静かに、そして激しく

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 今年の3月11日に発生しました、「東日本大震災」を思い返しております。被災され、ご家族を亡くされ、家屋も田畑も乗り物も、何もかも無くされたたみなさんのことが、まず第一に気になります。そんな突如として起こった自然災害の中で、世界中が注目した、あの「東北人の忍耐強さ」は圧巻でした。何もない、狭い国土に生まれた私たちですが、一朝ことが起きたときに、あのように振舞われたみなさんを、遠く中国の地から望みながら、「日本に生まれた幸せ」を、しっかりと覚えさせてくださったことに、心からお礼を申し上げ、心から感謝しております。しかし年の瀬を迎えて、ご不自由なことが、なおなお多いことかと思います。物の豊かさに代わる、「心の豊かさ」で、この災難を乗り越えて、新しい年に希望をつないで、越年されますように心から願っております。失ったものは甚大なのですが、残されたものの多さにも、目をおとめになられて、あらゆる面での復興が、迅速になされますようにと願っております。

 
 その復興のために、労を惜しまれず、命を賭してに、様々な分野で、お励みくださった、自衛官、警察官、消防署、公務員のみなさん、そして地元の消防団、被災者のみなさん、そのほかに他の地から駆けつけられたたボランテアのみなさん、本当にご苦労様でした。こういった一丸になって取り組む姿も、日本人の素晴らしい美点だということを改めて教えられました。また諸外国からの物心両面の援助や激励にも、大いに感動させられました。とくに生存者の捜索のために、駆けつけてくださった中国やアメリカなど諸外国からの救援隊のみなさんに、心からの感謝を覚えております。ありがとうございました。生きていることが、こんなに素晴らしいことであることも、悲しい出来事の中で学ばせていただいた大きなことでありました。かけがいのない国土が、いえ地球が、猛威を振るうこともありますが、そのようなさなかに、多くの愛が動くことを知って、「人」であることの素晴らしさも思わされております。多くの愛が、静かに、そして激しく動いた2011年でした。


 2012年が、起死回生の祝福の年となりますように、この大晦日の午後、衷心から祈り、切に願っております。「生きている幸せ」を、思い起こさせてくださって、一言お礼を申し上げます。ありがとうございました。

追伸;私の左手首には、『 Unite To  be ONE! がんばろうNIPPON 』のリストバンドが、いまだにはめられたままです。

(写真上は、中国の救援隊のみなさん、中は、自衛隊員のみなさん、下は、世界からの「祈り」です)

12月17日


 北朝鮮の公式な発表として、指導者・金正日が12月17日に死にました。その時に思い出したのは、1つの〈ブラック・ジョーク〉でした。

 1953年3月5日のことです。クレムリンに半旗が掲げられていました。何が起こったのでしょうか、それを見たある人が電話をかけて、その半旗掲揚の理由を聞いたのです。電話の向こう側から、『スターリンが死んだからです!』と答えが返ってきたのです。その意味が分からなかったのでしょうか、この人は何度も何度も電話をかけて問い直すのです。ついに電話を受け取った人が怒って、『なぜ、なんども同じことを聞いてくるのか?』と聞いたとき、その人は、『何度聞いても好い気持ちがするからです!』と答えたそうです。

 これは、ロシア版ですが、もし、北朝鮮版があるなら、抑圧されてきた国民や、拉致被害者や留守家族のみなさんは、平壌の人民政府の事務局に、『国中に半旗が掲げられているのはどうしてですか?』と、なんどもなんども電話を入れて聞きたいところでしょうか。

 この12月17日ですが、実は私の誕生日なのです。中部山岳の山奥で、村長さんの奥さんが、産婆役をかってくださって生まれたのだそうです。『早朝4時45分出生!』と、父のその年の手帳に記されてありました。この日を、かの北朝鮮では、〈生まれてはいけない日〉に決まったと、今朝のニュースが告げていました。つまり出生の届出をしていけない、笑うこともお酒を飲むことも不謹慎な日と定められるようです。私の生まれた「喜びの日」なのに、北朝鮮では「太陽が落ちた悲しみの日」として金正日を追慕するのだそうです。

 
 それで、ウィキペディアにあったブラック・ジョークをもう1つご紹介しましょう。『スターリンが死んだとき。フルシチョフら党幹部たちは、彼をどこに埋葬すればいいか悩んだという。なるべく遠くに葬りたかったのだ。でもどこの国も遺体の埋葬を引き受けようとはしなかった。困りきっていたところ、イスラエルから「建国に際し干渉しなかった恩があるので引き受けよう」との申し出があったが、フルシチョフはこれに対して丁重に断った。訳を聞かれると、フルシチョフはこう答えた。「だって彼の地では以前、一人復活しているじゃないか。」 』

 きっと体の中には、朝鮮民族の血が、滔々と流れているであろう私も、「そこに生まれなかった幸福」を感じながら、「北朝鮮に生まれた不幸」を感じているみなさんのことに思いを馳せながら、『どうして半旗が・・・』とピョンヤンに電話を入れたい衝動にかられております。言論統制の国だったら、こんなブログを書いたら、逮捕されて銃殺でしょうね。くわばら、くわばら!

