青年二人

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買い物に行くのに、隣の小区の中を通り抜けて、バス停に行きました。これが"近道"だからです。明日、身体に障碍を負われた21歳の青年を、今生活をしている"老人院"に訪ねますので、<自家製ハンバーグ>を持参しようと思って、食材を買い入れに出掛けたのです。両手両足が不自由で、ベッドの上か、車椅子の上だけに、彼はいます。

これまで、お母さんの母親(中国語では"姥姥laolao" "外婆waipo"、ちなみに父方は"奶奶nainai")が、この孫の世話を、生まれてすぐからされてきたのです。ところが、先頃、お婆ちゃんが病気になってしまい、急遽、彼を受け入れる所を探したのですが、その"养老院yanglaoyuan"が、受け入れてくれることになって、そこで生活をし始ているのです。

お母さんは、彼が生まれるとすぐに、アメリカに行かれ、理由があって、帰国することができない、複雑な状況にあるそうです。彼が使えるのが首から上で、この口を使って、パソコンを操作できるのです。6年前にお会いした時は、一生懸命に"ゲーム"をしていました。先日訪ねた時も、ベッドの上に、"PC"が置いてありました。

彼に残された能力を使って、社会参加ができないか、私は考えているのです。彼が"舌”を使えるのを見て、「星野富弘」さんのことを思い出したのです。この方は、中学校の体操教師をされていた時、生徒の前で試技をしていて、事故に会われて、脊椎の損傷を負われたのです。自暴自棄に陥って、自殺を考えましたが、ある方の訪問と交わりで、生きていく覚悟をされ、多くの方の善意で、《生きる意味》を見つけたのです。

そんな中で、星野さんは、口に筆を咥えて、絵を描いたり、詩作をして、同じ様な障碍を負われたみなさんを激励しておいでなのです。それで、この青年が持っている能力が、用いられたらいいなと考えているのです。この街に、そう言った職業訓練の機会があるかどうか、探して上げたいと思っています。彼の叔父に当たる方が、私たちの世話をしてくださっている方な。、のです。

障碍を負われた方が、積極的に生きて、経済的にも社会的にも自立できたら素晴らしいのですが。彼に、その願いが湧き上がってくる様に、願っています。明日は、星野さんの書かれた本を持参して、見てもらって、『俺も!』と思って欲しいのです。ですからハンバーグは、ついでなのです。

先刻、買い物から帰ったのですが、行きはけっこう混んでいました、つり革に掴まっていると、誰かが肩を叩くではありませんか。誰かと振り返ると、『请坐qingzuo!/お座りください!』と、一人の青年が言うのです。まさに大学生、明日訪ねる青年と同世代です。この二人には、違いがありません。生きている限り、どこかが不自由でも、誰にも驚くべき可能性があるからです。失敗作はないのです。

どこまで、こに青年に働き掛けられるかは未知数ですが、チャレンジしてみようと願っています。自分の可能性に気付いて、社会参加して欲しいからです。席を譲ろうと声を掛けてくれた青年にも、ハンバーグをご馳走したくなりました。

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ソーメン、かき氷、打ち水、夕立、簾(すだれ)、縁台、浴衣(ゆかた)、団扇(うちわ)、滝、清流、雫(しずく)、氷柱(つらら)、霜(しも)、霧雨(きりさめ)、雪原、流氷、吹雪(ふぶき)、シベリヤ、北極、保冷庫、散水車、水羊羹、西瓜、冷やし中華・・・・・、涼しくなるものです。

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言うまい!

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『言うまい!』と思うのですが、それにしても暑いですね。「心頭滅却すれば火もまた涼し」は通用しない様です。また、『使うまい!』と思うのですが、空調のスイッチを入れてしまいます。ロスアンゼルスの山火事も起き、また50℃以上を記録したと聞きます。イギリスでも高温で、死者が出ています。日本でも熱射病で多くの犠牲者が出ています。暑さのスイッチを切りたい思いでおります。

こんなに『早く来い!』と、「秋の到来」を切望したことは、今までにありません。上高地も、富良野も、同じ様に暑いのでしょうか。今朝、また朝顔が三輪開きました。太陽に向かって、外側に開く姿を、後ろ側から撮りました。それで、だいぶ涼しい感じがしております。でも、今日も、37℃の高温予報が出ています。水分を摂りながら、過ごすことにしましょう。みなさん、お元気にお過ごしください。

