昔日

 

 

この写真は、東急電鉄の「東横線」の渋谷の駅ではないでしょうか。折り返しのホームと、ホームの天井に見覚えがあります。地下鉄と相互乗り入れして、地下にホームが潜る以前、渋谷のターミナル駅の高い所に、ホームがあったのです。あんなに降り易く、乗り換えが便利な駅だったのに、もう昔日(せきじつ)の感なしの渋谷駅は、昭和のおじいさんには「迷宮(めいきゅう)」そのものです。

この東急電鉄沿線に、父が通った旧制中学校がありました。横須賀の県立中学校から、その私立中学校に転校したのです。この学校についての話を、父から聞いたことがありませんでした。その転校は、父にとっては不本意だったのでしょうか。思春期の真っ只中で、自分の家を出て、親戚の家で暮らしながら、この東急線の沿線で学んだ数年間に、父が話題にしなかった分、ことの外、私は関心があります。

その父が、父が敬愛した教育者が建てた、私立中学に、私を行かせたのです。1950年代に、息子をそう言った学校で学ばせると言うのは、そんなに易しくなかったはずです。小学校6年の今頃でしょうか、もう少しした12月になってからでしょうか、突然、『準、○○中に行け!』と、父が私に言ったのです。それで鉢巻をして(?)、受験勉強をした覚えがあります。

兄たちも行かず、同級生たちも行かない、電車通学の学校に行かせてもらった私は、ちょっと得意だったでしょうか。その入学試験の時に、高三になろうとしていた上の兄が、一緒について来てくれました。ですから、兄たちにとって私だけが違う中学に入る、弟への父の特別扱は、『準ばかりが!』と言った思いにはならなかった様です。

私は、《父特愛の子》だった様です。病弱だったのか、父を愛して育ててくれた、自分の父親に似ていたからでしょうか、兄たちと弟とは、だいぶ違った取り扱いが、私にはあったのです。しかも我儘で、内弁慶な私は、兄弟にとって<鼻持ちならない奴>だったはずです。幼い日、庭に、私が食べたブドウの皮を放ると、父が、『光、賢治。拾え!」と言われて、兄たちは拾わされたのだと、兄たちが言っていたことがあります。でも、『まあいいか!』で、兄たちは認めてくれていたのでしょう。

それなのに、大陸にいる私が一時帰国しますと、恨まれることなどなく、一席、食事会を開いてもてなしてくれるのです。そう言えば、子育て中に、住んでいる家の上の階で、ガス爆発がありました。それで燃えてしまったり、消化の水で水浸しになって、ほとんどの家財道具がなくなってしまったことがあったのです。その時に、大きな車に、救援物資を集めて、それを持参して、東京から駆けつけてくれたのが上の兄でした。そんなことを思い出しています。

人思う秋、故郷を思う秋、昔を思い出す秋が来たからでしょうか。また老い先の短さを感じるからでしょうか、昔のことが懐かしくなってきます。病気や怪我や事故や海水浴で、何度も何度も死にかけて、それでもしぶとく生きてきた日々を思い返すと、怒涛の様に、様々な人、出会い、出来事が溢れてくる様に、思い出されてきます。「かの日」や「かの人」があって、今日の私があるのですね。

.

天の故郷

 

 

晩秋の陽を浴びている「セイヨウアブラナ」です[☞HP/里山を歩こう]。今頃から、来春にかけて咲く花だそうです。ここは、広島県東広島市黒瀬町の黒瀬川の岸です。こちらもめっきり晩秋、あんなに盛んに咲いていた、この小区の庭の花が落ちてしまって、冬籠りの準備でしょうか。ちょっと寂しくなった感じがいたします。

こちらで出会って、大変なお世話をいただいた方のお母様が、先週末にお亡くなりになりました。海岸の村にお見舞いしたり、この町の住む息子さんの家に来られた時にお訪ねし、一緒に食事などをしたご婦人です。

家内と好い関係があって、ずっと手を握ったり、さすって上げたりしていました。そうされると痛みがなくなると言われていたのを思い出します。病や思い煩いや長年のご苦労から解放され、天の故郷に凱旋されたのです。この金曜日に、告別式が、海岸の村で行われますので、泊りがけで出掛け、参列する予定です。

.