(写真上は、国連旗の半旗掲揚、下は、結婚式に着る「韓服」で正装した新郎新婦です)

蚊難

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 今朝方、つまり真冬の12月の30日の明け方2時半のことです。左手の甲が痒くなって目を開けましたら、『ブーン!』と、聞き覚えのある音がしてきたではありませんか。ななんと蚊でした!昨日は暖かな日で、最低気温の予報が13度くらいでしたから、それで蚊が出没したのでしょうか。まあ、信じられないことで、想定外の「蚊難」でした。飛び起きて、夏の残りの痒み止めをすり込みました。かゆみはとれたのですが、眼が冴えてしまいまったのです。それで、読みかけの本を取り出して、ベッドの中で読み始めた次第です。

 だれも刺されなくとも、決まって蚊に刺されるのが私ですから、血か体質に問題があるのかも知れません。だいたい毎夏、蚊帳をつって寝ているのですが、ひとシーズンに5回ほどは、蚊帳の中で蚊に刺されてしまう私です。そうでなければ、蚊帳の外から、蚊帳に触れている手を刺されることもあります。5年目の華南の地での「蚊難」には、本当に参ってしまいます。来年は、〈体質改善〉をしなければいけないかなと思うのですが、根本的な対策などあるのでしょうか。特別に美味しい物を食べているわけではありませんから、食習慣との相関関係はないと思うのですが。

 夜明けにはまだ3時間程もありましたから、読書ができたことでよしとしたのです。しかし、来シーズンは強敵の蚊と停戦同盟を結ぶ必要も、真剣に考えている、2011年がもう一日の晦日であります。改めて美い年を迎えられますように!

(写真は、終の棲家にしたいと願っている岩手県・岩泉線「押角の森」(山岡 亮治氏撮影)です)

オッチョコチョイの鬱


私の愛読書に、「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。」とあります。事がとんとんと運び、何をやってもうまく行き、みんなに褒められ、生きる意欲が充満し、満ち足りた日があります。そんな日には、単純に『喜べ!』と言っているのです。ところが人生、いいことばかりがあるわけがなく、困難に直面し始めると、何をしてもうまくいないことがあるようです。でも、〈逆境の日〉など、思い返しても私の過去の日々にはないのです。死ぬような目にあったというのは、落雷とか、台風の時に湯河原で波にさらわれそうになったこととか、自転車で横転した時とか、スピード違反の運転で渋滞の中に飛び込んですんでのところで車が止まって一命を取り留めたこととか、マンションの上の階の爆発事故で家の中にガスが蔓延していたのに引火しないで爆破と火災を免れたこととか、屋根から落ちてしこたま体を打ったとか、まだまだ数え上げると、十本の指では収まらないような、死にそうになった経験がありますが、それだけです。よく、事業が失敗したとか、仕事で大ミスをして会社に莫大な被害を与えたとか、大失恋をしたとか、中傷され貶められたとかして、死を考えたという人がいますが、そんなことは一度もありませんでした。

ただ悲しかったことは何度もありました。一番悲しかったのは、私を愛し期待してくれた父が、突然に死んだ時でした。退院する日の朝に、病院で亡くなったのです。結婚して、『親孝行をしよう!』と思っていた矢先の出来事でした。職場に母が電話で知らせてくれて、父の病院に駆けつけるまで、泣き続けていました。『いい男がなんで泣いてるんだろう?』など人の目など気にもせず、ただ泣いていました。また大失敗して泣いたこともあります。でも、私が流した涙は、嬉しくて流したことのほうが多いと思うのです。

この失敗の常連というのは、失敗の免疫ができるのでしょうか、束の間は、シュンとさせらるのですが、ものの20~30分もしますと、次の目標に向かって立ち上がって歩み出したり、走り出したりしてしまうのです。言い換えると反省が足りないのでしょうか、それでまた同じことを繰り返すのです。そうやって生きてきて、孫を持つような年令になりました。家を建てることも、老後の備えもしないまま、今日を迎えてしまいました。『不安ではないですか?』と聞かれても、つまされてしまうようにはならないのです。私の父は、亡くなったときに、若干の借金があったようですが、私にはそれもありません。それだけ信用がないから借金もないのだと思いますが、借金をしてまで気取った生活をしようとは思ったことがないのが本心です。私が学んだ人生訓に、『だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。』があります。一度、お金を借りたことがあって、借りた人の奴隷になったように不自由で、惨めな失敗経験があったからです。その借金を返済したとき、『人に貸すときは上げよう。ただし、人には金輪際借りまい!』と決心したのです。


『あなたのような人は絶対、精神病になりませんね!』と太鼓判を押してくださる方がほとんどでした。あにはからんや、そんな私が、〈鬱〉になったことがあったのです。山の向こうの街に、孫を宿した娘がいて、その山を見ているうちに、涙が、ホロリとこぼれ落ちたのです。『ヤバイ!』と、咄嗟に思いましたが、その感情を抑えることができなかったのです。もう怖くて外出ができないのです。もちろん車など運転したいとも思いませんでした。人にも会いたくないのです。中国に行く夢も、もう諦めなければならないほどでした。右腕の腱板を断裂する事故をして、縫合手術を受けて、腕をプロテクターで釣っていた時でした。腱板の断裂が、過去の楽しかった生活と、将来の生活とを繋ぐ事ができなくなってしまって、糸でしょうか、帯でしょうか、それが同じように断たれてしまった、そう思いの中で感じたのです。『左の腕の腱板が、切れたらどうしようか?』、『左腕を守るためには、道路のどちらを歩いたらいいのだろうか?』、『車や自転車に追突されたら左腕が・・・』といった思いが、めくるめく去来するのです。手術は、苦しかったのです。術後も苦しかったし、リハビリも思うようにいかなかったのです。そんな時に、次男が東京から帰ってきました。娘たちもいて、『みんなでお好み焼きを食べに行こう!』と、連れ出そうとしてくれたのです。私は、外出ができなくて、『行かない!』の一点張りでした。ところが次男が、『お父さんが行かないなら俺も行かない!』という声を聞いて、腰を上げたのです。食べたお好み焼きが、食いしん坊の私には、やけに美味しくて、その日から、プツンと欝が消えてしまいました。2週間ほどでしたが、「逆境体験」といえば、この時でしょうか。これは自分の弱さを知らされた、よい時でしたが。

