臘梅

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臘梅3

 芥川龍之介が、大正14年5月に、「臘梅(ろうばい)」という一文を発表しています。

 わが裏庭の垣のほとりに一株の臘梅(らふばい)あり。ことしも亦(また)筑波(つくば)おろしの寒きに琥珀(こはく)に似たる数朶(すうだ)の花をつづりぬ。こは本所(ほんじよ)なるわが家(や)にありしを田端(たばた)に移し植ゑつるなり。嘉永(かえい)それの年に鐫(ゑ)られたる本所絵図(ほんじよゑず)をひらきたまはば、土屋佐渡守(つちやさどのかみ)の屋敷の前に小さく「芥川(あくたがは)」と記せるのを見たまふらむ。この「芥川」ぞわが家(や)なりける。わが家(や)も徳川家(とくがはけ)瓦解(ぐわかい)の後(のち)は多からぬ扶持(ふち)さへ失ひければ、朝あさのけむりの立つべくもあらず、父ぎみ、叔父(をぢ)ぎみ道に立ちて家財のたぐひすら売りたまひけるとぞ。おほぢの脇差(わきざ)しもあとをとどめず。今はただひと株の臘梅のみぞ十六世(せ)の孫には伝はりたりける。
  臘梅(らふばい)や雪うち透(す)かす枝の丈(たけ)

 この文章は、「青空文庫
(http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/3819_27355.html)」からの転載です。龍之介の家系は、徳川に仕えた家臣の末裔だということに、この文章で触れています。新しい時代を迎えた明治を、戸惑いながら生きていた家系の子だったのでしょう。残念なことに、35歳の若さで自死しています。『僕の将来に対する唯ぼんやりした不安』ということばを彼が残しています。「生きること」は、先がわかっていないので、面白いのではないでしょうか。わかってしまったら、実につまらなくなってしまうに違いありません。

 多くの友人たちがいたのに、どうして助けられなかったのでしょうか。友人や家族の助けが、私たちを支えてくれるのにです。天涯孤独でも、しっかり生き抜いた人は五万といます。大切なのは、「ぼんやりとした不安」が、巨人化しないことですね。「ぼんやり」といえば、春霞がかかったような光景を、何度か日本で経験したことがありますが、こちらでは、経験できないようです。学生さんの作文に、「臘梅」の花のことが書かれていたので、ネットを検索しましたら、芥川の作品に出会いました。雪の中を健気に咲く花は、素晴らしいですね。逆境に咲く花なのでしょうか。旧暦の十二月に咲く冬の花なのですが、「桜」の好きな日本人の私も、この中国原産の「臘梅」の花に、魅力を感じてしまいます。

(写真は、「臘梅」です)

ライバル

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Tシャツ「燃えろ!アタック」

 2002年に、中国のある動物園で、鹿の赤ちゃんが生まれました。この小鹿に名前を公募しましたら、何と、「小鹿純子」と、日本名が名付けられたのです。この名前は、日本のテレビ番組、《燃えろ!アタック》の主人公のバレーボール・プレーヤーの「小鹿ジュン」からとられたものでした。この番組は、1979年から1980年にかけて、日本のテレビ(朝日テレビ系列)で放映され、若者たちに人気番組でした。この番組は、1982年に、「排球女将」という題名で、中国の放映されたのです。それは、国民的ドラマとなって、大反響を呼びます。30年ほど前の番組ですが、そのころ十代、二十代であった中国の40代、50代の女性の記憶に残るものなのだそうです。

 その頃の中国は、スポーツ振興のキャンペーンがなされていて、それと密接に関係して、大人気を呼んだという、社会的な背景があったようです。当時の日本女子バレーは、破竹の勢いで、世界の王者でした。1981年、大阪で「ワールドカップ」の大会が行われました。その時、王者を破ったのが、中国チームだったのです。中国にとって、この優勝は歴史的な大きな出来事となったのです。鄧小平元主席の日本訪問で、『外国に追いつけ、追い越せ!』との経済発展が叫ばれていた時期に、中国は、まずスポーツの世界で世界一を手にしたことになります。経済でも、スポーツでも、当時の中国の《ライバル》は日本だったのです。

「おしん」DVD

 徹底的に相手の日本を研究して、ついに追い越す時代を、今、中国は迎えたわけです。このことがあってから数年した1985年3月から、週二回のペースで、ある日本のテレビドラマが放映されます。それが「おしん」でした。中国名では《阿信》という題で、吹き替えで放映されたのです。当時の平気視聴率(北京市)は、75.9%、最も高かった時には、89.9%の信じられないほどの驚異的な支持をえたのです。

 このブームを、『日本がどうしてあの無残な廃墟から今日の経済大国になったのか。中国の経済学者、日本問題研究科はいろいろ研究しておりました。しかし、「おしん」の、まさにその生きいきとした人物のイメージを通して、日本がどうして経済大国になったのか、ということがわかりました。』と、社会学者の李徳純氏が語っています(劉文兵著「中国10億人の日本映画熱愛史」188頁)。少女時代の可憐さはもちろんのこと、、貧しさの中からの「立身出世」の成功物語、つまり『今は苦しいが、頑張ろう!』との《おしん精神》が共鳴を呼んだのでした。

 日本には、同じ時代に何千もの「おしん」がいたのでしょうか。その中国版の「おしん」の自営業者のみなさんが、今日に中国の繁栄を築いてきたことになります。このブームは、中国のみならず、特に東南アジア諸国でも、同じような現象を起こしたと言われています。ちなみに、2006年には、中国の衛星放送で、「おしん」の再放映がなされています。遥か昔、中国に学んだ日本が、今や中国のモデルになり、今度は日本が、謙虚になって中国に学ぶ時が再びきてるのではないでしょうか。そんなことを思っている、四月の中旬の週末であります。

(写真上は、DVD「おしん」のカバー、下は、「燃えろ!アタック」の一場面です)