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水害

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もう半世紀以上も前に学んだ「地理」に、造山活動や造陸活動という項目がありました。今でも、そんなことを教えられているのでしょうか。火山活動や洪水が繰り返されて、地球が造形されてきたという学びです。関東平野は、そこに流れ込む、渡良瀬川や利根川や多摩川や荒川などの主要河川が氾濫し、土砂を押し流して堆積して造られたのです。荒れ狂う様な濁流が唸り声を上げていたのでしょうか。

今回の西日本の豪雨の災害で、そんな様子を思い起こさせる様な動画を見て、思い出したのです。母から聞かされた「創造物語」の中にある、「ノアの方舟」の時代は、雨が40日40夜、降り続けたとありました。地球の水門が全て開かれ、地球を水が覆ったとあります。どんな光景だったのでしょうか。

中国の貴州自治区や河南省などの周辺に住む、"ミャオ族(苗族/実際は<モン族>で苗族は漢人による蔑称だと言われています)"には、昔から口承で語り継がれた物語の中に、この「ノアの方舟」に似た話が残されています。祭礼の時などに、歌ったり舞ったりしながら表現されているそうです。アルメニヤにあるアララト山には、氷河の中に埋没された巨大な木造の個体があると、旧ソ連の飛行士が見つけたとの報告を聞いたことがあります。

今年の雨季、始まったばかりの台風シーズンの雨の降り様を見て、また岡山県倉敷市真備町の洪水の様子の写真を見て、さらに世界中で起こっている暴雨による洪水、水害の頻発に、あの全地を覆った洪水が再び起こるのではないかと思わされてなりません。父が最後に住んだ家が、多摩川の流れの近くにありました。大雨に後に、その濁流に中に身を任せて、無謀にも泳いだことがありました。命知らず、怖いもの知らずでした。

東日本大震災の時に、仙台平野を流れる川が、津波が遡上していく様子を、テレビで観ました。家も車も家畜も畑も人も、みんな飲み込んで行ったのです。ただ息を飲みながら、首を横に降りながら無言で眺めていました。何が起こっているのか、上空からの中継では、鳥瞰的に分かるのに、地上にいた運転手や人は、ご自分のいる位置が分からない様子でした。

先日、雨後に、田舎道を走る車に乗せていただきながら、車の中から、「虹」が見えました。水で滅ぼさないという、《契約のしるし》なのです。運転されていた友人が、この「虹」をスマホで撮影していて、ハラハラの連続でした。倉敷や呉では、酷暑の中、復旧作業が続いていて、空を仰いで「虹」を探すゆとりはなさそうですね。早期の復旧を願っております。

(アララト山に着いたノアの箱舟<Simone de Myle、1570年>です)

スマホ




わが家の南側のベランダ越しに、この小区の通り道があります。日曜日の夕方、お母さんと小一くらいの男の子が、正門の出口の方に通って行きました。男の子は、手提げ鞄を、つまらなそうに振りながら、お母さんの後ろを、1mほどでついて行きます。お母さんは何をしてるかと言うと、右手に“スマホ”をかざして見ながら行くのです。こう言った光景が、この街で頻繁に見られます。

私の子ども頃のには、割烹着(かっぽうぎ)を着た母が、竹製の買い物カゴを左手にして、私の左手を、右手で取って、連れ歩いてくれていました。何か話しかけたりしながらです。何時も、「母業」に集中していたのだと思います。勤めに出ている婦人たちの様に、お化粧だってしたいし、好い服や靴を身につけたかったでしょう。でもそう言った願いは引っ込めていたの様です。朝一番に起きて、朝餉(あさげ)の支度をし、食べ物だって残り物を食べ、家の片付け終えて、終い湯に入り、最後に布団に入っていました。
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危なっかしいのは、乳母車を押しながら、スマホに見入っているお母さんがいることです。辺りに目を配って、危険を避け、わが子を保護しなければならないのに、そう言った注意を怠っていることです。年寄りと小さな子供を除いた大人の、6、7割は、”スマホ中毒“に罹っているのではないでしょうか。若者は、9割方でしょうか。

そんなに情報収集が必要なのでしょうか。ゲームが面白いのでしょうか。まるで独りの世界に入り込んでしまって、会話が少なくなって来ているのを感じます。友達同士、恋人同士、親子でも、双方がスマホに見入っていて、相手に関心を示さないのです。