多動性の私が、〈オッチョコチョイ〉に生まれたのは、先天的なのでしょうか、後天的なことなのでしょうか、それをよく考えています。母が子どもの頃は、〈お転婆〉だったと、本人から聞きました。母の故郷に行ったとき、幼い日の母と一緒に遊んだ同年輩のおばさんに会いましたら、『たかちゃんは、とてもお転婆だったんですよ!』と聞かされましたから、疑う余地はないのだろうと思います。落ち着いて生活しているようで、案外とオッチョコチョイな面を見せていた母を思い出すのです。そう見せないために、落ち着こうするのですが、付け焼刃というのでしょうか、もろくも実態が暴露されてしまうのです。そんな母似の私も、初老から中老でしょうか、そろそろ落ち着こうと思っていますが、前途は・・・・。まあ来年は、そんな年になることを願っております。でも、先天なのでしょうか、それとも・・・・どうも反省が足りないようで。

(写真上は、長野県家の入笠山に群生する「スズラン」、下は、BOSSの自転車です)

よい年を!

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 私たちの住んでいる地域は、中国の行政区画によって、かつては「◯◯县◯◯镇◯◯村」と呼ばれていた地域です。現在は大きな地方都市が、近隣を合併させているのです。公共交通網が張り巡らされている現在は、中心街に行くのに、ものの20分か30分ほどの至便さにあります。そんな開発地域に、大きなスーパーが3つほどあります、台湾系とイギリス系、地元のチェーン店で、それぞれ大量仕入れで価格を三店で競争しているようです。12月初旬に、この街最大の商業施設としてもう一店舗開店しました。週末には、驚くほどの人だかりがしていますし、周辺の道路は、大渋滞になっております。先日バスに乗っていましたら、運転手と乗客が、この商業施設のオーナーが、有名な政治家の「女婿」だと言っていました。全国展開の〈ショッピングモール〉で、さながら、ホノルルにある〈アラモアナショッピングセンター〉思わせるほどの充実ぶりで、日本にも珍しいほどの規模ではないでしょうか。

 この一画には、「MUJI」と看板を掲げた店がにあり、何かと思いましたら、「無印良品」とありましたので、日本の企業だったのです。三日ほど前に、このモールに行ってみました。店に入りまして、「MUJI」の商品を手にとってみましたら、日本円と「人民币(renminbi)」の価格が併記されてあったのです。『うわー、高い!』、これが第一印象でした。日本では高級品ではない、この店の商品ですが、隣にあった中国の老舗の価格よりも高いのですから、最高級品になるに違いありません。だからでしょうか、客はまばらでした。もう、中国のみなさんの目線にたってしか、物の価値を判断できなくなりましたから、われわれ庶民にとっては、高嶺の花の商品になります。ところが、日本に帰ると、そんな抵抗は全くなくなってしまうのですから、不思議なものです。そんなことで、手ぶらで出てしまいました。

 九州の熊本にある「味千」というラーメン店が、中国で大きく展開していまして、その店もこのモールの中にあります。私たちの街には、「卤面」と呼ばれる名物の麺類がありますが、これが6元ほどで美味しく食べられるのです。ところが、この日本ラーメンは、30元ほどもします。5杯はゆうに食べられる勘定になるでしょうか。それでも日本製品は人気があります。お菓子を買いましても、その袋には日本語がひと言ふた言書きこまれているのです。時々間違って記入されていたりしますが。日本風シュークリームもあって、先日、友人が買ってきてくれました。街中では、新車がさっそうと走っていて、トヨタ、ホンダ、三菱、スズキ、マツダが、ひときわ多く見られるのです。『日本製品は、抜群に良いですね!』というのが、嬉しい評価です。最近、家にチラシが入っていました。何かといいますと、「温水の洗浄機付きの便座」の広告でした。そういったものが歓迎される、豊かな社会になってきたということでしょうか。『東京のホテルの泊まったとき、トイレの便座が暖かくて、誰か、前に座っったのかと思いました!』、と、天津で一緒だったドイツ人の友人が、冗談を込めて言っていたのを思い出します。こう言うのを、「微に入り細を穿つ」というのでしょうね、日本製品は。驚きと感嘆の的、これが日本製品でしょうか。


