた子どもたちが、ちょっと大きくなって、それと同じで、親を選べない現実と、当たり外れ、外ればかりのガチャガチャに絡めて、「親ガチャ」と言うのです。外れガチャこそが、自分の両親だと思わせてしまったのは、随分と子どもたちは不幸ではないでしょうか。

 父に愛されて育った私は、〈内弁慶〉だと言われました。家では威張っていて、外ではからっきし弱虫なのです。そんなで病弱な私を強くしようと、『泣いて帰ってきたら、家に入れないぞ!』と、父は言ったのです。殴られても、泣いて尻尾を丸めるのではなく、殴り返す様にされて、相手が give up するまで頑張ってしまう子になってしまったのです。

 もしかしたら、「子ガチャ」、「教師ガチャ」、「市長ガチャ」、、今日日、関西圏には「知事ガチャ」がいるのでしょうか、どこでも大騒ぎをしている様です。「首相ガチャ」だと騒がれて、退陣して、首長の座を下りるニュースで、日本が驚いているとかですか。

 ある聖書の言葉に、私は励まされて、『生きていていいんだ!』と思わされたのです。

『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(新改訳聖書 イザヤ43章4節)』

 ヤコブ(後に、主なる神によってイスラエルに改名されています)の子孫が、不信の子、不従順な子、つまり「子ガチャ」なイスラエルの民を、族長たちとの契約の故に、「高価」、「尊い」と言う風に見て、遇してくださると言う箇所です。自分も、ずいぶんなガチャ人間でしたが、キリストに故に、「高価で尊い」とされ、愛を実感できたのです。ただ憐みのゆえでもあります。
 
(ウイキペディアによるガチャガチャです)
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大社高校、準々決勝へ

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 甲子園に、驚くべき勝利の雄叫びが上がりました!
 山陰島根の大社高校が、西東京代表の早稲田実業高校にサヨナラ勝ちで、打ち勝ち、投げ勝ち、応援勝ちしました。
 この大社高校は、亡き母の故郷の代表です。母は、女学校に行きたくても行けませんでした。勝ち気で、今市小町と噂の高かったと言われたのだそうですが、涙を飲んで勉学の道をあきらめて、郡是(グンゼ)の工場で働きました。
 そんな背景があって、島根には特別な思いがあり、出雲の地の高校が勝ったことを、今宵は喜んだのです。
 父が学んだのは、市立の旧制中学校で、ある家庭の事情で、東京府下の私立中学校に転校しています。高校野球では、時々名の上がる学校ですが、中学校野球をやったかどうかは聞きませんでしたが、一緒にキャッチボールをしてくれたほど、野球好きでした。
 とにかく、そんな縁(えにし)があって、嬉しいのです。百年前の甲子園で行われ始めた、中等学校の野球大会にも出場したチームで、早稲田実業も共に選ばれていて、百年目の対決だったそうです。大社高校は、107年ぶりに2勝目を挙げた様です。
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 大方の予想に反しての勝利、準々決勝への8チームに選ばれたことになります。19日に、鹿児島県代表の神村学園高校と対戦します。暑いのは日本列島、さらに熱いののは甲子園です。準々決勝に進むすべてのチームの健闘を願っています。

(ウイキペディアによる大社高校、こうしえんです)
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台風一過

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 台風予報で、『車が横転するほどの強風が吹く恐れがあり、十分注意を!』と言われたほどの7号台風でしたが、朝5時には、穏やかな空でした。ベランダでは、いくつもの朝街が開いています。まさに台風が通り過ぎた穏やかな、栃木巴波川のほとりの朝です。

健闘を讃えて

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 第106回高等学校野球選手権大会(於甲子園球場)に、栃木県で栄冠に輝いた、県立石橋高校が出場しました。一回戦では、宮城県代表の聖和学園高校に、5対0で勝利し、二回戦に進みました。今日の第三試合で、青森山田高校に、0対5で、惜しくも負けましたが、その健闘に元気をもらえたのです。

 県立高校の出場校数が少ない大会で、ここまで善戦したことを、県民の一人として喜びたいのです。専用球場もなく、練習時間も少ないのだそうですが、与えられた条件や環境の中で、精一杯励んだことに拍手したいのです。県大会でも、本県の雄である作新学院、国学院栃木校をくだしての全国大会への出場でした。