昔、幻を見た人がいました。みんなが四角い箱に集中しているのを見たのです。やがて“テレビ”が出て来ました。そして、“PC”、そして今や“スマホ”で、みんな四角な箱状の物を見入っているではありませんか。見た幻は、見事に的中していたわけです。人生って短いのです。家内の母親が、『”こんちは“と言ったら、もう“さようなら”を言う様な短さです!』と、自分の来し方を振り返って、そう言っていました。

スパーマーケットの授業員も、手持ち無沙汰のついでに、“スマホ”を見ていますし、時々ですが、バスに運転手だって、虜(とりこ)にされているのです。この街だけのことではなく、世界中が、こう言った傾向になっています。 “命みじかし 恋せよ乙女 紅き唇さめぬ間に”と歌ったことがありますが、「恋」はともかく、《すべき事》が、集中すべき務めが他にあるに違いありません。あのお母さんと息子は、どんな関係を築こうとしているのか心配になってしまいました。

(夏に何度か訪ねた上高地の「河童橋」、「つゆくさ」の割烹着です)

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開花

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もう咲かないものと諦めていたのに、今朝、二輪の「朝顔」が、中国語で「礼拝天」とか「周期天」と呼ばれる、「日曜日」の朝に咲きました。まさに" morning gloly"です。自然の生命に驚嘆しています。暑くて、そして重い物を持って腰痛な私に、『諦めるな!』と叱咤激励の開花です。日本は、伊勢に台風12号が上陸して、西進していると、今朝のニュースが伝えていました。先日の防雨の被災地に、大雨の被害がない様に、心から祈っております。

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烟花

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「花火」ほど、「華やか」なものは他にありません。この花火は、「儚(はかな)さ」をも併せ持っている、特別に夏の風物詩です。父が好きだったからでしょうか、よく会社帰りに、手持ちの花火を、買って持ち帰ってくれました。それを庭先で楽しませてくれました。あの「線香花火」の、パチパチと光る火花の残像が、瞼の奥に鮮明に残っています。

時々、『隅田川の花火を観に行きませんか?』、『長岡・信濃川の河原の花火を観に行きませか!』、と誘われたことがありましたが、一度も出掛けたことがなかった私は、行き帰りの交通の混雑や人ごみを嫌っていたのです。『花火は遠くから眺めるもの!』と決めつけていたのです。多摩川で打ち上げられる花火も、綺麗でしたし、あの打ち上げて炸裂する音も、火薬の臭も大好きでした。

ところが、2010年8月に、中国から一時帰国する私たち両親のために、次男が、一席8000円もする、花火鑑賞の席を予約してくれたのです。その花火大会は、大劇場の舞台で見られる演劇のような気分でした。無作為に、『ドーン!ドーン!』と上げられるものと思い込んでいた私は、裏切られたのです。何と、コンピューター制御で、流行りの歌に呼応して打ち上げられ、打ち上げられる間も計算し尽くされ、終演の最高潮の場面では、実にその巧みな演出に感激してしまいました。

ほんの少し距離を置いた頭上で、花開く花火は圧巻でした。しかも水面にも綺麗に写っていました。このような経験は初めてのことでした。『花火は遠くからではなく、見上げる真下でもなく、特等席で、眼の前の上空で開花する花火に過ぎるものはない!』と言う結論に至ったのです。家内は用があって、せっかくの次男の招待を受けられなかったのは、残念なことでした。大きな犠牲を払って、帰国した私たちを労い、楽しませようとした心意気に触れて、感謝で心が一杯になったのです。

その席まで配達してもらい、夜風に当たりながら食べたピザは、格別な味でした。随分な贅沢を満喫したことになります。道道買ってくれた「たこ焼き」も、飲み物も、綺麗で美味しい2010年の8月の猛暑の夏の夕べでした。今年も、各地で花火大会があることでしょう。

尾崎士郎の「人生劇場」を、夢中に鳴なって読んだことが、高校の時にありました。吉良常が、上海で《烟花yanhua花火》を打ち上げるくだりがありました。それで『花火師になろう!』と思い立ったのです。男っぽい仕事だと感じたからでした。でも実現しませんでした。こちらでも、特に、この時期は、花火が打ち上げられています。箱入りで、着火すると、ひとしきり連続で打ち上がるのです。しかも路上でしているのです。日本ではできないなあって思うのです。

(隅田川の花火です)