 今後、私たちの地域では、激しい販売合戦が展開されそうです。日本と同じように、チラシがポストに定期的に投げ込まれて集客を図っています。この地域には、昔から〈菜市場〉という青物、乾物、肉、タマゴ、雑貨などを商う小さな店の集まった地域があります。野球ができるほどの屋内練習場のような作りで、驚くほどの集客がみられます。魚屋の水が土の通路を泥にして、靴が汚れてしまいますが、とても便利なところです。天津で過ごした一年間、私たちのアパートのすぐ近くにも、この〈菜市場〉がありましたので、スーパーでは特殊なもを買い、生鮮品は、ほとんどここで買いました。「パン粉」だってありましたし、お願いするとミンチの肉も売ってくれました。日本にも、地方には残っている風情なのでしょうが、今はもう見られなくなった光景でしょうか。

 クリスマスセールが一段落し、すでに正月用品が、「春節」に向けて売られ始めているようです。日本の昔の暮れの風景、正月用品を売る店に集まる人並み、よくテレビで、上野の御徒町が放映されていましたが、どこの街も実に賑々しかったのを思い出します。今は、「通販」の時代なのでしょうか。『廣田さん、ネットで買うと安く手に入れることができますよ!』と、教えてくれる友人がいます。家内が、〈USB〉をスーパーで買ってきました。140元ほどしたでしょうか。念のため、中国版のamazonで検索しましたら、同じ容量の製品が40元ほどでした。もう中国も、通販の時代なのだと思わされて、ちょっと損をした感じがいたしました。
 
 日常を、このように生きて、年の瀬を迎えています。六回目の師走、再び「師」になる機会が与えられましたが、私は、ここで走りまわることはありません。「師走」ということばは、Wikipediaによりますと、『日本では、旧暦12月を師走(しわす)または極月(ごくげつ、ごくづき)と呼び、現在では師走は、新暦12月の別名としても用い、その由来は僧侶(師は、僧侶の意)が仏事で走り回る忙しさ(平安後期編『色葉字類抄』)からという平安期からの説がある。また、言語学的な推測として「年果てる」や「し果つ」等から「しわす」に変化したなどという説もある。』とありました。坊主ではない(!?)のですが、気持ちはわかります。


 よい(好い、善い、良い、佳い、嘉い、美い)年をお迎えください。心から幸福と平安と喜びを願っております。

(写真上は、中国切り絵の「福」、中は、天津古文化街、下は、大賑わいの菜市場前の路上風景です)

男の締めくくり

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 先日、「象の背中」という映画を見る機会がありました。2005年1月から6月まで産経新聞に連載された秋元康の原作で、2006年に単行本として出版され、2007年の秋に公開上映されています。渋い中年男性を演じて抜群の演技力を評価されている役所広司の好演でした。その内容は、マンションを企画販売をする会社の部長である主人公が、癌に冒されされていることを主治医に告げられます。『どのくらい生きられるんですか?』との彼の問に、『一概にはいえませんが、半年が一応の目安かとも思います。』と、48歳の彼に応えます。他に転移している肺ガンでしたから、治療を勧められますが、それを拒否します。妻と娘には極秘にし、長男に事実を告げます。男同士ということでしょうか、『昨日までと同じ生活をする・・・一緒に背負(しょ)ってくれ!』と、男の決意を告げます。小説や映画の技法かも知れませんが、もう一人、愛人にも末期のガンであることを告白するのです。一緒に見ていた家内に、『あなたは誰に告白します?』と聞かれて、ことばを濁してしまいましたが、きっと私も愛人にだけ告白することでしょう。しかし「愛人」は、中国語ですと、夫に対する妻、妻に対する夫を、そう呼びますから、中国式の「愛人」ですので念のため。そんな彼が、残された日々を精一杯に生きようとするのです。どう生きるのかといいますと、過去に出会った人々、例えば中学時代のクラスメートを訪ねて初恋を告白します。また、ぎくしゃくとした関係にあった高校時代の野球部の同級生、仕事上で倒産にまで追い込んだ経営者、父親の死後から疎遠だった兄を訪ねて、過去の精算の努力をしていきます。

 主題となった「象の背中」と、この主人公の藤山幸弘のガン宣告と、どう関わりがあるのかと思っている間に、『アッ、そうか!それでこんな題にしたんだな!』と象の習性を思い出したのです。死期を悟ったゾウは群から独り離れていきます。そして断崖から流れ落ちる滝の後ろにある洞窟にわけいって、そこで死を迎える、そんな話でした。象の背中を見たのでしょうか、あるいは象のように独りになるのではなく、残された時間を治療のために奔走することをやめ、男の生の締めくくりをしていくのでしょうか。あるいは、死に逝く象の背中に乗って運ばれようとするのでしょうか、そんな話に、なんとなくつまされてしまったのです。きっと同期に入社しただろう部長仲間の同僚も、長く連れ添った奥さんも、平然と振る舞いながらも、ガン宣告以降の彼の言動の異変に、何かを感じている、映画では、そう演じられていたようです。


 「一生の不覚」という言葉があります。中国語で言いますと、「遺恨終生」と言うそうで、一生涯、遺恨を残すという意味なのでしょう。小学校6年の時に、社会科の授業でライバルだったKくんと、週末に、立川に遊びに行く約束をして、駅で待ち合わせをしました。ところが、すっかり忘れてしまった私は、その約束をすっぽぬかしてしまったのです。なんと約束不履行です。翌日、学校に行ってから、そのことが分かって、それ以来、Kくんの怒りを買って絶交状態になりました。地元の中学に進まなかった私は、彼との接点が断たれれてしまって、取り返しのつかない「一生の不覚」で、今日に至っています。半世紀以上、それを修復をしないままなのです。このことを思い起こされてしまったのです。

