強者どもの今を

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 兄たちの世代で、脚光を浴びた文化人や政治家や芸能人、そしてスポーツ選手たちの今を伝える記事が、マスコミに多く取り上げられてられています。戦時下に生まれ、厳しい戦後を過ごし、激変する社会に中を走り抜けてきた世代でしょうか。

 戦争で父を亡くしたり、あるいは両親の不和と離婚、けっこう恵まれない星の下を生き抜いてきたみなさんが多くおいでです。人には言えない辛苦を通った方もいるのです。日本プロ野球で、前人未到の記録を残した名選手に、張本勲がいます。先頃までは、テレビ番組のcommentatorとして活躍していた方です。

 先日、ジャイアンツの試合で、張本勲が、始球式をしている映像を見ました。杖をついて、おぼつかない足取りで、マウンドまで歩み、ピッチャープレートのだいぶ前から投げておられましたが、外野からの強烈な返球や、バットをブンブンと、振り回す姿を知っている私には、バウンドしながらキャッチャーミットに届いたボールを見て、なにか物悲しく感じてしまったのです。

 王、長嶋などの選手の陰に隠れていましたが、真にプロフェッショナルのプロ野球選手でした。朝鮮半島の出身のご両親によって、広島で生まれ、ガキ大将で喧嘩に強い頑強な少年期を過ごしていたそうです。原爆が投下された時に被爆されておいでです。子どもの頃に、手を火傷して、機能不全になるところをなんとか持ち堪えて、野球と出会って、その能力やSenseをもって、日本野球界に、「安打製造機」と異名をとって、貢献した記録保持者なのです。

 一家を支えたお父さんを亡くし、その後は、お母さんが、豚や牛の内臓を加工したホルモンを、広島の街で売り歩いて、子育てをしたのだそうです。お姉さんも亡くしています。そんな厳しい中を、生き抜いた猛者です。

 その彼の近影を見て、また、先頃亡くなられたプロレスの猪木、その他に銀幕を飾ったり、ステージの上で活躍した、兄世代の芸能人の逝去のニュースも多く聞きます。鋼鉄のように鍛え上げた身体を持っていても、老いには叶わないようです。人の限界を覚えるのです。聖書は、

『われらが年をふる日は、七十歳にすぎず。あるひは壯やかにして八十歳にいたらん。されどその誇るところは、ただ勤勞とかなしみとのみ。その去ゆくこと速かにして、われらもまた飛去れり。(文語訳聖書 詩篇90篇10節)』

 人の盛んな時期は、短いのだと、そんなニュースを目にし、病気がちの自分も含めて、父が、よく言っていたように、

『いつまでもあると思うな親と金!』

これに、「若さ」や「勢い」や「溌剌さ」なども加えられるでしょうか。いつまでも、それらはなさそうです。先週は、隣人で、いろいろと心配してくださる、こちらに来てからできた友人に紹介されて、大学附属病院の循環器内科に、検査で出かけました。外科ばかりで、何度も何度も私は入退院を繰り返してきましたが、今や内科疾患で医者通いです。

 下野国の国府のあった街、下野市に、超近代的な地域医療の拠点が出来上がっています。薄暮のグラウンドでシュートを打ったり、 大男を相撲でぶん投げたり、高尾山を駆け上がった日もあったのに、今の様子ですが、これでいいのだと思うのです。人の一生を、静かに、また賑々(にぎにぎ)しく過ごして来ての今、それでも小走りしては、ふと気付いて、『もう無理はしない!』と、自分に言い聞かせています。

 そう「飛び去る日」がくるのですが、その日まで、いただいた命を大切に、感謝で生きようと、病院の玄関から出た次第です。その同じ日には、弟が入院中だと知らせてき、次兄と義姉とは、自分も入院してヘルニアの手術をし、家内も入院手術をしたことにある病院に、一緒に、姪の運転で通院中だと、電話がありました。上の兄もスポーツ選手でしたが、大怪我の後遺症などで、今や、あちこち痛いのだそうです。それぞれの病情報交換して、祈り合うこの頃です。これで、いいのでしょう!