かの日

 


 

子育て中、まだわが家の子どもたちが小学生の頃、自分を<不良>に見せていた子どもたちが、体育帽子のツバを後ろにかぶって、可愛らしく自己主張をしていました。わが家の前が通学路でしたから、向こうの方から白帽を、そういう風にかぶってやって来る子たちが、あどけない顔と服装のちぐはぐさとで、遅刻して登校する様子を面白く眺めていました。

去年は北中、今年は南西中、来年は南中と、年代わりで、<荒れた中学>を持ち回りで、市内の中学校がやっているかの様でした。それは、自分も「来た道」でした。当時の大人たちが、どんな思いで、遠巻きに変な風体の私を見ていたのでしょうか。今度は、観る側に立った私は、結構楽しんで、その様子を見ていました。

ある時、お母さんに連れられて、一人の中学生が、私の事務所にやって来たのです。和菓子の菓子折りを持ってでした。当時、わが家の近くの市営住宅に住んでいて、学校一の不良で、<番長>がいました。体が大きくて、いい面構えをしていたのです。この番長が、<タイマン(一対一の喧嘩))>だと言ってしていた相手が、この菓子折り持参の子でした。この子は、生徒会の会長で、勇気を持って、この番長と喧嘩をしていたのです。番長の子分たちが、取り巻いていました。

学校かクラスで何か不正があって、それを注意した生徒会長が、その相手からのタイマンを受けて立った様です。その中学校の正門を出て、右に行った所にあった空き地で、生徒会長は勇敢にも、その番長に挑んでいました。私と家内が、そこを通りかかったのです。劣勢で生徒会長がボコボコにされていました。そこに私が、『待ちねえ!』と割って入ったのです。

中学校の先生たちが二、三人、向こうの正門で、何もせずにウロウロしていました。『もうやめ、やめっ!』と私が言ったら、番長は殴る手を止めました。どうも誰かから止めてくれるのを待っていた雰囲気でした。喧嘩慣れした番長と喧嘩などしたことがないけど、勇敢にもタイマンに挑んだ生徒会長とでは話になりません。それで、『俺を知ってるか?」と聞くと、『あそこの事務所のおっちゃんずら!』と、番長が言っていました。

それで一件落着で、タイマンは終わったのです。その二日後だったでしょうか、お母さんが息子を連れて、喧嘩を止めてくれたお礼を言いに来られたのです。番長は音沙汰無しでした。もう30年以上も前のことになります。あの二人とも、そろそろお爺ちゃんの年齢でしょうか。どんな思いで、彼らは子どもを育て、今や孫たちに接していることでしょうか。

私が思い出しているのですから、きっと彼らも40年前の出来事を思い出しているのでしょう。<来た道>を思い返すことって、大切なことかも知れません。人生何かにつけ「かの日」があって、この日があるのですから。

.

 

 

この歌は、作詞が森まさる、作曲が橋本国彦で、1946年(昭和21年)に、NHKラジオ歌謡として発表された「朝はどこから」です。

1 朝はどこから来るかしら
あの空越えて 雲越えて
光の国から来るかしら
いえいえ そうではありませぬ
それは希望の家庭から
朝が来る来る 朝が来る
「お早う」「お早う」

2 昼はどこから来るかしら
あの山越えて 野を越えて
ねんねの里から来るかしら
いえいえ そうではありませぬ
それは働く家庭から
昼が来る来る 昼が来る
「今日は」「今日は」

3 夜はどこから来るかしら
あの星越えて 月越えて
おとぎの国から来るかしら
いえいえ そうではありませぬ
それは楽しい家庭から
夜が来る来る 夜が来る
「今晩は」「今晩は」

朝は「希望の家庭」、昼は「働く家庭」、そして夜は「楽しい家庭」から来るんだと言うのです。実に明るいメロディーです。私は、この日を、『楽しみ喜ぼう!』と鼻歌を歌いながら、朝はを迎えるのを旨としています。嵐の朝も、曇天の朝も、病気や悩みの日もありますが、どの朝も新鮮で、晴れや嵐に関わらず、その新しい一日への期待に胸を膨らませて生き始めます。

