感謝

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 口下手で、生意気で、手だけが早かったので、若い頃の特技は、「喧嘩」でした。俊敏な運動神経を父母から受け継ぎましたので、少々運動は得意だったかも知れません。ですから、どんな相手も怖いと思ったことがないのです。怖さ知らずの恐ろしさこそが、相手を先に怯(ひる)ませてしまう、これが技術巧者の相手に勝るのでしょうか。若気の至りと、物怖じしないクソ度胸で、売られた喧嘩を買い、たまには卑怯な相手には、売ってもみました。男の四人兄弟で育った者が、みんな喧嘩が強いのかというと、そうでもないようです。それでも兄たちに殴られて、痛さを知っていること、その痛さで怯えたり、尻込みしないで耐え、組み返していこうという心意気が養われたのでしょうか。そんな力量があれば、喧嘩には負けない、これが我流の〈勝ち極意〉でした。父も、『喧嘩で負けてきたら、家に入れない!』と変な家訓を掲げていましたから、負けられませんでした。もちろん、空手の猛者と対面で、殴り合ったら負けるかも知れませんが、その時の目と表情が大切なのだと思っていましたから、相手を先に飲んでしまえば、勝負は決まったものでした。

 そんな野蛮な若かりし日、青春の蹉跌(さてつ)を通過して、老いを迎えて恥じております。「恥」は覆い隠しておくべきなのでしょうか。『天国まで秘して持っていくべきことだ!』という方がいますが、「善い人間」に思われている自分が、実は、『そうではない!』と言わないと、どうしても落ち着かないのです。このまま天国に行ってしまっては、嘘と恥の上塗り(!?)になってしまって、きまりが悪いのです。もちろん召されてしまってから、何を噂されようが、もう地上でのことは関係なくなってしまうのでしょうが。

 二十五までの自分に、本当にあきれ返っていたのです。『こんな生き方(具体的には書かなのが賢明かとも思います)をしていたら駄目になってしまう!』、そんな思いが、心の思いの隅っこからフツフツと沸き上がってくるのを感じていました。それは3年の仕事が満ちようとしていた直前に、『廣田くん、僕の弟子のいる短大の、高等部に教師の機会があるけど行ってみませんか?』と言って紹介してくれたのが、W大の教授で、所長をしておられた方でした。こ生意気な私を、この方は目に留めてくれて、人生の線路を敷いて下さり、何かと面倒を見てくれていたのです。それで、勤め始めたのが女子高でした。何時でしたか、「高校教師」というドラマがあったようですが、聞くところによると、教師にあるまじき風の教師の姿が演じられていたそうですが、私は観たことがありませんでした。私が教壇に立った学校には、おかしな話にならない伝統(!?)がありました。『廣田くん、〈小さくて可愛い恋人〉を作ってもいいんだよ!』、と鼻の下が長いという典型的な音楽教師がいて、その彼に唆(そそのか)されました。男性教師たちのソフトボールの倶楽部に誘われて一緒にプレーをしたのですが、そんな時の彼らの話題の中で、卒業生が話題になることがありました。『ほら◯◯、☓☓先生の可愛い子・・・』、私は、悔い改めて真面目な教師になろうと決心して転職していたのです。酒もタバコも喧嘩も止めました。というよりはやめられた、そういった方がいいでしょうか。

 「聖域」だと言われていた世界が、そうではないことを知って呆れ返っていました。『これは、例外的なことなのだ!』と、今でも思っていますが、小説がテレビのドラマ化されるのですから、ほかにも、悪モデルになる学校が実在していたかも知れません。男を見る目の育っていない少女を、自分の恋愛の相手にする彼らの馬鹿さ加減、教師の風上にも置けない彼らに耐えられないで、2年で、その学校をやめました。所長や、短大の教務部長をしていた先生には、大変申し訳ないことをしてしまったのです。

 今思うと、誰にでもできない経験の中を通されてきたということになるでしょうか。恋文やギフトを下駄箱の中に入れられたり、待ち伏せされたり、家まで付いて来られたりの、強(したた)かな少女たちもいましたが、あの時の同僚のようなことは決してしませんでした、本当です。女子高の男性教師、どんな男でも、少女たちの憧れの対象になるからでしょうね、『もてた!』と自慢する人もいますが。うーん、「恥な過去」を持つことは、「善行」だけで過ごして、自惚れるよりもいいかも知れませんね。ちょっと恥ずかしいのですが、それでも生きるって楽しかったと思うのです。あっ、臨終のことばのようになってしまいましたが、今も生きていてよかったと思っています。自分の人生に記念すべき出会い、ターニング・ポイントがあったから、生き方を変えることができ、いえ、自分は力ではありません。それで今日、ここで、人に迷惑をかけずに生きておられるのを、彼此(ひし)と感じております。実は、今日は、私の誕生日で、朝の4時45分に山奥で生まれたそうです。両親に感謝!(投稿に躊躇しましたが、19日になって再投稿を決めました)