紅潮

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「天の配剤」とは、夜があり昼がある事、男がいて女がいる事、冬があり夏がある事、貧しさがあり豊かさがある事、弱さがあり強さがある事なのでしょうか。互いに補い合い、助け合い、譲り合うために、二つの違いが背中合わせの様にあります。一日中昼だったら、人の心も体も休まらないのに、しっかりと眠れる夜があります。男だけだったらギスギスしているのに、女性がいる事によって和やかになれます。寒い冬ばかりだったら凍えてしまうのに、躍動的な夏があって人は活動的になります。貧しい人を支えるために、ある人には豊かさが与えられています。

もし世の中に、強者ばかりがいたらどうでしょうか。喧嘩や戦争で覇権争いに、人は明け暮れている事でしょう。小学校の同級生に長島くんがいました。「オランダ屋敷」に住んでいると言われていました。当時、『♭・・・オランダ屋敷に雨がふる♯』という歌詞の歌が流行っていて、雨漏りのひどい家だったからです。弟がいて、二人で破れた「番傘(紙と竹でできた雨傘)をさして、雨の日には登校して来ました。その内、雨の日に学校を休む様になったのです。傘が完全に使えなくなったからです。お互い悪戯小僧でした。

ある時、何かを仕出かして、彼と何人かで、廊下に立たされたのです。まだ給食のない時代、彼は弁当も持って来ませんでしたので、立たされ仲間にカンパして、彼を経済援助した事がありました。悪戯で、落ち着きがなく、我儘で、短気な私が、子どもの頃にした、たった一つの好い事でした。大学時代に、小児麻痺で体の不自由な後輩がいました。彼の友になって、彼を励ましたのです(実はこちらの方が励まされたのですが)。生意気盛りにたったした、一つの好い事でした。

道路を歩いていたら、女性を殴っている男がいました。間に立って、『女をいじめるな!』と、その男に一発喰らわしました。社会に出てした、たった一つに善事(!?)でした。両親のいない姉弟がいました。弟は鑑別所にいました。帰って行くのは施設で、そこで何時も<カツアゲ(上級生に金品を盗られる事)>されていました。家庭を味わってもらおうと、引き受けたのは、大人になってした、たった一つの好い事でした。

まだいろいろな事がありましたが、テレビ放映が始まった時期に、やっていた「月光仮面」が、強きをくじいて、弱きを助けていたのをよく観たからでした。自分が少しだけ強かった時に、弱く見えた人たちに加勢したのです。それは、性格の好くない私には、少し変えられるために、好い機会だったのです。世の中に、<不要な人間>はいないのです。まだ若かった講師が、頬を紅潮しながら、『重度障害児を日向に出したり、お風呂に入れたりと手伝いをした事があった。普段は完全に助けられないと生きていけないのに、彼らの表情に笑みが浮かぶんだ!人って、生きてるだけで、驚くほどの可能性があるんだよ!』と講義中に話してくれました。これは、高い授業料を払って、学んだ二つの内の一つの事でした。

自分も含めた誰にでも、どんな状況の人にも、生きる限りは、「可能性」が、溢れるほどにあると言うのは、自分勝手な生き方をし、我儘な男を変えた言葉でした。あの講師が、初老の教授になって、NHKの「Eテレビ」の番組で見た事がありました。目の輝きは変わっていませんでした。「労(いた)わり」を、私に教えくれた方です。<2016.8.29掲載の復刻版>

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天敵

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蚊に刺されやすい性(たち)の私は、もう5月には、蚊帳の中で寝始めているのです。それで<天敵>から身を守って、安眠を確保しています。今使っているのは三代目の蚊帳で、釣るのではなく、形状記憶の鋼線に、網目の蚊帳の生地がつけられていて、一瞬にして開くような形状なのです。折りたたみも簡単にできる優れ物です。

父の家には、昔ながらの青緑の蚊帳が、まさに"釣られて"ありました。母が布団を敷いてくれ、四隅の鴨居の金具に、蚊帳の架け紐をかけてくれるのです。入る時に、パサパサと蚊帳の裾を払うのですが、みんながしていていた、あの仕草が懐かしくてなりません。今使用中の物は、ジッパーで開閉しますから、ズボンを履く様で、ちょっと情緒はありません。