その新しい日に、生きる意味があり、誠イッパイ生きるのです。そうして過ごして、夕べを迎えると、快い疲労感と満足感が溢れています。子どもの頃は母が、結婚した今は家内が、夕餉(ゆうげ)を用意してくれ、家に子どもたちがいた時は、夕食のテーブルを囲んでにぎやかに、巣立ってしまった今は、家内と向き合って、その一日や、昔を語り合いながら、感謝で食事を摂ります。

大陸の朝、昼、晩を、幾日過ごしてきたことでしょうか。13年目の晩秋を迎え、秋の朝の気温18℃のベランダに、また朝顔が四輪咲いています。今日も素敵な一日が始まっています。子どもたちも、孫たちも、兄弟姉妹、友人、知人、隣人、祖国の人々、全ての人が、喜びの一日を過ごせる様に願いつつ、朝を迎えています。

.

アメリカ社会の「希望の光」

 

 

これは、“TABILABO  “のサイトに掲載されていた記事と写真です。写真の解説に、次の様にありました。

『この写真を撮ったのは、偶然近くを通りかかったPaula Accorsi Picardさん。場所はショッピングセンターの中。左側に立っている老人はエスカレーターの前で不安そうに立ち止まっていたそう。後に続こうとしていた人たちが足止めを食らう中、「何か助けは必要ですか?」と声をかけたのが右側に立っている若者でした。

話をよく聞いてみると、以前エスカレーターのトラブルに巻き込まれたことがあり、乗るのが怖いという。だから若者は、そっと腕を差し出したのです。その光景に胸が熱くなったPaulaさんは、スマホで撮影せずにはいられなかったのだとか。』

家内も私も白髪になって、街を歩く時に、中国の若者が、この様に、腕や肘をとって支えてくださることがあります。誘われて山歩きをした時には、深い谷に降りて上がる時に、息子と同世代の方が、家内を、ずっと、肘を支えてくれて、無事に歩き通せるました。年寄りへのいたわり、弱者への親切は、半端ではありません。

その折、家内は、図々しくも,『負んぶして!』と言ったら、『ここは狭くてできません!』と言われた様です。そんなことを頼めて、聞いてくれる方たちがいるのです。家内が病気だと聞いた、私たちにの知人の友人で、海南島出身の若者が、ギターを持参してきて、演奏しながら歌って、激励してくれたこともありました。そんな経験したことのない様な、優しさを、ここで経験させてもらっています。『小心点儿、小心点儿!/気を付けてください』と声を掛けてくれます。

この国の学校で受けた教育や、家庭で身につけた処世術で、こう言った徳の高い行為が生み出されるには、実に素晴らしいことです。授業を終えると、バス通りの玄関まで、カバンを持って一緒に歩いてついてきてくれた学生さんがいました。もう、好いお父さん、お母さんになっていらっしゃるでしょうか。

.

大丈夫

 

 

男の子は、小学生でも、気のゆるせる親友と思(おぼ)しき相手とは、互いに、『オレ、◯◯が好きだ!』と、意中の同級女子を告白をします。直接言えないからでしょうか。女子は、男子よりも成長が早くて、"おませ”ですから、心密かに、『わたし、✖️✖️ちゃん嫌い!」と思っていたのでしょう。同級生で、何人か、幼馴染の小学校の同級生と結婚しているのがいますから、小学校で、人生の伴侶との出会いだってあるのですね。

恋心って、3才くらいからもうあるのでしょうか。それ恋って言えるのでしょうか。『俺は恋文など女々(めめ)しいから書かない!』と決心を固くしていた私ですが、一度だけラブレターを書いて、好きな女(ひと)に渡したことがあります。ところが<実らぬ恋>で終わってしまいました。でも一度だけ書けたことは、勇気があったのだと自負したり、褒めたい気分なのです。