(写真上は、故郷の山からフジを望むもの、下は、12月になってから咲き出す「プリムラ・ジュリアン」です)

人の特質

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 上智大学で、「死の哲学」を、長く講じておられた、アルフォンス・デーケン教授が、「人が持つ3つの特質」ということで、次の三点を上げておられます。

 ① 考えること
 ② 選択すること
 ③ 愛すること

 どういう事を言おうとしておられるのかを考えてみました。私が人間であるのは、「考える」からなのだということでしょうか。いつも私は考えているのですが、空腹時には、食べ物のこと、ちょと寂しくなると、過去や子供たちや孫たちのことに思いを馳せます。事件が起きますと、なぜこういったことが起きたのだろうか、結果はどんな影響になるのだろうか、関係者の気持ちなどを考えるのです。そんなことを考えていましたら、北朝鮮の金正日死去のニュースが、先ほど、耳に飛び込んできました。そうしましたら、横田めぐみさんのことを思い出したのです。何時でしたか彼女の手紙を読んだことがありました。小学校5年生のめぐみさんが、旅先からご両親や弟たちにあてたものでした。そこには、

  『たくや、てつや、お父さん、お母さん、もうすぐ帰るよ。まっててね。めぐみ。』

とありました。めぐみさんは、ご承知のように、北朝鮮に拉致されて、強制的に家族から引き離されてピョンヤンで生活していると聞きます。結婚もし、お嬢さんがいて、そのお嬢さんが日本にやってきたこと、そんなことを知っています。ご両親が、拉致被害者の会の責任をとっておられ、テレビのニュースになんども出ておられるのを見ました。お母様の手記も呼んだことがあります。犯罪によって分断された家族とは、どういったものなのかも考えてみたことがありますし、もし、これが自分や自分の身近にいる人だったら、どんなことになっているのだろうかとも考えたのです。もちろん、めぐみさんは、どんなことを考えながら、異国の地で生きてきているのだろうかとも思わされます。ご両親、二人の弟のことを考えない日などなかったに違いありません。

 日本で生活をしていたら、自分の意志で学校も職業も結婚相手も、人生に関わる様々な、〈選択〉ができたのだろうと思うのです。そういった選択権を暴力で奪われて、思ってもみなかった、第三者や国の目的にために強制されて生きなければならなかったに違いありません。人である証の1つは、「選択すること」なのに、自分の願望を奪われ、他者の意思に従って生きるというのは、非人間的な取り扱いなのです。1977年に拉致された時が、めぐみさんの年齢が、13歳でしたから、今年47歳になっておられます。この年の春、「北国の春(いではく作詞、遠藤実さっきょく)」のレコードが発売されています。これを文章化してる時、道路の向こうから、この曲が流れてきたのに驚かされました。

 めぐみさんの家族への手紙の中には、家族への思いが込められていますから、死亡との北朝鮮からのレポートの信憑性が疑われますから、生きていらっしゃれば同じ家族への「愛」の思いを溢れるほどにお持ちに違いありません。「愛すること」も「考えること」も、人の心の中に精神的な活動ですから、どんなに自由を奪われ、将来を奪われ、家族を奪われても、これだけは、誰によっても奪われることはないわけです。社会学者は、人間の基本的な欲求の1つに、「愛することと愛されること」を上げています。特にお母様の早紀江の思いを知ると、早急に帰国の道が開かれることを切に願わずにはおられません。

 デーケン教授は哲学者ですから、言われることは意味深長です。私は、上智大学で、彼の講座を受講したことがあります。1959年に来日され、誰もが避けることのない「死」に対して、積極的に学ぶことを推奨され、「死に対する準備教育」に携わってこられました。私は、彼の講義を聞きながら、死を避ける傾向の極めて強い日本の社会の中で、覆いがかけられ、その上にほこりがうず高く積もった「死」を白日のもとに晒した貢献は大きいと思います。生きたいと願うなら、「死」を学ぶことが、きわめて重要であることを主張されているのです。もし私たちが、充実した生を生きたいと願うなら、生の終着駅の「死」に、真正面から立ち向かうように勧めておいでです。

 誰の「死」も願ってはいけませんが、人道にもとる行為の人が、なくなることによって、新しい展開がなされ、抑圧された人々が自由を手にすることができるなら、それもありかなと、迷いながら考えております。帰りを30数年も待ちわびているご両親と弟さんたちの気持ちを考えますと、悲しい人の死が、希望の光となるのかも知れないなと、そんなことを思っている、「冬至」間近な日の午後であります。

(写真は、北国の春を告げる花の開花です)