( “ いらすとや “ による野球選手です)

この日を喜び楽しまん

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『これヱホバの設けたまへる日なり。われらはこの日によろこびたのしまん。(文語訳聖書 詩篇118篇24節)』

 6月4日午前4時20分台の「日の出」です。昨日の夕方の大雨と打って変わって快晴です。「主の造られた日」ですから、『喜び楽しもう!』と思います。 

 好い一日をお過ごしください。

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デジタル弱者の私

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 「社会的弱者」、「経済弱者」、「買物弱者」、などと言われる人たちがおいでです。そう言ったみなさんに、その社会、国家、集団などが、どのように援助していくかが問われています。

 病気や障害や事件、天候などの天変地異の出来事によって、損害や損失などをこうむった人たちに、どう接していくかが問われるわけです。そのような立場、環境にある人たちが、社会的に、経済的に、身体的に健康であるように援助していことが求められます。

 イスラエルの社会の中で、とくに経済弱者であった、寡や孤児や外国人への配慮や援助が、神によって定められていました。

『汝他國の人または孤子の審判を曲べからず。また寡婦の衣服を質に取べからず。汝誌ゆべし。汝はエジプトに奴隸たりしが汝の神ヱホバ汝を其處より贖ひいだしたまへり。是をもて我この事をなせと汝に命ずるなり。汝田野にて穀物を刈る時、もしその一束を田野に忘れおきたらば、返りてこれを取べからず。他國の人と孤子と寡婦とにこれを取すべし。然せば汝の神ヱホバ凡て汝が手に作ところの事に祝福を降したまはん。 汝橄欖を打落す時は、再びその枝をさがすべからず。その遺れる者を他國の人と孤子と寡婦とに取すべし。また葡萄園の葡萄を摘とる時は、その遺れる者を再びさがすべからず。他國の人と孤子と寡婦とにこれを取すべし。汝誌ゆべし汝はエジプトの國に、奴隸たりしなり。是をもて我この事を爲せと汝に命ず。(文語訳聖書 申命記24章17〜22節)』

 イスラエルの主なる神さまは、社会的弱者に対して、格別な配慮をし、この寡(やもめ)、孤児、在留異国人のみなさんの食べたり、飲んだり、着たり、住んだりすることについて、共に住む他者に責任を果たすように、イスラエルの民に命じたのです。

 聖書と Counseling を学んだ学校で、この箇所をテキストに、退職して帰国する外国人教授の最終講義がなされたのです。旧約聖書の研究をされてきた学究派の聖書教師でした。社会弱者を顧みられる神さまを、学徒に語りたかったのでしょう。淡々と話されたのです。

 非生産的、非貢献的な人間への神の顧みということ、寄るべなき者を、決して見捨てられない神さまがいて、人にも、寄るべない者を顧みるように要求する神がいらっしゃることに、まさに聖書が知らせる神さまのご性質の最もはっきりしたことではないでしょうか。

 生きていたって役に立たない人など、価値も意味もないとされている人間社会に、そう言った人々と共に生きるために、心を配り、物を分け与えるように願う神が、聖書の示すお方なのです。強者だけが生き残れるような人間社会に、弱者保護規定を設けられたお方を、神だと知ってから、わたしは、自分の生き方が変えられたのです。

 今も「弱者」がいますが、最近身につまされているのが、「情報弱者(デジタル弱者)」です。デジタルの世界の驚くほどに進歩し、変化し、その日進月歩の現実についていけない、われわれ世代が、その動きの中で、ポカンとしてしまっているわけです。

 日本語の中に、カタカナ語が混じると、何が何だかチンプンカンプンで、ついていけないと言うか、拒否反応が出ているのと同じです。ラジオのニュースの中で、カタカナ語が出てきますと、英和辞書で字引きをするのですが、日本語化されている英語は、spelling がわからず苦労してしまうのです。

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 今や、家内も私も「デジタル弱者」なのですが、携帯電話を持たない、キャッシュカードを使わない、車を持たないなど、旧態依然とした生き方をしている方が、時々いらっしゃいます。上の兄は、頑なに携帯電話を持ちませんし、近所の家内の友人も、家に黒電話を置いてるだけなのです。

 それでいて、生活に困ったり、不便を感じていないのです。文明の力に操られないで、人として、ごく自然に生きているわけです。でも、ITとか AIとか言う時代になって、だんだん生きにくくなってしまっています。そんな私たちを「アナログ世代」とか言うそうですが、昨日も、家内の通院に付き合い、薬局で投薬を受けました。

 保険証の代わりに、マイナンバーカードで顔認識をされていました。テレビドラマの中にあった、なんだか犯罪者の面通しのように見えたのです。初めての職場は、出社や退社時には、名簿の記入でしたが、その内に、機械にカードを挿入するようになり、今では、顔認識、眼球認識(虹彩認識: Iris recognition)になっているそうです。何か、人が物扱いされているようで、怖いようです。