 この石橋高校は、1924年(大正13)に創立されていて、県内でも有数の進学校なのです。家内の通院する獨協医科大学病院から、バスに乗車して、宇都宮線(東北本線)の石橋駅まで、バスに乗ったことがあり、その途中にある学校なのです。

 「文武不岐(ぶんぶふき)」を掲げて創立された学校で、野球部は、1935年に創部されているそうです。国公立大学に多くの卒業生が進学している様です。公立学校の健闘は、素晴らしいことです。猛暑の中に、味合う清涼な水の様に、爽やかにされたことに感謝したいのです。

(写真は、ウイキペディアと石橋高校のHPからです)
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美しい日本語に接してきて

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「操作」、デジタル大辞泉によりますと、
読み方:そうさ
[名](スル)
1 機会などをあやつって動かすこと。「ハンドルをーする」「遠隔操作」
2 自分の都合のよいように手を加えること。「株価をーする」「帳簿をーする」
とあります。

 誰かが、または何かの団体や国家や組織が、ある目的のため、奸計を行うために、故意に、意図的に圧力をかけて、世の中の動きを Control してきているように、最近、思えて仕方がありません。「特別警戒」と言って、NHKがニュースで言い始めて、それで日本中が大慌てを起こしてしまったのです。観光地の宿泊キャンセルがたくさんあったほど、大きな影響がありました。

 言葉を伝えるマスコミで、文字や言語の中に、以前とは違ったものを感じてなりません。情報に伝え方です。それでなくても、この数年の砂漠の様な、夏の暑さに見舞われていたのにです。専門家が大慌てしてしまった煽りで、社会不安を生んでしまったのです。緊急なことは、もっと注意深く発信して欲しいのです。

 日頃感じていることですが、その一つが、ニュースなどの言葉に、カタカナ語が濫用されていることです。辞書を引かないと、意味がわからない表現が多くなっていることです。もしかしたら、意味をぼかして伝えようとする意図が感じられてならないのです。厳粛さが伝わらないようにしている様に、パニックが起こらない様にと、何か操作が感じられてなりなりません。

 美しくて、意味深調な表現のできる日本語があるのに、日本語を使わないで、とくに英語、たまにフランス語が、カタカナ語、たまにはドイツ語で書かれ、語られています。今は、ニュース原稿や、官庁のコメントなどを作成する文書方が、若い人が担当されているのでしょうか。その書き上げた文書を、点検する機能が働いていないのではないかと勘ぐりたくなります。

 英語には、nuance(ニュアンス)の違いだったり、at、on、for、inなどの助詞をつけたりすると、意味が全く違う場合が多いのを学んだのを思い出します。そんな戸惑いを覚えながら、中学生になってから、英語を初めて学んだ日を覚えているのです。その担当をされたのは、高等部の教師で、私たちが三年生になる頃は、有名な大学に、フランス語教師として転身されて行かれました。

 英語が、こんなに豊かな表現をしているのに驚かされ、そんな風にしての学習も楽しかったのです。そればかりではなく、国語の担当教師が、一人は僧侶で、教科書を教えてくださり、もう一人は、特別講義をされた高校3年の担任の先生でした。「奥の細道」の小冊子を買って、それを教科書にして学んだのです。文語体、古い日本語を学ぶために、素読しました。その文章の簡潔さ、言葉の重さを感じて、私は、すっかり虜にされたのです。

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『月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、
 草の戸も住替る代ぞひなの家
面八句を庵の柱に懸置。』

 『なんと美しい言葉、文章なのだろう!』と驚き、芭蕉と曽良の旅姿が想像でき、その旅先に行ってみたいと思わされたほどでした。そんな心打たれた中学一年生だったのを覚えています。まだヒゲが生える前だったのに、気分は、もう高校生になったような不思議な気持ちでした。

 自分の国の国語を、もっと大切にして、誇るべきではないでしょうか。英語への憧れは、大谷翔平ではありませんが、やめた方が良さそうです。家庭の中で、歯切れの良い父の語る言葉、母の穏やかでやさしい表現の言葉で育てられたのです。日本人は、受け継いできた文化や習慣や言語に、もっと自信を持つべきだと、仕切りに思うのです。その上で、諸外国語に慣れ親しんでいったらいいのです。元禄二年八月十六日、敦賀で次の句を、芭蕉が詠んでいます。