 実は先週、こちらでお世話になり、ご家族の必要で帰国なさった方が、久しぶりに仕事で中国に来られて、我が家にも寄って下さる約束をしたのです。その日の3時に、果物を買い、あべかわ餅を作り、美味しいお茶の用意をしていたのですが、待てど暮らせどおいでにならないのです。なにか急用があったのかと思って、5時頃までお待ちして諦めました。実は、アパートの下においでになられていて、呼び鈴を押し、携帯にメールを送っていたのに、私と家内は、全く両方とも気づきませんでした。一階の玄関でベルを押すと聞こえるはずなのに、聞こえませんでした。それに、何と携帯電話が充電切れだったのです。充電を始めたときに、メールの着信を記憶していたコールがあって、この方がメールをしておられたのを知ったのです。『しまった!』、それこそ、50数年ぶりの不覚を再犯してしまったのです。このことを、なんどもメールでお詫びしましたら、忍耐強いこの方は、『帰国したら渋谷で会いましょう!』と言ってくださったのです。こんなに嬉しいことはありませんでした。来春の帰国時に、渋谷で再会しましたら、改めてお詫びしようと思っております。

 さてKくんは、今どこで何をしているのでしょうか。彼にも会って謝罪をしなければいけないと思わされています。アッ、この藤山幸弘のように、医者に癌だと宣告されているのではありません、今のところは。なんとなく未精算のことごとが思い起こされているのです。どうにかして、お詫びの行脚をしないといけないようですが、今は中国にいて動きが取れません。来春の帰国時に、街で床屋をしている同級生がいるので、彼なら情報を持っていると思うので、訪ねて聞いてみることにします。脚のスネ、指や腕にある傷跡を数えたことがあります。傷の上に傷もありますから、親にもらった大事な肌を傷つけてしまった不幸を詫びました。それ以上に、人間関係のキズも多くあって、この映画の主人公のように数え上げなければならないようです。不覚を心から詫びなければならない人の多さに愕然としていますが、その残された機会を失わないようにと決心している「圣诞节(降誕節)」の夕べであります。

(写真上は、主演の役所広司、下は、「象の背中」のDVDです)

綻び

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 『薬には、73000種類ほどあります!』と、以前ラジオでしたか、大阪の薬大の先生が話しておられました。驚くほどの種類と数があることになります。医療でみられる「プラシーボ効果」ということばを聞いたことがおありでしょうか。〈病気についての基礎知識〉によりますと、『プラシーボ(Placebo)の語源はラテン語 の「I shallplease」(私は喜ばせるでしょう。)に由来しているそうです。そこから患者さんを喜ばせることを目的とした、薬理作用のない薬のことを指 すようになったのです。通常、医学の世界では乳糖や澱粉、生理食塩水が使われます。従って、プラシーボ効果(反応)は、このような薬理作用のないものによりもたらされる症状や効果のことをいいます。それはいい場合と(治療効果)、悪い場合(副作用)の両面があります。「これは痛みによく効くよ。」といわれて、乳糖を飲んで、痛みがなくなったり、逆に吐き気がでたりすることがあります。この場合、プラシーボにあたるのが乳糖であり、プラシーボ効果にあたるのが、鎮痛効果であり(治療効果)、吐き気(副作用)であるわけです。プラシーボ効果がどうして起こるかについては、次のようなことが考えられています。1)暗示効果、2)条件付け、3)自然治癒力、4)その他 』とありました。

 これは、いわゆる「ニセ薬」のことです。砂糖でもシロップでも何でもいいのですが、『これを飲むと、痛みがなくなる効果がありますので、飲んでみてください!』と医者に言われて、飲んでみると、実際に鎮痛効果があらわれるのだそうです。きっと、医者が持っている〈ことばの権威〉と深く関係があるのだろうと思います。『医学を学んで、お医者さんになったこの方が、効く、というのだから、きっとそうに違いない!』と信じて、医療効果が実際にあることになります。小学校入学前に、肺炎にかかって、町の国立病院に入院しました。死線をさまよいながら生還した私は、小学校3年まで病気欠席の多い児童でした。風邪をひくと、母は私を必ず病院に連れて行ったのです。『今度肺炎になったら死を覚悟してください!』と、主治医に言われていたからなのです。ですから、薬を沢山飲んできたことになります。医療保険などなかった時代、山奥で病気になったのですから、治療のための費用を考えてみると、父の負担は相当なものだったのではないでしょうか。

 家内が、昨年の11月に、市内の医院に、1週間入院したときに、病室前の廊下で、医者と患者が取っ組み合いの喧嘩をしていたのを目撃したのだそうです。医療費の払えなくなった患者さんが、治療を中止した医者に抗議して喧嘩になったようです。「前払い」をしないと、治療が継続されない、そういった医療制度、病院のシステムなのですから、仕方がないわけです。幸い、私たちは「前払い」をすることができましたから、治療をうけることができました。入院中に、シロップではなく、注射用のカプセルを飲み薬にと渡されたのです。これを知った友人が、医者に抗議してやめたことがありました。この医者は、「プラシーボ効果」を狙ったのでしょうか、実際にそのカプセルに効能があったからでしょうか、私たちの経験からして、その投薬を疑ってしまったわけです。何も食べない1週間に、その薬は、素人判断で、きっと効かなかっただろうし、飲んでいたら逆効果だったかも知れません。でも、その選び取りはよかったと思うのです。

