津田梅子

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私の同僚に、津田塾大学を卒業された才媛がいて、後に校長になっておいでです。この津田塾を開学したのが、次期五千円札の肖像となる、津田梅子です。父、津田仙は、江戸時代の末期、下総佐倉藩士の家に生まれ、津田家に養子として入り、明治維新以降、北海道開拓使の嘱託となり、後に、青山学院や盲学校の設立に関わっています。

梅子は、1871年、六歳で、アメリカに留学しています。父の上官、黒田清隆の薦めで、仙は梅子を応募させ、選ばれて、太平洋を渡るのです。両親は、どんな思いで、黒船を送り出した未知の国に、いたいけのない娘を留学させたことでしょうか。小学校一年の年齢です。梅子は、健気にも、ワシントン近郊のジョージタウンで過ごしています。在米十数年、親元を離れて生活をしたのです。

私の次女も、梅子とは比べられませんが、15才で、ハワイの高校に入学しています。友人が受け入れてくださって、3年間、アメリカで教育を受けたのです。ある時、家内が、その娘の様子を見に、ハワイに出掛けたことがありました。空港で別れ際に、大粒の涙を浮かべて、母親を見送っていたそうです。推して知るべしで、梅子にも涙があったことでしょう。
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梅子と同時期にアメリカに留学した女子の中に、後に大山巌(薩摩藩士、明治政府では陸軍大臣、文部大臣を歴任している)夫人となる、山川さき(母親が『捨てて帰国を待つ』との思いでアメリカに留学させるにあたって、「捨松」と改名しています)がいて、年齢の上の捨松が、梅子の面倒をみた様です。150年も前の、しかも女子の留学をしとげたのは、驚きです。

梅子は、女子教育に生涯を捧げ、帰朝後は、華族女学校で教壇に立ち、三年余後に、再びアメリカに留学します。1900年に「女子英学塾(津田塾)」を開学しています。この学校では、学生の主体性を重んじて、校歌、校章、校旗を持たないのです。『自ら学び、考え、行動せよ!』を、建学精神としています。

(右から二人目が津田梅子です)

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夕暮れには

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「潮時」と言うことばも、誤用が多いと言われています。

平成24年度の「国語に関する世論調査」で、「潮時」の意味を尋ねました。結果は次のとおりです。(下線を付したものが本来の意味。)

(ア)ちょうどいい時期・・・・・・・・・・・ 60.0%
(イ)ものごとの終わり・・・・・・・・・・・ 36.1%
(ア)と(イ)の両方・・・・・・・・・・・・ 2.5%
(ア),(イ)とは全く別の意味・・・・・・・ 0.4%
 分からない・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1.0%

それで、「ものごとの終わり」と思って使う人には、「引き際」を使う方がいいそうです。「潮時」は、本来は、“ good timig” という意味で使われるべきなのです。

私は、学校を出てから5年間働いた職場を退職しました。その後、36年間勤めた職場を辞し、昨年まで、13年間、仕事をした中国から帰国しました。我が儘な理由ではなく、「引き際」を確信したからです。それが正しい決断であったかどうかは、転職後が、どうだったかによります。

『石の上にも三年!』と言われるのですから、5年も、36年も、13年も、《合格点》をもらっていいのかも知れません。何か知れない大きな手が、自分の将来を決めて導いているのを、何時も感じたのです。「潮」は、満潮で満ちてくる時と、引き潮で引いていく時が、交互になされていますので、好ましいことが満ちて到来した時と、引くべき時の到来と、自分に都合や感情で、使ってしまうのでしょう。

この場所の終了後、豪栄道というお相撲さんが、惜しまれつつ、相撲人生に終止符を打ちました。「引き際」を、よく心得た決断だった様です。体力よりも、気力の衰えがやってくると、激しい稽古を必要とする競技は、続けられなくなるのでしょう。誰にでも退潮の時、引退すべき時がやってきます。

称賛を一身に浴びたスターにも、どの世界の指導的存在も、一日に、朝があり、夕がある様に、「夕暮れ」がやってきます。ところが、私の愛読書には、『夕暮れに、光がある!』とあります。人生の晩期に、枯渇や闇ではなく、煌々と輝く光が溢れるのだと言うのです。私たちの明日が、光り輝くとしたら、今日を感謝と喜びで生きていたいと思います。

(“趣味のアウトドアー” からです)
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遠足

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昨日は、冷たい日でしたが、北風が弱かったこともあり、意を決して外出しました。若き友人の運転で、市の郊外にある「花センター」に連れて行ってもらったのです。蘭の花が綺麗に咲き誇り、熱帯や亜熱帯の植物園で、懐かしい花や木々を眺めて歩きました。週日でもあり、貸切一歩手前といった温室でした。