垂乳根の 母が釣りたる 青蚊帳を すがしといねつ たるみたれども 長岡 節

この短歌の作者の長岡節は、36才で夭逝した、アララギ派の歌人で、小説家でもありました。農民文学の傑作と言われる『土』を著しています。この歌は、病んだ彼が、帰った故郷の生家で詠んだものなのでしょう。息子のために、蚊帳を釣ってくれた母親が詠み込まれています。きっと優しいお母さんだったのでしょう。ちょっと蚊帳に、張りがなくて、たるんでいるのが微笑ましいですね。中学の「国語」の教科書に、この方の「土」が載っていて、学んだ覚えがあります。

今夏は、<天敵>も"強面(こわもて)"で、蚊帳から出ると、すぐに刺されるのです。窓には、全て網戸があるのに、どこから侵入して来るのでしょうか。長塚節が詠んだ「すがしといねつ」、"気持ち好く眠れる"ためには、蚊取線香と"ムヒ(痒み止め剤 "も欠かせないのです。ところが、同じ物を食べたり飲んだりして、共に生活している家内は、ほとんど刺されないでいるのです。

先日、残り少なくなった"ムヒ"の後任の"キンカン"が、上の娘から送られてきました。これで、刺されたら塗れるので、事後処理も万端です。実は、<華南の蚊>は、秦の始皇帝の兵士の如くに、大きくて強烈なのです。そんな十二分の防備を敷いているのに、どれだけ刺されたか分かりません。子どもの頃に遡って数えたら、どれほどの回数になることでしょう。そんなことを思う猛暑の大陸の7月の夕べです。

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都忘れ

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この「ミヤコワスレ」について、“ウイキペディア”に、「ミヤマヨメナの日本産園芸品種として多く栽培され、開花期は5〜6月頃である。 ミヤコワスレの名は、鎌倉時代に承久の乱に敗れた順徳天皇が北条家によって佐渡島に流された際に、この花を見て心を慰め、都恋しさを忘れたとの伝承による。この由来によって花言葉は「別れ」や「しばしの憩い」などといわれる。ただし栽培の歴史は江戸時代からとされる。文化2年(1805年)には既に記録があり、これ以前から栽培されていたと見られる。花色は紫・桃・白などもあるが、もっとも好まれるのは紫であり、切り花でミヤコワスレとして流通するのは紫のものだけである。種子には稔性がなく、株分けでのみ繁殖させる」とあります。

この「承久の乱」とは、鎌倉期の国内紛争で、1221年、朝廷と武家との初めての抗争で、武家の鎌倉幕府の勝戦に終わりました。あのロシア帝国のニコライ帝は、「ロシア革命」の後に、妻も娘たちも殺されてしまいましたが、鎌倉期には、首謀者の後鳥羽上皇は、隠岐の島に、そして順徳天皇は、佐渡に<島流し>にされると言う、緩やかな処分がなされていたのです。ただし出兵し、実際に戦った兵士たちの頭領たちは、処刑されています。皇位にある者へは、ある敬意が示されたのでしょうか。義経が、頼朝に派遣された討伐隊によって討ち死にしたのとは違っていました。肉親の情の方が強そうなのにです。

隠岐の島、伊豆大島、佐渡島などに島嶼部に送られ、緩やかな監視の中で、生きることが叶ったのは、「武士の情け」だったのでしょう。あの西郷隆盛も、奄美大島、沖之永良部島に流刑(るけい)されています。順徳天皇の様に、流刑の身でありながら、そこで歌を詠んだり、花を愛でたり、風流な生活が可能だった様です。武家社会と言うのは、「下克上(げこくじょう)」とか、親族間の抗争に明け暮れた社会だった様で、大変だったのですね。頼朝は、伊豆大島に流罪になっています。「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」とか、「捲土重来(けんどじゅうらい)」の時を、そこで過ごしたそうです。

そんな悲しい物語を知ってしまうと、この「ミヤコヨメナ」と言われている花が、「都忘れ」だと聞くと、美しいのですが、悲しさを感じさせられてしまう様です。権力の座にあると言うのは、漁師が、『板子一枚下は地獄!』と言った様に、何時寝首をかかれ、裏切られるか分からない、危険な座だったのでしょうね。そこをいくと、スイカの切り分けの大きいのを食べて、それを恨まれるぐらいしかない私の様な立場は、何処ででも<昼寝>ができるのですから、感謝なことです。このところ、あまりの暑さに、板張りの床に寝ると、気持ちがいいので寝てると、家内に注意されてしまう、酷暑の七月です。

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