 この大阪の薬大の先生は、なぜそんなに多くの薬があるのかを、こう言っていました。『みんな効かないからです!』とです。ずいぶんはっきり言ったので驚きましたが、実に正直な方だなと思っていました。でもお名前を失念してしまいました。効かない薬を飲ませるのは、もう「プラシーボ効果」以外には考えられませんね。先日、私は、「漢方医薬」の処方箋を書いていただいて、三日間飲みました。苦かったので、きっと〈良薬〉に違いないと思ったのですが、ある方に言わせると、『十人に一人が効きます!』と言っていました。でも、この数年、あるビタミン剤を飲んでいます。義妹や娘たちが、せっせと送ってくれますので、頑張って飲んでいます。歳のせいでしょうか、肩や関節が痛むので、人に勧められて、EXというビタミン剤も飲んでるのですが、飲まないときと飲むときと歴然の違いがあるのです。家内にも飲むように勧めましたら、彼女も、この効果を経験しているのです。このままだと、一生飲むことになるのでしょうか。

 こちらの友人たちも、『これがいいですよ!』とか、『あれがいいですよ!』と言っては紹介してくださったり、持ってきてくれます。気遣ってくださるのはとても嬉しいことです。今のところ、病気がありませんので、投薬を飲むことはないのですが、なんとなく体に〈綻び(ほころび〉が出てきているのを、この頃感じております。うーん、『少年老いやすく・・』の意味が分からなかった日が懐かしく感じる、冬至間近の朝であります。

(写真は、最近勧められている「霊芝(万年茸)」です)

感謝

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 口下手で、生意気で、手だけが早かったので、若い頃の特技は、「喧嘩」でした。俊敏な運動神経を父母から受け継ぎましたので、少々運動は得意だったかも知れません。ですから、どんな相手も怖いと思ったことがないのです。怖さ知らずの恐ろしさこそが、相手を先に怯(ひる)ませてしまう、これが技術巧者の相手に勝るのでしょうか。若気の至りと、物怖じしないクソ度胸で、売られた喧嘩を買い、たまには卑怯な相手には、売ってもみました。男の四人兄弟で育った者が、みんな喧嘩が強いのかというと、そうでもないようです。それでも兄たちに殴られて、痛さを知っていること、その痛さで怯えたり、尻込みしないで耐え、組み返していこうという心意気が養われたのでしょうか。そんな力量があれば、喧嘩には負けない、これが我流の〈勝ち極意〉でした。父も、『喧嘩で負けてきたら、家に入れない!』と変な家訓を掲げていましたから、負けられませんでした。もちろん、空手の猛者と対面で、殴り合ったら負けるかも知れませんが、その時の目と表情が大切なのだと思っていましたから、相手を先に飲んでしまえば、勝負は決まったものでした。

 そんな野蛮な若かりし日、青春の蹉跌(さてつ)を通過して、老いを迎えて恥じております。「恥」は覆い隠しておくべきなのでしょうか。『天国まで秘して持っていくべきことだ!』という方がいますが、「善い人間」に思われている自分が、実は、『そうではない!』と言わないと、どうしても落ち着かないのです。このまま天国に行ってしまっては、嘘と恥の上塗り(!?)になってしまって、きまりが悪いのです。もちろん召されてしまってから、何を噂されようが、もう地上でのことは関係なくなってしまうのでしょうが。

 二十五までの自分に、本当にあきれ返っていたのです。『こんな生き方(具体的には書かなのが賢明かとも思います)をしていたら駄目になってしまう!』、そんな思いが、心の思いの隅っこからフツフツと沸き上がってくるのを感じていました。それは3年の仕事が満ちようとしていた直前に、『廣田くん、僕の弟子のいる短大の、高等部に教師の機会があるけど行ってみませんか?』と言って紹介してくれたのが、W大の教授で、所長をしておられた方でした。こ生意気な私を、この方は目に留めてくれて、人生の線路を敷いて下さり、何かと面倒を見てくれていたのです。それで、勤め始めたのが女子高でした。何時でしたか、「高校教師」というドラマがあったようですが、聞くところによると、教師にあるまじき風の教師の姿が演じられていたそうですが、私は観たことがありませんでした。私が教壇に立った学校には、おかしな話にならない伝統(!?)がありました。『廣田くん、〈小さくて可愛い恋人〉を作ってもいいんだよ!』、と鼻の下が長いという典型的な音楽教師がいて、その彼に唆(そそのか)されました。男性教師たちのソフトボールの倶楽部に誘われて一緒にプレーをしたのですが、そんな時の彼らの話題の中で、卒業生が話題になることがありました。『ほら◯◯、☓☓先生の可愛い子・・・』、私は、悔い改めて真面目な教師になろうと決心して転職していたのです。酒もタバコも喧嘩も止めました。というよりはやめられた、そういった方がいいでしょうか。

 「聖域」だと言われていた世界が、そうではないことを知って呆れ返っていました。『これは、例外的なことなのだ!』と、今でも思っていますが、小説がテレビのドラマ化されるのですから、ほかにも、悪モデルになる学校が実在していたかも知れません。男を見る目の育っていない少女を、自分の恋愛の相手にする彼らの馬鹿さ加減、教師の風上にも置けない彼らに耐えられないで、2年で、その学校をやめました。所長や、短大の教務部長をしていた先生には、大変申し訳ないことをしてしまったのです。

