“Thanksgiving day"

 

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私の恩師の誕生日は、”Thanksgiving day"、日本の祭日では「勤労感謝の日 」でした。1935年、ジョージア州の片田舎で、手広く経営していた<GM>の電気店主の御曹司として生まれています。私は行ったことはありませんが、家内は、子どもたちを連れて、一度お邪魔したことがあります。この恩師の弟さんと家内の下の姉が結婚していた関係で、誘われての訪問でした。

ジョージア工科大学を出て、米空軍のパイロットをしておいででした。その後、企業家として来日され、出張所の開拓と立て直しのために、東京、熊本、甲府、海老名、大阪、京都、札幌、そして京都と移り住んで、2002年の9月に、東京で66年の生涯を終えられました。澄んだ青い目で、実に穏やかな方でした。

27歳から八年間、この方の助手をしながら、企業経営の原理からノウハウ、人間との関わり方や妻の愛し方まで教えてもらいました。奥様は日本人で、二人の男のお子さんがおいででした。今、どうされておいででしょうか。初めは日本の小学校に通っていましたが、後にホームスクールで学んで、お二人とも母国の大学を卒業されています。

あの街では、この方の助手席に乗せていただき、不自由をしなかったのですが、地方都市にいましたし、子どもたちが増えてきましたので、車が必要になり、運転免許証のなかった私は、隣町の教習所に通って取ったのです。免許を取って間もなく、東京に一緒に出張したことがありました。『マサ、君が運転しろよ!』と言われて、彼は助手席に座りました。高速道路に入ってからは、彼は隣りで本を読んでいました。と言うよりは、読んだふりをしていたのです。なぜならページを繰ることがなかったのです。未熟な私の運転に耐えながら、さぞ気がかりだったのでしょう。

40年も前のことになりますが、あの八年間、荒削りで短気でオッチョコチョイの私に忍耐して接してくださり、また教えてくれた、一番長く関わってくれた恩師だと言えます。生きおいでなら、今日は、79歳の誕生日になります。亡くなられる前に、お見舞いをしたのですが、その時、あの八年間の間に、彼と私の間にあった齟齬(そご)を、彼の方から詫びられたのです。私は、『こちらの方こそ、未熟でご迷惑をかけ続けて・・・』とお返したのを、昨日の日の様に覚えています。まだ三十代と二十代で、恩師も私も若かった日の出来事をでした。

あの最初に、車に彼を乗せた日の<忍耐>と<任せ>が、彼の私との八年間、その後、仕事を受け継ぎ、恩師が召されるまでの日々の全てでした。懐かしく思い出している朝であります。

(写真は”wm”によるジョージア州花の「チェロキー・ローズ」です)