 一枚のプラスチックのカードの挿入、さらに眼球認識になると、個人情報が悪用され、昔、宣教師さんに、終わりの時代に、「世界政府」ができて、そこに全人類の情報が集められ、すべての人が管理されると、聖書研究で聞きましたが、そんな時代の到来がきていそうで、心配です。黙示録には、「666」の謎の数字が出てきますが、謎解きがなされています。

(ウイキペディアの監視カメラ、そろばん使用法です)

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涼暮月

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 六月になりました。「水無月(水の月、水のある月という意味でしょうか)」と言われて、「涼暮月(すずくれづき)」と呼ばれたようです。日中は暑くなりますが、夕暮れには涼しさを感じられる情緒、情感の溢れた呼び方の月ですね。英語では、”June bride” で、好まれて結婚式が、よく行われる月なのだそうです。梅雨に代表される月でこれなしにお米は育たないのです。

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(隣家から頂き、その庭に咲き、そして我がベランダで咲く紫陽花です)

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循環型社会だったお江戸

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  お江戸日本橋七つ立ち 初上り
行列揃えて あれわいさのさ
こちや 高輪 夜明けの提灯消す

こちやえ こちやえ

六郷渡れば川崎の まんねんや
鶴と亀との米まんじゆう
こちや 神奈川いそいで保土ヶ谷へ

こちやえ こちやえ

行列揃えて あれわいさのさ
こちや 高輪 夜明けの提灯消す

こちやえ こちやえ 

 江戸の日本橋を起点に、江戸五街道が整備され、軍事上も、政策上も、商業上も、そして文化や習俗でも、重要な意味と価値を持った、それらの伝達の経路でした。父の会社が、日本橋のライオン像が表玄関にある三越本店の近くにあって、子どもの頃に、何度か連れて行ってもらったことがあります。

 その街道には、「道標(みちしるべ)」が、一里ごとに置かれ、「一里塚」と呼ばれていました。その一里、四町で約4kmごとに「塚」が置かれ、そこに植えられたのが、「榎(えのき)」でした。


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 港区に、「芝二本榎」と言う地名が残されていて、ここも「一里塚」で、歩行で旅をする人への気配りがあったわけです。江戸の物質、情報、生活振り、文化、教育などが、地方にもたらされて、江戸風な生き方、あり方が伝わって行ったたわけです。

 幕末に、わが国を訪れた外国人は、当時、世界最大都市の江戸が、どれほど文化的な街であったかを記録に残しています。浮世絵や歌舞伎や音曲などの娯楽が代表されるだけではなく、上下水道、生活物資の流通、本の印刷や出版、子弟の教育、清潔な街並など、数え上げるときりがないほど優れていたのです。

 南信州の山の中に、「村歌舞伎」が伝えられていて、幕府は禁制にしたのですが、江戸や京で上演された出し物が、村人たちの演出や出演で、密かに演じられ、武家の生き方や倫理や道徳まで、片田舎にも伝えられていたのです。
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 「菅原伝授手習鏡 寺小屋の段」が上演されると、当時、南信の県立高校で英語教師をしていた娘婿の関係で、大鹿村に呼ばれて、家内と一緒に出掛けて、観劇したことがあったのです。江戸中期に始められた歌舞伎で、新橋の歌舞伎座以上に素晴らしくて、舞台に向かって投げ銭をしてしまうほどでした。

 日本中、京や江戸の感化を受け、貧しいながらも、相当に文化的な雰囲気が、日本全国の山漁村にまでも伝播されていたのです。今でこそ、文化の中心のパリの街では、かつてはし尿は、街路にばらまかれていたのに、江戸の街は、住宅ごとに共同便所があって、近在の農村から来た農家のみなさんが買い上げて、肥料にし、作物を作っては、それらを売りにやって来る、いわゆる「循環型社会」が出来上がっていたのです。

 今、日本の街が綺麗だと、外国人観光客やメデイアが言うのは、偶然ではなく、住環境を住みやすく、整えて、保って生活して来た、長い歴史があってのことなのです。そんな江戸がモデルになって、地方の街も、清潔にされ、活気付けられていった面があったのです。この街を流れる巴波川も、舟運で栄え、江戸の香りも物資と共に運ばれてきて、「小江戸」のようだったそうで、その名残を、今も感じられます。

(ウイキペディアの江戸の街、榎、大鹿歌舞伎です)