 今思うと、誰にでもできない経験の中を通されてきたということになるでしょうか。恋文やギフトを下駄箱の中に入れられたり、待ち伏せされたり、家まで付いて来られたりの、強(したた)かな少女たちもいましたが、あの時の同僚のようなことは決してしませんでした、本当です。女子高の男性教師、どんな男でも、少女たちの憧れの対象になるからでしょうね、『もてた!』と自慢する人もいますが。うーん、「恥な過去」を持つことは、「善行」だけで過ごして、自惚れるよりもいいかも知れませんね。ちょっと恥ずかしいのですが、それでも生きるって楽しかったと思うのです。あっ、臨終のことばのようになってしまいましたが、今も生きていてよかったと思っています。自分の人生に記念すべき出会い、ターニング・ポイントがあったから、生き方を変えることができ、いえ、自分は力ではありません。それで今日、ここで、人に迷惑をかけずに生きておられるのを、彼此(ひし)と感じております。実は、今日は、私の誕生日で、朝の4時45分に山奥で生まれたそうです。両親に感謝!(投稿に躊躇しましたが、19日になって再投稿を決めました)


(写真上は、故郷の山からフジを望むもの、下は、12月になってから咲き出す「プリムラ・ジュリアン」です)

人の特質

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 上智大学で、「死の哲学」を、長く講じておられた、アルフォンス・デーケン教授が、「人が持つ3つの特質」ということで、次の三点を上げておられます。

 ① 考えること
 ② 選択すること
 ③ 愛すること

 どういう事を言おうとしておられるのかを考えてみました。私が人間であるのは、「考える」からなのだということでしょうか。いつも私は考えているのですが、空腹時には、食べ物のこと、ちょと寂しくなると、過去や子供たちや孫たちのことに思いを馳せます。事件が起きますと、なぜこういったことが起きたのだろうか、結果はどんな影響になるのだろうか、関係者の気持ちなどを考えるのです。そんなことを考えていましたら、北朝鮮の金正日死去のニュースが、先ほど、耳に飛び込んできました。そうしましたら、横田めぐみさんのことを思い出したのです。何時でしたか彼女の手紙を読んだことがありました。小学校5年生のめぐみさんが、旅先からご両親や弟たちにあてたものでした。そこには、

  『たくや、てつや、お父さん、お母さん、もうすぐ帰るよ。まっててね。めぐみ。』

とありました。めぐみさんは、ご承知のように、北朝鮮に拉致されて、強制的に家族から引き離されてピョンヤンで生活していると聞きます。結婚もし、お嬢さんがいて、そのお嬢さんが日本にやってきたこと、そんなことを知っています。ご両親が、拉致被害者の会の責任をとっておられ、テレビのニュースになんども出ておられるのを見ました。お母様の手記も呼んだことがあります。犯罪によって分断された家族とは、どういったものなのかも考えてみたことがありますし、もし、これが自分や自分の身近にいる人だったら、どんなことになっているのだろうかとも考えたのです。もちろん、めぐみさんは、どんなことを考えながら、異国の地で生きてきているのだろうかとも思わされます。ご両親、二人の弟のことを考えない日などなかったに違いありません。

 日本で生活をしていたら、自分の意志で学校も職業も結婚相手も、人生に関わる様々な、〈選択〉ができたのだろうと思うのです。そういった選択権を暴力で奪われて、思ってもみなかった、第三者や国の目的にために強制されて生きなければならなかったに違いありません。人である証の1つは、「選択すること」なのに、自分の願望を奪われ、他者の意思に従って生きるというのは、非人間的な取り扱いなのです。1977年に拉致された時が、めぐみさんの年齢が、13歳でしたから、今年47歳になっておられます。この年の春、「北国の春(いではく作詞、遠藤実さっきょく)」のレコードが発売されています。これを文章化してる時、道路の向こうから、この曲が流れてきたのに驚かされました。

 めぐみさんの家族への手紙の中には、家族への思いが込められていますから、死亡との北朝鮮からのレポートの信憑性が疑われますから、生きていらっしゃれば同じ家族への「愛」の思いを溢れるほどにお持ちに違いありません。「愛すること」も「考えること」も、人の心の中に精神的な活動ですから、どんなに自由を奪われ、将来を奪われ、家族を奪われても、これだけは、誰によっても奪われることはないわけです。社会学者は、人間の基本的な欲求の1つに、「愛することと愛されること」を上げています。特にお母様の早紀江の思いを知ると、早急に帰国の道が開かれることを切に願わずにはおられません。

 デーケン教授は哲学者ですから、言われることは意味深長です。私は、上智大学で、彼の講座を受講したことがあります。1959年に来日され、誰もが避けることのない「死」に対して、積極的に学ぶことを推奨され、「死に対する準備教育」に携わってこられました。私は、彼の講義を聞きながら、死を避ける傾向の極めて強い日本の社会の中で、覆いがかけられ、その上にほこりがうず高く積もった「死」を白日のもとに晒した貢献は大きいと思います。生きたいと願うなら、「死」を学ぶことが、きわめて重要であることを主張されているのです。もし私たちが、充実した生を生きたいと願うなら、生の終着駅の「死」に、真正面から立ち向かうように勧めておいでです。