一年有効の入管パスポートを買いましたら、同額の買い物券をいただいてしまいました。もう少し暖かくなったら、また訪ねたいなと思って、日本蕎麦を食べて帰宅したのです。久しぶりの「遠足」でした。おにぎりと沢庵を持って、もう少し暖かくなって、芝生の上で、それを広げて食べられたらいいな、と思ったところです。

娘たちの代わりを、買って出て、遠足にお誘いくださった友人は、五歳の女の子のお母さんで、子育て真っ盛り、お嬢さんを幼稚園に送って、迎えまでの間、私たちの世話をしてもらったわけです。今、"春よはやくこい!"の《ミヨちゃんの心境》です。

(iPhoneで撮って送信してくださった写真です!)

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北里柴三郎

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新しい紙幣が、2023年に発行されるそうです。一万円札は渋沢栄一、五千円札は津田梅子、千円札は北里柴三郎の肖像が決められています。渋沢は埼玉県深谷市の農家、津田は新宿在住の幕臣、北里は熊本県小国町の庄屋の出身で、それぞれ、素晴らしく社会貢献を果たした人たちでした。

病弱だった私は、医学の助けを受けて、助かったのだと母に言われてきました。『今度肺炎になったら死んでしまいます!』と医師に言われ、咳や熱やだるさがあると、学校を休んで、隣町の国立病院に、母に連れて行かれて診察してもらいに行ったのです。

帰りに、粉薬と水薬をもらって、駅の近くの売店で、アメリカ製のガムやキャラメルやレーズンを買ってもらえて、病院通いは苦痛ではありませんでした。でも、学校に行けなかったのが、悔しかったのですが、休んで床についていると、少しでも元気になって欲しくて、リヤカーで引き売りする魚屋さんから、母が、「刺身」を買って食べさせてくれました。

病んで兄弟よりもいい目にあったので、病いとの対決意識がなく、死にそうな病に罹って治ったなら、『医者になろう!』と思ってもよいはずなのに、そんな願いを持つことはありませんでした。でも、病理学者の北里柴三郎は、尊敬できる日本の誇りだと、子ども心に思っていました。

阿蘇の麓にある、北里柴三郎の出身地の小国町には、友人に連れて行ってもらい、訪ねたことがあります。阿蘇の雄大な地形の中にある街で、青々とした牧草で溢れていました。その功績を、次の様に残しています。
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『1886(明治19)年、ベルリン大学に留学し、結核菌やコレラ菌の発見で世界的に有名なロベルト・コッホのもとで研究をはじめた北里博士は、「破傷風菌の純粋培養」に成功し、師のコッホをあっといわせました。破傷風は破傷風菌が傷口などから体内に侵入して増殖すると、細菌がつくる毒素によって、けいれんなどの症状があらわれ重症になる疾患です。当時、破傷風菌を単独で取り出して純粋培養することができず、有効な治療はありませんでした。
北里博士は破傷風菌の毒素を少しずつ動物に入れると菌の毒に対する耐性ができて、大量の毒素を注射しても発病しないことを突き止めました。この研究の成果をもとに、破傷風の血清療法を生みだし、伝染病の予防に大きく貢献しました。その後、この血清療法をジフテリアに応用するなど、免疫医療の先駆者として高い評価を受けました。(この他にも、ペスト菌の発見、慶應大学医学部や北里大学の解説にも尽力しています)』

軍人志望から、『医者の使命は病気を予防することにある」!』と思い立って、医学に目を向けて、予防医学に、生涯を捧げた78年を捧げて生きた人でした。

(熊本県阿蘇山麓の風景です)

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胡蝶蘭


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我が家で一番混み合ってる箇所に、「胡蝶蘭」の鉢があり、花を落として、しばらくしてから、新芽が出てきて、今週、花が開きました。今朝は、今冬一番のマイナス5℃、体感マイナス7℃だった様です。そん中に、花が咲いているのは、素敵です。

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三度の飯

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Vintage engraving of Japanese art, Yedo by night, 19th Century. Edo, also romanized as Jedo, Yedo or Yeddo, is the former name of Tokyo. It was the seat of power for the Tokugawa shogunate, which ruled Japan from 1603 to 1868.

