入学式

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「山桜」飯田市

    さくら さくら   やよいの空は   
    見わたす限り   かすみか雲か
    匂いぞ出ずる   いざや いざや  見にゆかん

 いつも乗るバス停の後ろ側、アパートと大道の間にこんもりした林のような、植樹されてある所があります。その木々に芽が出てきたと思いましたら、日に日にうす緑の葉が大きくなっていくのが、はっきりと分かります。アパートの脇に植えられた草も木も、一斉に花をつけています。やはり、中国の春は、「春節」のおりには「心」に、自然界の春は、北風が弱まって、陽の光が強くなってくる、3月から4月にやってくるのでしょう。

 こちらの有力なニュース社の「新華社」の記者が、「桜」について、こんなことを書いています。

 『どうして日本人は桜が好きなのか。桜の花は常に、葉が出る前に咲く。 「何もない時に花が咲く」ことで、古くから生命力の象徴として見られてきた。桜が日本人の精神の象徴である理由は、桜が突然開花し、そして突然いさぎよく散り去るところが、日本人の精神性と共鳴しているからである。桜が咲く姿は、力のすべてを出し切っているように見え、生命力の強さを感じさせる。そして満開から散り去る過程も、人生や享楽や美といったものが、あっけないものであると思わせる。潔く散るさまこそ、桜の最も美しい瞬間だと考えられてる。・・・桜の花びらは、平凡に見える。しかし これらが集まると、壮観な情景を形成する。これもまた、日本の集団意識と符号する。日本人は集団において個性が埋没する。しかし非常に強いチームワークを発揮し、大きな力を作り出す。現在、桜の花は日本人の精神の象徴とされることが多いが、法律による国花の規定はない。とはいえ、皇室の象徴である菊の花と共に、国花同様に位置付けられている。最近では、桜の花が散るのを惜しむだけでないよう・・・』

とです。改めて、「桜」を考えますと、小学校の時にかぶった帽子の徽章にも、制服のボタンにも「桜」が刻み込まれていました。江戸の国学者・本居宣長は、

    敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花

と詠んでいます。まだ「ソメイヨシノ」が、まだなかった時ですから、黒ずんだ山肌に、陽を受け自生の「山桜」を見つけて、春の到来を知ったのでしょうか。故郷の懐かしい食べ物よりも何よりも、やはり「桜」の様子が一番郷愁を誘うようです。今日あたり、日本の桜前線は、どこまでの北上して行ってるのでしょうか。今週、長男の長男(孫)が小学校に入学しました。彼の学校教育の開始に、「桜」が寄り添うようにしていますから、まあ日本人は、どの花にも増して、強烈な印象を持って一生を過ごすことになるのでしょうか。これからの長い学校教育の上に、心からの祝福を祈ります。 (4月10日前後で仙台から盛岡当たりでほころび始めているようです)

(写真は、ブログ”桜ん坊”から飯田市の「山桜」です)