オッチョコチョイの鬱


私の愛読書に、「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。」とあります。事がとんとんと運び、何をやってもうまく行き、みんなに褒められ、生きる意欲が充満し、満ち足りた日があります。そんな日には、単純に『喜べ!』と言っているのです。ところが人生、いいことばかりがあるわけがなく、困難に直面し始めると、何をしてもうまくいないことがあるようです。でも、〈逆境の日〉など、思い返しても私の過去の日々にはないのです。死ぬような目にあったというのは、落雷とか、台風の時に湯河原で波にさらわれそうになったこととか、自転車で横転した時とか、スピード違反の運転で渋滞の中に飛び込んですんでのところで車が止まって一命を取り留めたこととか、マンションの上の階の爆発事故で家の中にガスが蔓延していたのに引火しないで爆破と火災を免れたこととか、屋根から落ちてしこたま体を打ったとか、まだまだ数え上げると、十本の指では収まらないような、死にそうになった経験がありますが、それだけです。よく、事業が失敗したとか、仕事で大ミスをして会社に莫大な被害を与えたとか、大失恋をしたとか、中傷され貶められたとかして、死を考えたという人がいますが、そんなことは一度もありませんでした。

ただ悲しかったことは何度もありました。一番悲しかったのは、私を愛し期待してくれた父が、突然に死んだ時でした。退院する日の朝に、病院で亡くなったのです。結婚して、『親孝行をしよう!』と思っていた矢先の出来事でした。職場に母が電話で知らせてくれて、父の病院に駆けつけるまで、泣き続けていました。『いい男がなんで泣いてるんだろう?』など人の目など気にもせず、ただ泣いていました。また大失敗して泣いたこともあります。でも、私が流した涙は、嬉しくて流したことのほうが多いと思うのです。

この失敗の常連というのは、失敗の免疫ができるのでしょうか、束の間は、シュンとさせらるのですが、ものの20~30分もしますと、次の目標に向かって立ち上がって歩み出したり、走り出したりしてしまうのです。言い換えると反省が足りないのでしょうか、それでまた同じことを繰り返すのです。そうやって生きてきて、孫を持つような年令になりました。家を建てることも、老後の備えもしないまま、今日を迎えてしまいました。『不安ではないですか?』と聞かれても、つまされてしまうようにはならないのです。私の父は、亡くなったときに、若干の借金があったようですが、私にはそれもありません。それだけ信用がないから借金もないのだと思いますが、借金をしてまで気取った生活をしようとは思ったことがないのが本心です。私が学んだ人生訓に、『だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。』があります。一度、お金を借りたことがあって、借りた人の奴隷になったように不自由で、惨めな失敗経験があったからです。その借金を返済したとき、『人に貸すときは上げよう。ただし、人には金輪際借りまい!』と決心したのです。


『あなたのような人は絶対、精神病になりませんね!』と太鼓判を押してくださる方がほとんどでした。あにはからんや、そんな私が、〈鬱〉になったことがあったのです。山の向こうの街に、孫を宿した娘がいて、その山を見ているうちに、涙が、ホロリとこぼれ落ちたのです。『ヤバイ!』と、咄嗟に思いましたが、その感情を抑えることができなかったのです。もう怖くて外出ができないのです。もちろん車など運転したいとも思いませんでした。人にも会いたくないのです。中国に行く夢も、もう諦めなければならないほどでした。右腕の腱板を断裂する事故をして、縫合手術を受けて、腕をプロテクターで釣っていた時でした。腱板の断裂が、過去の楽しかった生活と、将来の生活とを繋ぐ事ができなくなってしまって、糸でしょうか、帯でしょうか、それが同じように断たれてしまった、そう思いの中で感じたのです。『左の腕の腱板が、切れたらどうしようか?』、『左腕を守るためには、道路のどちらを歩いたらいいのだろうか?』、『車や自転車に追突されたら左腕が・・・』といった思いが、めくるめく去来するのです。手術は、苦しかったのです。術後も苦しかったし、リハビリも思うようにいかなかったのです。そんな時に、次男が東京から帰ってきました。娘たちもいて、『みんなでお好み焼きを食べに行こう!』と、連れ出そうとしてくれたのです。私は、外出ができなくて、『行かない!』の一点張りでした。ところが次男が、『お父さんが行かないなら俺も行かない!』という声を聞いて、腰を上げたのです。食べたお好み焼きが、食いしん坊の私には、やけに美味しくて、その日から、プツンと欝が消えてしまいました。2週間ほどでしたが、「逆境体験」といえば、この時でしょうか。これは自分の弱さを知らされた、よい時でしたが。

多動性の私が、〈オッチョコチョイ〉に生まれたのは、先天的なのでしょうか、後天的なことなのでしょうか、それをよく考えています。母が子どもの頃は、〈お転婆〉だったと、本人から聞きました。母の故郷に行ったとき、幼い日の母と一緒に遊んだ同年輩のおばさんに会いましたら、『たかちゃんは、とてもお転婆だったんですよ!』と聞かされましたから、疑う余地はないのだろうと思います。落ち着いて生活しているようで、案外とオッチョコチョイな面を見せていた母を思い出すのです。そう見せないために、落ち着こうするのですが、付け焼刃というのでしょうか、もろくも実態が暴露されてしまうのです。そんな母似の私も、初老から中老でしょうか、そろそろ落ち着こうと思っていますが、前途は・・・・。まあ来年は、そんな年になることを願っております。でも、先天なのでしょうか、それとも・・・・どうも反省が足りないようで。

(写真上は、長野県家の入笠山に群生する「スズラン」、下は、BOSSの自転車です)

よい年を!