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江戸時代の中期の「狂歌」に、花道つらね作の、次の歌があります。

たのしみは春の櫻に秋の月夫婦中よく三度くふめし

楽しくさせてくれるものの内に、「夫婦中良く三度くふめし」があるというのは、実に私の実感でもあります。空の巣になってから、そんな日を重ねてきているからです。子どもや友人が来て、一緒に食事をすると、決まって、『みんなで食べると美味しいね!』と家内が言うのです。それで、『みんなで食べるのも美味しいね!」と、言い直してもらうのです。二人で食べるのだって、美味しいからです。

そんな家内が、〈小旅行〉、いえ家出したこともあったのです。もう三度、私と一緒に食べられない心境になったからでしょうか、プイと、無断で出て行ってしまったのです。母の小旅行に付き合った経験が、小学生の頃にありましたので、『ブルータス、お前もか!』で、意に介さなかった、いえ、ほんとうは慌てふためいてしまったのです。

春や夏に、何度も行った「清里」が、家内と上の息子と長女、そしてお腹の中の胎児の行先でした。母が、義母に諭された様に、やっと泊めてくれた民宿のご夫婦に諭されて、帰ってきました。あれから、四十数年経ちますが、家内は、そんあ小旅行に何度か行きたかったこともあったのでしょうが、繰り返さないで、我慢をしてきての今です。

田沼意次の時代、人気歌舞伎役者の五代目市川團十郎(花道つらね)夫妻だって、紆余曲折、二人の間に、漣(さだなみ)や中波が揺れ動いたことだってあったに違いありません。それを越えての狂歌なのでしょう。養子の身の上で、そんなに幸せな幼少期を生きた人ではなかったそうですが、それだから、花道は、家庭とか夫婦のあり方を大事にした人だったのかも知れません。

〈三度の飯〉って、作るのは、随分と面倒なものなのだと言うのが、この一年あまり身にしみています。家内が入院中は、見舞いを終えて夕暮れ時、電車を下車して、時々スーパーで見かけた、単身赴任のおじさんと同じで、弁当の値引きの残りを買って、簡単に味噌汁を作ったり、インスタントですませたのです。

自分が炊事当番になって、母も家内も、黙々とよくやってくれたものだと感謝が湧くのです。犬が倒れたみたいに、ワンパターンの献立で、煮魚、おひたし、漬物、しじみの味噌汁の連続です。これでは食傷気味になるでしょうね。“ クックバッド ” は、敷居が高くて、真似できません。さあ、今晩は、鮭と茹でアスパラとキムチと大根の漬物かな。

(江戸の街の光景です)

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また、今

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高校の同級生に、いくつかの〈グループ分け〉がありました。1つは、幼稚園、小学校、中学校と、上に上がってきたグループです。もう一つは、公立小学校を終えて、中学から入ってきたグループです。もう一つは、高校から入ってきたグループです。因みに、私が高校を卒業した翌年、大学ができましたから、けっこう少人数でしたが、幼稚園から大学まで、〈18年間〉の一貫教育を受けた同窓生がいます。

幼稚園からきた同級生は、その結束や仲間意識が強くて、中学から入った私には、見えない垣があって、どうしても入り込むことができませんでした。やっぱり、彼らには〈エリート意識〉があったのでしょう。また、高校から入ってきた同級生は、都立に入れなくて、第二か第三志望で入ってきている同級生が多くいましたので、若干〈コンプレックス〉が見えました。

その中学から、その地域のトップクラスの都立に合格し、有名国立に行った同級生もいました。その反面、高校に上がれなく、ほかの私立高校に行った者もいました。お父さんが亡くなった経済的な理由や、その他には、素行の問題もあった様です。

世の中って、意外と厳しいものがあるのを、年齢を重ねるにしたがって知ることができます。自分が仲よかった同級生が、他の高校に行き、ヤンチャをやっている噂を聞いたりして、会えずじまいで今日まできています。

高校に入学して、一学期に、途中で入学してきた同級生が数人いました。私立ですから、経営上の問題があって、入学を許すのでしょうか。まさにヤンチャ、いえ不良そのもので、それが少年隊に入れる様な〈いい男たち〉でした。仲良くなって、どんな生活をしてるかを話しの中で聞いたりしました。こちらも目立っていたから、同じ匂いがしたのでしょうか。

洋服屋に行くと、自分の着て行ったのを脱いで、吊るされているお気に入りを着込んで、逃げて、新品を手に入れるとか、女性問題とかで、相当悪どいことをしていたのです。そう言った途中入学者は、転入後、間もなくしてやめていきました。こちらは運動部に入っていたりで、悪交際に深入りしなかったのは、幸いした様です。

自分のことも、そう思われているのでしょうけど、あの連中は、今頃どうしているのかな、と時々思い出します。ちゃんとお爺さんをしているのでしょうか。けっこう真面目になって、好々爺だったりしてるのでしょうか。全く目立たなかった〈いい子〉の方が、悲惨な人生を生きていたかも知れません。人生、悲喜交交(ひきこもごも)でしょう。