でも、よく"恋文もどき"はもらいました。一番集中していたのは、都内の女子高で教員をしていた時でした。男の極端に少ない世界ですから、どんな男性教師であっても、思春期真っ盛りの少女たちの恋心の対象になるのでしょう。下駄箱によく入っていましたし、プレゼントも入っていたり、追尾されたこともあります。猛アタックをかけてきた子もいました。その学校の敷地の中には、短大や技術専門学校もあって、そこの先生たちからのアプローチもありました。

はぐらかすのに大変でした。『こりゃダメだ!』と結婚を急いだのです。上の兄が紹介してくれたのが、今のワイフです。サイフではありません。私たち四人兄弟は、育った街の評判だった様で、彼女の上司が、われわれ兄弟のことを知っていて、私と結婚をすることを、彼女から報告されたら、『あの兄弟の一人とで大丈夫?』と聞かれたそうです。《大丈夫》だと思って結婚した彼女は、本当に《大丈夫》だったのでしょうか。

来春には、結婚は《四十八周年》になります。"ラブレターの女(ひと)"とは一緒になれなかったのですが、このワイフは、一緒に生活してきた"better half"なのです。彼女だって、《あの人と》と思った男(ひと)がいたことでしょう。でも、今振り返って見て、互いに《この人》こそが《天からの配剤》だったに違いありません。彼女にとって自分は"best"ではなかったのですが。英語のこの言い回しっていいですね。

もう何年も前になりますが、住んでいた小区の正門から出てきた、見ず知らずのご婦人が、入って行こうとしていた私たちを見て、「你们好夫婦nimenhaofuqi」,『あんたたちいい夫婦だよ!と言っていました。異国で助け合って生きてる老夫婦が、このご婦人には、そうそう見えたのでしょうか。

喧嘩(彼女が仕掛けたのはほんの僅か)もよくしましたし、口をきいてもらえないことも、家出だってされたほどです。とにかく欠点だらけ自分に忍耐してくれた年月を思い返して、ダイヤモンドかサファイヤのリングを、私は買って上げたいのです。ところが、彼女は指輪とかネックレスとか、ほんとうに好きではありません。私に経済的なゆとりのないのを知ってでもないのです。外側の飾りで飾らなくても、生きていられる自分を持っているのでしょう。

亡くなった、彼女の上のお兄さんが、30年ほど前に、夫との死別とか何か、人生にあったら、これを売って、子どもたちを連れて、サンパウロに来る様に、《宝石》をくれたそうです。全員の飛行機代ほどの価値があったのでしょう。そのお兄さんが召された今は、子どもたちも独立した今、行き様がないのです。でも彼女は、帰って行く故郷を持っています。そう信じて生きているわけです。もう何年、一緒にいられるのでしょうか。

.

有明菫

 

 

これは、東広島市の溜池で咲く「アリアケスミレ(有明菫)」です。[HP/里山を歩こう]のマルタン2号さんが訪ねた日が暖ったので、季節外れの開花だったそうです。秋の花も晩期で、そろそろ来春まで、咲く花を待つ季節の様です。忠実に送信してくださる写真と記事を、ずいぶん楽しませていただきました。有難うございます。

私は、もう随分昔から、中国の東北部の満州里に咲く、歌に歌われていて知った「アゴニカ」に出会ってみたいと願ってきています。ロシアのシベリヤとの国境付近の原野で、春に咲く花だそうです。雪を割って咲き出すのでしょうか。子どもの頃、病弱で臥せっていてラジオを聞いて育ったのですが、「復員の時間」、「尋ね人の時間」と言う番組がありました。戦争中に外地で生活したり、戦争で派兵されていた方の「戦後の消息」を知らせていました。

 『○○にお住まいだった〇〇。△△さんがお探しです!』と、アナウンサーが話していたのです。満州のソ連国境に住んでいたみなさんは、この花を知っておいでなのでしょう。南方にいらっしゃった方は、南洋に咲く花をご存知なのでしょうね。きっと大きな慰めになったなったことでしょう。こちらも、めっきり木々に咲く花がなくなってきてしまいました。時々、家内が切り花を買ってきます。今は、「菊」の一種がテーブルの上に飾られています。

.

