「マスメディア」と言いますと、新聞とか雑誌とかテレビ、今ではインターネットが注目されていますが、昨晩、招いてくださった「食事会」で、日本のマスメディアのことも話題になりました。その交わりには、日本に留学したことがある大学の教師が3人と、東京大学の大学院に留学経験があり、こちらの女子大で英語を教えている五十代の男性のアメリカ人教師、そして中華系のフィリピン人の女性英語教師と私の六人でした。英語と日本語と中国の入り乱れる話しでしたが、結構話題が沸騰していたようです。
『日本のマスコミが取り上げる中国の話題が、否定的過ぎないか!』というのが、大方の意見でした。マスメディアというのは、本来は、「事実報道」をすることが本文であるのに、スポンサーもいますし、読んでもらわなかればならなないので、広告主と読者を喜ばすことが先行してしまい、報道が偏って、結局は非難や批判などになっているようです。放っておいたほうがいいのに、最大の案件でもあるかのように、尾ひれを付けて報道する傾向が、どうも見られるのではないでしょうか。判断は、読者が決めるような情報提供がなされていないで、「鵜呑み」で、その情報を信じこんでしまうのです。
戦争の時には、事実の報道ができなかったと聞いています。検閲され、記事の書き換えが要求され、事実の隠蔽(いんぺい)がありました。新聞を読者が読んで、そう信じていたら、後になって、事実とは甚だしく違っていたことがあったようです。あの事の責任は、どうなっているのでしょうか。紙にインクで印刷して、日にちが過ぎてしまえば、その記事に責任を取らなくていいのでしょうか。「事実」を書くと、犯罪人になってしまう時代だったのです。今も、「筆を曲げる(goo辞書によりますと、『事実と異なることを承知で書く。自分の利益のために嘘を書く。曲筆。 』とあります)」ことが、往々にして有りそうです。
家族で話をしている間に、それを聞いていた、まだ幼なかった次男が、『ねえみんな、明るい話をしようよ!』と、よく言っていました。つい暗い話題になってしまう時に、そういった話を聞きたくなかったのだと思うのです。世の中には暗いこと、失敗談、心配事などはあふれていますから、気を付けないと、そういった話題が、家族の団らんに入り込んできてしまうのです。これと同じように、『こんなことを記事にしないほうがいいのに!』と思うことをよく感じています。だから、相手の人でも、団体でも、国でも、『よい所を見つけて、ほめてあげたい!』と、思うことにして、今、生きています。誰にも、どの団体にも、どの国にも、問題があるからです。
心をげんなりさせ鬱陶しくするような情報に、眼や耳や思いを向けないことです。私の愛読書に、『・・・悪い知らせを恐れ・・・』るなと書いてあります。『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い!』という諺があるようですが、何でもかんでも欠点探しをしては、良い関係を構築したり、回復させていくことなどできません。互いのよい所をほめ合っていれば、欠陥に気づいて、きっと改めるようになるのです。これって「関係構築の秘訣」なのです。私を教えてくださった教師方のほとんどが、そういった人でした。それで、今日も大手を振って、この欠点だらけの私が生きられること、『生きていていいんだ!』と思わせてくれたのです。何と感謝なことではありませんか!
(写真は、雲間から光る「太陽光」です)