やめさせたくなかった、〈工事中/成長途上〉の教え子を、庇ったのですが、教師会の決定は、〈自主退学〉の名目で退学処分にしてしまったのです。庇い切れなかった非力を感じ、翌年、その学校を辞しました。自分の〈工事中〉に、いろいろとあって、今、〈工事中〉の孫たちの無事の成長を願い、そんなこんなで、こんなに素晴らしい《今》があります。

(武蔵野の中程を流れる「玉川上水」です)

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100秒

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ブラジルに農業移民をした、私の家内の長兄は、入植後、同時期に働き始めた仲間の自死、その埋葬を痛烈な悲しみの中で体験します。挫折から立ち上がり、自営を目指したのです。ある時、出会った方に「時計修理」の技術を教えてもらい、サンパウロから1時間ほどの街のマーケットの片隅で、時計修理業の店を始めたのです。

開拓地から、馬に乗って持ってくる時計の修理をしながら、勤勉に働いて、事業を大きく拡張していき、まあまあの成功をおさめた様です。土地を買って家を建て、子育てをし、夫人の家族を呼び寄せたそうです。私は、ブエノスアイレスの大会に参加した帰りに、義兄を、この家に訪ねたことがありました。間口の狭い店でしたが、流行っていました。その義兄の店の名が、「ビッグ・ベン」だったのです。ロンドンのウエストミンスター宮殿の時計台が、そう呼ばれていて、その名を、義兄は借用したのです。

我が家にも、昨秋買った壁時計が、振り子を振り続けて、時を刻んでいますが、世界には、特異な名の付いた時計があります。それが、〈世界終末時計〉と呼ばれるものです。「ニコニコ大百科」に、次の様にあります。

『世界終末時計(Doomsday clock)とは、核兵器や戦争、環境破壊などを原因とする人類の「終末」が発生する時刻を午前零時とし、それまでの「残り時間」を象徴的、仮想的に表した時計である。・・・地球になぞらえた(あるいは単に無地の)文字盤をした時計。

ただし、実際に動き続ける時計ではなく、45分から0時までの部分を切り出した、もしくはその部分だけが描かれた絵として表される。誕生は米ソ冷戦時代であり、日本への原子爆弾投下から2年後の1947年。アメリカの科学誌『原子力科学者会報』(原題は『Bulletin of the Atomic Scientists』)の表紙絵として描かれている。

また、アメリカイリノイ州のシカゴ大学には世界終末時計のオブジェが存在する。その後も同誌は定期的に委員会を設けて時刻の修正を行っており、創設以来起こった様々な出来事を元に22回の修正がなされている。1989年からは核の脅威だけでなく、環境破壊などの脅威も針の動きを決定する要因となった。実際2012年には、福島第一原子力発電所事故などを理由に1分間進んでいる。』とです。

2020年現在、世界の終末まで、〈100秒〉になったと、先日発表されました。BAS(原子力科学者会報)の委員会のジェリー・ブラウン元カリフォルニア州知事は、『超大国間の危険な対抗や敵意が、核をめぐる大失態を犯す可能性を高めている。気候変動はこの危機的状況を悪化させている。目を覚ますべき時があるのだとすれば、それは今だ!』と述べています。

私の愛読書には、『民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり・・・大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現われます。』とあります。大変な時代の只中に、今はあるのかも知れません。絶望だけではなく、逃れる道が残されているとしたら、そこにも将来と希望が見出されることでしょう。〈100秒〉を厳粛に覚えつつ、今日を、今週を、今月を、望みをもって生きていきたいものです。今日は、二十四節気の「立春」、このところの陽の光は、もう春の様です。

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お粥

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武漢は、中国でも有数の古都で、長い歴史を持っています。長江の流れに位置する内陸の街で、武昌・漢口・漢陽の「武漢三鎮」を、「武漢特別市」と呼ばれています。1938年、旧日本軍は武漢を占領しているのです。

在華中、訪ねてみたい街の一つでしたが、訪ねないまま帰国してしまいました。工業都市として発展しています。今、『武漢加油!』の声が、世界中であげられています。暖かな一杯のおかゆをお届けできたらと思う朝です。

(武漢の街の光景です)
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ワシントン州と品川戸越

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北米、ワシントン州のフリーウエーから、長女が、出張の折、撮ったものです。日本もアメリカも、例年に比べ、雪が少ないのだそうです。ここ栃木の北端、湯西川では、少ない雪をかき集めて、「かまくら」を作ったと、ニュースが伝えていました。

昨晩、華南の街の省立病院に、入院中の家内のお世話をしてくださった友人が、品川にいらっして、戸越公園に咲く、「水仙」と「梅」が咲いていたと、写真を送ってくださいました。

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