接点

 

 

去年、北海道の病院に入院中、道内を転勤して働いてきた、私より少し若い方、と言っても,すでに退職されていましたが、彼と同じ病室でした。お仕事の細かなことを聞きませんでしたが、道内の遺跡について詳しく、埼玉県にある遺跡まで訪ねたりしておられました。

この方が、「オホーツク文化」の存在を、実に情熱的に知らせてくれたのです。若い頃の僅かな教員経験しかない私には、新しい情報の提供でした。網走に、その遺跡があり、道内のあちこちに遺跡があると言っていました。興味を引いたのは、「黒龍江(ロシアではアムール川と呼ばれています)」周辺に起源があって、そう言った大陸との繋がりの文化だったことです。

それまで、「南蛮貿易」などの《南方志向》だった私が、北に思いを向けることができたのは大きな変化でした。高二の修学旅行で、初めてオホーツク海を眺めた時の印象は、実に強烈だったのですが、その印象を呼び起こしてくれたのが、この方との出会いでした。

小学生の頃、旧友から、川の近くの小高い丘に、「貝塚」があると聞いて、そこに行ってみました。眠っていたものを呼び起こされた様でした。土を掘り起こしたら、鏃(やじり)や土器の破片を見つけられたのです。古代の人の生活と、昭和を生きる私との接点を見つけた感動は、実に大きかったのです。中学に入ると、高等部の考古学部の発掘調査に、担任が誘ってくださって、何度も、あちらこちらと出掛けては、手伝いをしたのです。

そんなで、「考古学」を学びたかったのですが、いつの間にか、その情熱がしぼんでしまって、時が過ぎたのです。それが、この「オホーツク文化」について、熱く語る方と出会って、興味が、心に再燃したわけで、《ヤケボックリに火がついた》様です。奥様から和菓子を頂いたりで、おじいさんのこれからの趣味には、ちょっと面白いかも知れません。いつか網走の「モヨロ貝塚(遺跡)」や紋別や北見の遺跡を訪ねたい気持ちが溢れています。

森繁久彌が、「オホーツクの舟唄」を作詞しています。

知床の岬に はまなすの咲くころ
思い出しておくれ 俺たちの事を
飲んで騒いで 丘にのぼれば
はるかクナシリに 白夜は明ける

旅の情けか 酔うほどにさまよい
浜に出てみれば 月は照る波の上
今宵こそ君を 抱きしめんと
岩影に寄れば ピリカが笑う

別れの日は来た 知床の村にも
君は出てゆく 峠をこえて
忘れちゃいやだよ 気まぐれカラスさん
私を泣かすな 白いカモメよ
白いカモメよ

「朔北(さくほく)の地/辺境の北方をそう言う様です)」、稚内から海を渡って「アムール川」に、古代人の足跡を追ってみたいのです。日ロ関係が改善されてたら、いつか実現できるかも知れません。私は、この人たちの子孫になる可能性だって、ないとは言えません。だからこんな関心と感動があるのかも知れません。うわー、そこに接点がありそうです。

(モヨロ貝塚で出土したものです)

.

循環する人格的感化

 

 

ドイツの社会学者マックス・ウェーバーは、『精神のない専門人、心情のない享楽人、この無のものは、かつて達せられたことのない段階にまで登り詰めたと自惚れている。』という言葉を残しています。随分辛辣(しんらつ)なことを言う方です。ドイツ人気質の学者だからでしょうか。

この「精神のない専門人」と言うのは、利潤を求めようとする時、『不正なことをしない!』と言う<倫理観>を持たない経営者のことを言っています。儲けるためには手段を選ばないで、営利主義に走る経営者が多いのかも知れません。鉄面皮の様に、優しさとか、『みんな益ために!』と言った気持ちに欠けている経営者のことです。アルバイトをしていた時に、そんな経営者がいました。

