ふと思うこともある

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今では、大きなショッピングセンターが近くに出店したおかげで、四路線に増えた学校経由の公共バスのどれかに乗って、週二日、出勤しています。この街で、二校目の学校で教え始めて、七年になります。この間の<学生気質>の変化は、何度かこの欄で触れてきましたが、教師たちにも、同じ様な変化が見られるのです。この一年ほどの変化でしょうか、自家用車で通勤される教師が増えているのです。

学校には北門、東門、西門にバス停があり、東と西の門の近くには、バスターミナルがあるのです。それだけ利用客が多いと言うことになります。その門から校内に入って、教室まで歩くのですが、多くの木や花が植えられあり、飛んでくる鳥たちが、さえずりで歓迎してくれるのです。以前は自転車置き場が、幾つもあったのですが、今では駐輪している自転車や電動自転車は、とても減ってしまいました。

そのかわり、校内の沿道には、所狭しと自家用車が駐車されているのです。かつては見られなかった光景です。教師の待遇が良くなったからでしょうか、利便性からでしょうか、それとも自家用車の所有が、一つの職業的誇りの表れになっているのでしょうか、その変化は歴然としています。

退職後、私の弟は、週に三日ほど、若い教師の相談相手や、彼も卒業生ですから同窓会の事務やクラブ指導の仕事をし続けているのです。そんな弟が、雨の日以外、自転車通勤をしている様です。健康管理のためでしょうか、多摩川を越えて、さっそうと出掛けているのです。

日本でも景気が良くなってきて、誰もが車を持つ様になってきた時期を迎えていました。そんな中で、地方都市におりましたし、仕事の範囲が広くなり、家族も増えて行きましたので、この私も<自家用車族>になったのです。兄から中古の車をもらったり、何台もの車を乗りつぶしてきました。ある時は、二台も車を所有していた時期がありました。ところが今は、車なしの生活をしているのですが、さすが、雨や嵐の日には、『車があったらなあ!』と思ってしまいます。しかし、こちらでは、運転をする自信がありません。

そんなこんなで、徒歩とバス、時にはタクシーの生活をしております。でも慣れたのでしょうか、ふだんは、なんでもありません。先日は、ジャガーという車をはじめて、こちらで見かけました。まさしく庶民の私には、<高嶺の花>、驚いてしまいました。いえ、欲しいわけではありません。もう恰好や見栄は、どうでも好くなりましたから。

(写真は、”WM”による、秋の風景です)

羽田飛行場

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東京オリンピックが開催されたのが、1964年(昭和39年)の10月でした。19才の青年期の真っただ中に、私もおりました。その年に、藤間哲朗の作詞、佐伯としをの作曲で、新川二郎が歌ったのが、「東京の灯よいつまでも」だったのです。

1 雨の外苑 夜霧の日比谷
今もこの目に やさしく浮かぶ
君はどうして いるだろか
ああ 東京の灯(ひ)よ いつまでも

2 すぐに忘れる 昨日(きのう)もあろう
あすを夢みる 昨日もあろう
若い心の アルバムに
ああ 東京の灯よ いつまでも

3 花の唇 涙の笑顔
淡い別れに ことさら泣けた
いとし羽田の あのロビー
ああ 東京の灯よ いつまでも

まだ学生で、外苑や日比谷を、女友だちを連れて歩くような社会人ではなかったのですが、淡い火影の揺れる東京の浪漫を感じさせられて、よく歌を覚えています。とくに、「いとし羽田のあのロビー」と言う、鼻音で歌う箇所が印象深いのです。まだ成田空港ができていませんでしたので、この羽田飛行場が、外国への行き帰りや訪日外国人の日本で唯一の玄関口でした。

この歌が流行ってから、十年以上も経ってからのことでした。一緒に働いていたアメリカ人の企業家の家族を、この羽田まで車で見送ったことがあったのです。車を駐車場に停めて、そのロービーで、休暇で帰国する彼らを見送りました。そこは東京なのですが、そこはかとなく外国を感じさせられる所だったのが印象的だったのです。人も物も匂いも、そこは欧米色で満ちていました。

今のような海外旅行が盛んになる前でしたから、日本人の旅行者は少なく、あの狭いロビーでも十分だったのでしょう。多くの外国人が行き来していた、そのロビーで、この歌のフレーズを思い出したわけです。見送りでも、しばしの<別れ>でしたので、留守の間の責任の重さを、ズシリと感じて家に一人で帰って行ったのです。日本に戻って来られる時も、この羽田に、彼らを出迎えたのですが、その時のことはよく覚えていません。何年も何年も経って、羽田が何度か改装されて、今のような大きく立派になってしまったのには、昔を知っている私は驚かされております。なぜか、あのロービーの人、物、匂いは記憶に鮮明なのです。

(”WM”による、当時の羽田飛行場の「国際線ターミナル」です)