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 私たちの住んでいる地域は、中国の行政区画によって、かつては「◯◯县◯◯镇◯◯村」と呼ばれていた地域です。現在は大きな地方都市が、近隣を合併させているのです。公共交通網が張り巡らされている現在は、中心街に行くのに、ものの20分か30分ほどの至便さにあります。そんな開発地域に、大きなスーパーが3つほどあります、台湾系とイギリス系、地元のチェーン店で、それぞれ大量仕入れで価格を三店で競争しているようです。12月初旬に、この街最大の商業施設としてもう一店舗開店しました。週末には、驚くほどの人だかりがしていますし、周辺の道路は、大渋滞になっております。先日バスに乗っていましたら、運転手と乗客が、この商業施設のオーナーが、有名な政治家の「女婿」だと言っていました。全国展開の〈ショッピングモール〉で、さながら、ホノルルにある〈アラモアナショッピングセンター〉思わせるほどの充実ぶりで、日本にも珍しいほどの規模ではないでしょうか。

 この一画には、「MUJI」と看板を掲げた店がにあり、何かと思いましたら、「無印良品」とありましたので、日本の企業だったのです。三日ほど前に、このモールに行ってみました。店に入りまして、「MUJI」の商品を手にとってみましたら、日本円と「人民币(renminbi)」の価格が併記されてあったのです。『うわー、高い!』、これが第一印象でした。日本では高級品ではない、この店の商品ですが、隣にあった中国の老舗の価格よりも高いのですから、最高級品になるに違いありません。だからでしょうか、客はまばらでした。もう、中国のみなさんの目線にたってしか、物の価値を判断できなくなりましたから、われわれ庶民にとっては、高嶺の花の商品になります。ところが、日本に帰ると、そんな抵抗は全くなくなってしまうのですから、不思議なものです。そんなことで、手ぶらで出てしまいました。

 九州の熊本にある「味千」というラーメン店が、中国で大きく展開していまして、その店もこのモールの中にあります。私たちの街には、「卤面」と呼ばれる名物の麺類がありますが、これが6元ほどで美味しく食べられるのです。ところが、この日本ラーメンは、30元ほどもします。5杯はゆうに食べられる勘定になるでしょうか。それでも日本製品は人気があります。お菓子を買いましても、その袋には日本語がひと言ふた言書きこまれているのです。時々間違って記入されていたりしますが。日本風シュークリームもあって、先日、友人が買ってきてくれました。街中では、新車がさっそうと走っていて、トヨタ、ホンダ、三菱、スズキ、マツダが、ひときわ多く見られるのです。『日本製品は、抜群に良いですね!』というのが、嬉しい評価です。最近、家にチラシが入っていました。何かといいますと、「温水の洗浄機付きの便座」の広告でした。そういったものが歓迎される、豊かな社会になってきたということでしょうか。『東京のホテルの泊まったとき、トイレの便座が暖かくて、誰か、前に座っったのかと思いました!』、と、天津で一緒だったドイツ人の友人が、冗談を込めて言っていたのを思い出します。こう言うのを、「微に入り細を穿つ」というのでしょうね、日本製品は。驚きと感嘆の的、これが日本製品でしょうか。


 今後、私たちの地域では、激しい販売合戦が展開されそうです。日本と同じように、チラシがポストに定期的に投げ込まれて集客を図っています。この地域には、昔から〈菜市場〉という青物、乾物、肉、タマゴ、雑貨などを商う小さな店の集まった地域があります。野球ができるほどの屋内練習場のような作りで、驚くほどの集客がみられます。魚屋の水が土の通路を泥にして、靴が汚れてしまいますが、とても便利なところです。天津で過ごした一年間、私たちのアパートのすぐ近くにも、この〈菜市場〉がありましたので、スーパーでは特殊なもを買い、生鮮品は、ほとんどここで買いました。「パン粉」だってありましたし、お願いするとミンチの肉も売ってくれました。日本にも、地方には残っている風情なのでしょうが、今はもう見られなくなった光景でしょうか。

 クリスマスセールが一段落し、すでに正月用品が、「春節」に向けて売られ始めているようです。日本の昔の暮れの風景、正月用品を売る店に集まる人並み、よくテレビで、上野の御徒町が放映されていましたが、どこの街も実に賑々しかったのを思い出します。今は、「通販」の時代なのでしょうか。『廣田さん、ネットで買うと安く手に入れることができますよ!』と、教えてくれる友人がいます。家内が、〈USB〉をスーパーで買ってきました。140元ほどしたでしょうか。念のため、中国版のamazonで検索しましたら、同じ容量の製品が40元ほどでした。もう中国も、通販の時代なのだと思わされて、ちょっと損をした感じがいたしました。
 
 日常を、このように生きて、年の瀬を迎えています。六回目の師走、再び「師」になる機会が与えられましたが、私は、ここで走りまわることはありません。「師走」ということばは、Wikipediaによりますと、『日本では、旧暦12月を師走(しわす)または極月(ごくげつ、ごくづき)と呼び、現在では師走は、新暦12月の別名としても用い、その由来は僧侶(師は、僧侶の意)が仏事で走り回る忙しさ(平安後期編『色葉字類抄』)からという平安期からの説がある。また、言語学的な推測として「年果てる」や「し果つ」等から「しわす」に変化したなどという説もある。』とありました。坊主ではない(!?)のですが、気持ちはわかります。


 よい(好い、善い、良い、佳い、嘉い、美い)年をお迎えください。心から幸福と平安と喜びを願っております。

(写真上は、中国切り絵の「福」、中は、天津古文化街、下は、大賑わいの菜市場前の路上風景です)