寂しさや 須磨にかちたる 浜の秋

(ウイキペディアによる芭蕉の旅立ち、葛飾北斎の描いた芭蕉の旅姿です)
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隣人を喜ぶ

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 先一昨日の夕方、大きなスイカを頂いたそうで、近所の方に分け、残りの半分を、汗を拭き拭き、玄関に持たれて、知り合いがやって来られました。私たちにも食べさせてあげたいと、家内が散歩で出会ってから、よくおいでくださって、この街の情報や歴史を知らせてくださるご婦人なのです。

 一人暮らしで、長く、接客のお仕事をされた方で、時には写真や、新聞の切り抜きを持って訪ねてくれます。私たちが若い頃から存じ上げている方の親戚で、この街に住んでおられて、そんな方と出会うといのも不思議な出会いで、家内の親族の出の街の近くの出身でもある様です。

 『袖触り合うも他生の縁!』でしょうか、電車の向かいの座席に座っている方、財布を拾って案内所に届けてくださる方、スーパーのレジに並んで前後している方、壁一つで隣り合っている方など、人との出会いやすれ違いや隣り合わせは、何か偶然ではない様に感じるのは、人との関わりが大切なのだとの証なのでしょうか。

 「隣人」の権利を冒したり、偽証をしたり、蔑んだり、憎んだり、悪を図ったりすることを、「聖書」は、見逃さずに、禁止しています。若い頃に、JR中央線の電車から、外を見ていますと、沿線の高架の車中から、[遠くの親戚よりも、近くの◯屋!]と言う看板を見つけたことがありました。

 それは、『もし、あなたが困ったら、遠い親戚に頼るよりは、ここ[質屋]を頼っておいでください。当座の必要をお貸しします!』との宣伝広告だったのでしょうか。聖書の箴言の中に、

『あなたの友、あなたの父の友を捨てるな。あなたが災難に会うとき、兄弟の家に行くな。近くにいる隣人は、遠くにいる兄弟にまさる。(新改訳聖書 箴言27章10節)』

とあるのです。世帯を持ってから、この質屋に行ったことがありませんでした。人にお金を借りたたことが一度だけありました。教会学校で、バンの車が必要になって、それでキャンプに参加できたらいいな、とお金を借りて、買ったのです。それは、完済しましたが、それまでの間、〈貸し手の奴隷〉になった様に感じてなりませんでした。借金までして買う必要はなかったかなと、今になると思うのです。

 それ以降、財布の中にお金がなくても、借金だけはせずに過ごすことができました。『俺の手で家族の必要を満たす!』と思いながら生きてきましたが、健康を支えられ、怪我をした時には、友人や兄弟が助けてくれたのであって、何一つ己の力などにはよりませんでした。自分の力によったのではなく、いつも助けが、ちょうど良いほどに、ちょうど良い時に与えたれて、今日を迎えています。

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『だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。(新改訳聖書 ローマ13章8節)』

 これは、手ずから働いて、地中海世界に伝道を繰り広げて、キリストの教会を生み出し、そこに仕える者たちを養成したパウロが言った、愛だけは借りても良いと言う勧めです。隣人の存在も、神の配剤のひとつなのでしょう。主の名を辱める様な生き方から、免れて生かしてくださったことの感謝しております。

 母が父と死別して、次兄が、母のその後を看てくれたのです。支給されてていた遺族年金を、母は蓄えていたのでしょう。母の亡くなった後に、郵便局から連絡があったと兄から連絡をもらいました。そのほとんどの部分を、病んで帰国し、入院治療をしていた私たちがもらうことができたのです。それは大きな助けでした。

 心を励ましてくださる、川向こうに隣人夫妻がいて、一緒にチェロ演奏のビデオを鑑賞する機会を設けて、誘ったりしてくださったり、闘病の知恵をくださったり、一昨日は、本を貸してくださるために、ご婦人が訪ねてくださり、一緒におはぎを茶菓に、お茶を淹れて飲み、談笑しました。ゼリーのお土産まで持参してくださったのです。隣人と家族に恵まれて、今を過ごしております。

(ウイキペディアの切スイカ、巴波川です)
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