 誰の「死」も願ってはいけませんが、人道にもとる行為の人が、なくなることによって、新しい展開がなされ、抑圧された人々が自由を手にすることができるなら、それもありかなと、迷いながら考えております。帰りを30数年も待ちわびているご両親と弟さんたちの気持ちを考えますと、悲しい人の死が、希望の光となるのかも知れないなと、そんなことを思っている、「冬至」間近な日の午後であります。

(写真は、北国の春を告げる花の開花です)

女の修行

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越後瞽女(ごぜ)の小林ハルさんが、『いい人と歩けば祭り、悪い人と歩けば修行。』、と言われています。教育など受けたことがない方だったのでしょうけれど、驚くほどの含蓄のあることばで、なんども頷いてしまいました。学校出たての頃に、上司の狡さに憤った、未熟な私は、一悶着起こしてしまいました。青年期の融通の無さなのでしょうか、理想主義に青臭く生きて、現実の世の中を知らなかった結果だと思います。そんな私だったのに、味方してくださった方がいました。警視庁に勤めながら、夜間の大学を卒業し、転職して私と同じ職場におられた係長でした。ちょうど〈兄貴〉と呼ぶのが相応しい年齢で、まだお酒を飲んでいた頃でしたので、よく連れ歩いてもらいました。彼の親しい仕事上の友人が福岡にいて、出張した折に、大変なお世話をしてくれました。若い頃の〈世話〉ですから、お察しがつくと思いますが、博多弁というのでしょうか、九州ことばが〈男っぽさ〉を感じさせてくれて、さっぱりした〈九州男児〉と呼ぶのに相応しい方で、博多の中洲を、あちらこちらと案内してくれたのです。

思い返しますと、沢山の方々と出会って、共感したり、尊敬したり、あるいは嫌悪したりしてきましたが、ハルさんが言われうように、善人との関係は、〈祭り〉のように、賑々しく、楽しく、時間がたってしまうのを惜しむような交わりをもちました。「学ぶ」ということばの語源は、「真似ぶ」だと言われています。師が書かれた書を、一画一点同じように書く、つまり真似して書き上げることが、いわゆる〈書道の真髄〉だと言われています。スポーツにしても、上手な投手の投球法を、打者の打法を真似ることから始め、迷ったときには、基本に帰って、また真似るということによって、好い結果を残せる選手になっていくわけです。空手だって、「型」から入り、組み手はあとから鍛錬していくのです。ですから書を読んで学ぶことよりも、人から学んだことのほうが多かったのではないでしょうか。

ところが、〈良い人〉とばかり出会わないことが、かえって生きていることを楽しく面白くしてくれるのでしょうか。今で言う、〈空気の読めない人〉とか、ひっきりなしに否定的なことを言う人、人を非難し中傷してやまない人、人と和していくことのできない独行の人、お酒を飲まないと何もいえない人、飲むと目を座らせてくグズグズと愚痴をならべる人、一人でしゃべりまくっている人、いじけている人、自慢する人、過去のことばかりに思いを向けている人、挙句のはてに、奥さんの悪口をしていた中学の英語教師、下ネタばかりが話題のおじさん、男の中にこういう人が意外に多かったと思います。こういった人を「反面教師」、ハルさんに言わせると「悪い人」と言うのでしょうか。この所謂(いわゆる)、「悪い人」に「真似ぶ」こと、『彼らの真似はすまい!』とは思わされましたが、彼らから学んだことのほうが、〈いい人〉から学んだことよりも、はるかに多いのだと思います。ハルさんは、『悪い人との関わりこそが、私の人生修行でした!』と言っておられるのです。「修行」を、goo辞書で調べますと、『[名](スル) 1 悟りをめざして心身浄化を習い修めること。仏道に努めること。 2 托鉢(たくはつ)・巡礼して歩くこと。「全国を―する」 3 学問や技芸を磨くため、努力して学ぶこと。「弓道を―す… 』とあります。


避ける代わりに、恨む代わりに、その人から学んだハルさんは、盲目という境遇の中で、人にいえない程の辛い経験を、現・三条市に明治30年に生まれ105歳でお亡くなりになるまで、お持ちだったようです。特に家族からの仕打ちは、恨んでも余りあるものがあったのですが、彼らを赦してしまう度量の大きさには驚かされます。何と、黄綬褒章を受賞され、「人間国宝」と呼ばれる晩年を迎えておられます。「瞽女さん」とは、「盲御前(めくらごぜん)」から派生した呼び名で、門付けをしながら、三味線を弾き語りし、お足(お金のことです)やお米や野菜などを貰って、村から村を渡り歩いて生きていた、旅芸人でした。ハルさんは、自分の境遇を跳ね返して、すべての悪しきこと、悪い人との出会いの経験を「修行」にして、生きたのです。同じ新潟県の出身で、連合艦隊司令長官だった山本五十六が、『苦しいこともあるだろう、言いたいこともあるだろう、不満なこともあるだろう、腹の立つこともあるだろう、泣きたいこともあるだろう、これらのことをじっとこらえてゆくのが男の修行である。』と言っています。ハルさんのことばにくらべると、私の好きな日本人の一人でありながら、何か色褪せて、口先だけのことばに聞こえてなりません。古い日本の雪と因習の深い裏日本の片田舎で、女が生きるということ、しかも目が不自由だっただけで、不条理の中を生きなければならなかったハルさんの「女の修行」のことばは、千金にも万金にも兆金にも聞こえるのです。

(写真上は、小林ハルさんのお顔、下は、ハルさんの生まれた新潟県三条市です)