そして「心情のない享楽人」とは、「天職」としての自分の仕事を、精一杯励んでしようとする気概を持たない労働者のことです。ヴェーバーは、人の仕事を「天職」、つまり天が備え、与えたものという理解を持った人でした。勤勉に働くのは、自分に課せられた「仕事」の意味や価値や使命を知っているからなのだと言うのです。アルバイトをし、社会人として働いた職場にも、自分の仕事への不満を持って、楽しく溌剌と働かない人が、結構いました。

勤勉に働くことが、仕事を成功させ、そうすると評価が高なり、給料が増えると言う好循環があります。それが会社を富ませ、さらに業績をあげさせ、優良企業となって行きます。何時でしたか、あるホテルでセミナーが開かれていた時、そこの従業員のみなさんが、高い意識を持って、楽しそうに働いていたのです。誰もが、そう感じていたのです。

それで、『どうしてですか?』と聞きましたら、『待遇が好いからです!』と言っていました。好い仕事を生み出し、企業を富ませるのは、そんな単純な原理なのでしょう。経営者だけが豊かにならないで、利益を従業員に分配することが、高い企業評価に繋がります。自分の仕事を正しく評価されると、好いサーヴィスを生み、好い製品を製造させるのです。

また、マックス・ヴェーバーは、政治家にとっての特に重要な素質として「情熱」、「責任感」、「判断力」の三つを挙げています。国や自治体の代表として、それを好くしようとする政策を提案していく「情熱」を持つことが、政治家には必要です。正しく「判断」し、「責任感」を持つことも必要です。そう言った指導者がいる国や自治体の住民は、安心して生活ができるのでしょう。それで、国や自治体や市民が安定していくわけです。

とどのつまり、人も組織も《自惚れないこと》、《怠けないこと》、《享楽に溺れないこと》です。「小国主義」を掲げたジャーナリストで、後に政治家となった石橋湛山は、素晴らしい政治家だったのではないでしょうか。実に短期間でしたが、内閣総理大臣をされた湛山は、甲府一中の中学生の頃に、大島正健校長の薫陶を受けたことが、彼の人となり、政治家の姿勢を作り上げた、と後になって語っています。

その大島正健は、17歳の時に出会い、人格的影響を与えられたのは札幌農学校で出会ったウイリアム・クラークでした。一年にも満たない、ほんの短い間の人格的薫陶だったのです。その青年期の一人の人との出会いと薫陶とは、この人の一生を貫いています。これを《循環する人格的感化》と言うのでしょうか。

(石橋湛山が、母校の後輩に書き残した書です)

.

郷愁

 


今朝、ベランダの寒暖計は、7時半で、18℃でした。同じベランダで、また二輪の朝顔が咲き、秋の花ではないのですが、私たちに目と心を楽しませてくれます。お母さんを呼ぶ小学生の声が、響いています。家内が”ベランダ会議“をする隣家のおばあちゃんが、風邪をひいた様で、顔を見せていないそうです。先ほど娘さんに、家内が声をかけていました。

今日は、弟の誕生日で、今朝2時頃、目が覚めて、「誕生祝い」のメッセージを送信しました。上の兄2人は、島根県で生まれたのですが、弟と私は、軍需工場の責任を任された若い父の赴任地、中部山岳の山の中で生まれました。熊や鹿の出る様なあたりでした。40年以上前に、兄弟4人で訪ねたて以来、訪ねていません。いつかまた、生まれ故郷を訪ねて見たいものです。

あの「故郷」の歌の意味が、“ウイキペディア”に次の様にありました。

1 野兎を追ったあの山や、小鮒を釣ったあの川よ。今なお夢に思い、心巡る忘れられない故郷よ。

2 父や母はどうしておいでだろうか(「います」は「居る」の丁寧形ではなく、古語の尊敬語「坐す」なので、「ゐます」とはしない)、友人たちは変わりなく平穏に暮らしているだろうか。風雨(艱難辛苦の比喩とも)のたびに、思い出す故郷よ。

3 自分の夢を叶えて目標を成就させたら、いつの日にか故郷へ帰ろう。山青く水清らかな故郷へ

この年になると、父も母もいませんし、幼い日の 友の消息は分かりません。でも思い出だけは、鮮明に残っています。これが「故郷」なのでしょう。

.